6-5
再度連絡があったのは早朝だった。
寝ぼけながら応答するとビデオ通話だった。いきなり春樹の顔面が映り、涙に濡れた声で「浩太、生まれた」と一言だけ、吐息のように零した。
カメラは切り替わり、薄暗く調光された白い室内が映る。ベッドには淡いピンクの病衣を着た律。
疲れた表情だが満たされている笑みを浮かべて、小さな赤ん坊を抱えている。
「おめでとう。律、頑張ったな」
俺は涙腺が緩くなるのを感じながら言う。律はとても優しい声で囁く。
「はじめましての奈々ちゃんやでー」
カメラは母親の胸元で眠る小さな命に近付いた。
必要なものは全てそこにあるという風に、無防備で安らかな寝息を立てている。この世の何にも変え難い奇跡を目の当たりにしているようで、再び目頭が熱くなる。
噛み締めるように、ありったけの愛情を込めて新しい生命の名前を口にする。
「奈々……頑張ったな、よかったな」
それから母子の状況を尋ねて、皆元気だという答えが返ってくる。
疲れているなら面会はしないほうが良いか尋ねる。そうしたら、「今日来なかったらどつくぞ」と律がどすの効いた口調で言ってきた。
午後の面会時間に合わせて家を出た。家族の時間も必要だろうと、少しずらして到着するよう考えた。
この時期にしては珍しく、雲に切れ間が散らばっていて、久々に空の青を思い出した。奈々は良い日に誕生した。
空気の奥も、ひりつく冷たさではなく、爽快な冬の匂いを運んでいる。
産婦人科に到着して、指示された部屋番号まで辿り着く。
ノックをしてゆっくりと扉を引き、遠慮がちに頭だけ先に覗かせると、気配を感じた春樹が満面の笑みを向けた。
既に律の両親と胡桃が来ていた。春樹の親は少し前に一度家に帰ったらしい。
祝いの言葉を伝えながら部屋に入ると、胡桃は突然、体当たりをする勢いで飛びついてきた。「うち、おねえちゃんになったの!」と嬉しそうに燥ぐ彼女を抱き上げて律の方へと進む。
「二人とも少しは休めたか?」
「少しはね。でも、さっさと退院したいわあ」
律が伸びをしながら言う。それを苦笑しながら受けて、胡桃をベッドに降ろす。
隣のベビーコットを覗く。しっかりと起きている奈々はまだ焦点の合わない目で宙を見つめていた。
何かを探すような動作で小さい指が動いている。
「奈々〜、浩太おじちゃんだぞお、はじめましてー」
春樹が横に立ちながら紹介をする。あどけない奈々の表情に目を細める。
「浩太、抱っこしたげて?」
と律が勧めた。返事もしないうちに春樹が丁寧な手つきで赤ん坊を抱き上げて、機嫌が悪くないことを確認すると腕に渡してきた。
頭と身体を腕でしっかり固定しながらも、優しく抱える。胡桃のときを思い出す。軽いのに確実に感じる命の重さと温かさ。
「可愛いなあ」
そう言うと、まるで応えるかのように奈々は口元を緩ませて微笑みのような表情を作った。
一斉に笑いが響き、主役じゃないことに不満な胡桃は「うちは? うちは?」と催促して更に笑いが広がった。
何度か立ち会って知っている。
数ある人生の出来事の中で、これが最も尊く、恍惚なのだ。生命の営み、命の循環。そんな言葉が思い浮かぶが、それだけではない。
新しい命を迎えるこの空間には人の明るい部分を最大限に引き出す力がある。
生死の両面を含んだ意味での命とは、圧倒的な善なのだと婆ちゃんは言っていた。その陰性を担うのが死であれば、陽性を担うのが生。
命あるもの全ての不可分な二面。新しい生命を迎えるというのは、生の持つ向善性に直接触れるようなものだ。
そのあまりの神々しさに、平伏し、絶対的な忠誠を誓いたくなる衝動がある。何があっても守るよ、と。
より良い人間であるように。より強く、より聡明であるように。この子がどこに行っても、迷ってしまわないようにと、願う。
そんな宣誓を心の中でひっそりと立てる。人の誕生にはそれほどの力がある。
いつか俺自身がそれを体験するのかは分からない、しかしこの子達に対してはそれに準ずる想いが確かにある。
胡桃に出会って初めて理解した婆ちゃんに言われてきた言葉。この人生でこんなに柔らかな感情に触れられるなんて、これ以上の幸福はないのではなかろうか。
光に満ちている。
そして今でも、真っ先にこんな感情を伝えたいのは翔一である。
「コータ、ショーチもうちのいもうと会いにくるかな?」
車の中で突然、胡桃が言い出した。
しばらく病院にいたのだが、面会時間の終了が迫り帰ろうとしていた。
もう少し律に付き添っていたい春樹に、先に胡桃を家まで届けてくれないかと頼まれたのだ。
疎外感を感じたのだろう、その場で泣き始めてしまった胡桃も、『帰りに肉まんでも買うか』と言ったら最終的に大人しく付いてきた。
バックミラーで後部座席を確認すると、神妙な顔の小学一年生が足をバタつかせて、春樹の車から借りたチャイルドシートに座っている。
半分にした肉まんの食べかすがこぼれていて、頬の周りにも食べ残しが見える姿には呆れながらも頬が緩む。
「そうだな。来てくれるといいな。でも翔一は遠くに住んでるからなあ、簡単には来れねえよ?」
無垢な子どもに『俺のせいで、翔一はもう、浜音には来ないよ』と言えるはずもなく、残酷かどうか判断のつかない嘘を吐く。
そこを追及されても困るので、すかさず加える。
「胡桃は翔一が大好きなんだなあ」
「うん。うちな、ショーチのおよめさんになるんや」
「はは。そっか、かっこいいもんな」
「コータもおよめさんになるん? コータもショーチだいすきやもんね!」
さすがに心臓が一拍飛んだ。
この問いへの解答はどうなんだろうか、教育を考慮したほうがいいのだろうか。子どもの目は誤魔化せないと言うが、この洞察力は末恐ろしい。
何かしら気を逸らす話題を見つけるまで、とにかく嘘は吐かずに濁らせようと思う。
「男の場合は旦那さんて言うんだぞ。それに、そんなこと言ったら翔一、怒っちゃうだろ」
「なんで? ショーチもコータがすきやって言っとったよ?」
純粋な疑問を受けて、その言葉の意図せぬ破壊力に胸が軋む。
「それは、友達としての好きな? それより、ほら胡桃、夕焼けが少し見えるぞ」
適当に振った話題は成果を得た。
久々の夕陽を見る胡桃は甲高い声で「きれー」と言いながら窓の中に閉じ込められた雲の切れ間が橙色に彩るのを眺めている。
勘付かれないように小さな息を零す。
俺もあの『好き』が自分のと同じものならどれほど良かっただろうと思う。
しかし、あれすら半ば強要したものではないか。
夏のバーベキューの話だ。
絶賛恋バナ好きの胡桃は翔一に色々と訊き出していたのを覚えている。「彼女おるん?」と訊いてきたときには流石の翔一も呆気に取られて律の援護を目で探していた。
当の律は心底可笑しそうに、肉を食いながら傍観を決め込んだ。
めげずに問い返す六歳児にしぶしぶ「いません」と顔を赤くしながら答えた。「じゃあ、すきな人は」と容赦なく続けるので、「胡桃ちゃんは?」と反撃をした。
意外と巧みな技だと思った。
「うちはいっぱいいるよ! 母ちゃんでしょ、父ちゃんでしょ、あとじいちゃん、ばあちゃん——」
しばらく名前というか役職の列挙が行われた。
解答の系統を認識した翔一は、これなら答えられると言わんばかりの表情をした。
「あとコータもだいすき!」
締め括るように元気に発した胡桃があまりにも可愛くて思わず抱き着いた。
「俺もだいすきだぞぉ、胡桃〜!」
まるで褒められたかのような透き通った笑いが辺りに響いて、大人は皆目を細めた。
「ショーチもコータがだいすき?」
いまだに込み上げる笑いに混じって胡桃は尋ねた。
翔一は「え?」と乾いた声で言うと、一瞬固まって、どう反応すればいいのか考えるようだった。
翔一の家庭環境については少し聞いたことがあった。俺とは違って、そういう感情表現をするような家庭とは思えなかった。
胡桃はただ、自分に響いた便利な言葉を覚えて使いたいだけなのだ。深い意味はないのだろう。
しかし、翔一にとっては少し対応し辛い話題なのだろうと思った。
「こぉら、胡桃、翔一困ってるじゃねえか」
助け舟を出すように言った。
「コータは? ショーチのことだいすき?」
腕の中でじたばたと暴れる胡桃は上目遣いに視線を送った。そのときも俺は少し考えるべきだったのかもしれない。
しかし、そこには何の悪気も下心もなかった。小さい頃から普通に「好きだよ」と言われ、言ってきたから。
その二文字の重みが耐え難いものに感じられるなんて、あのときは、知らなかったのだ。
「おう、翔一も大好きだぞ!」
満足した胡桃はようやく腕の拘束から解かれて改めて翔一の傍へと走って行き、どこで覚えたのか「両想い?」と尋ねた。
しまった、と思ったが笑いの方が先に出た。微笑ましい以外の何物でもない光景。しかし、翔一はバツが悪そうに、
「う、うん。そう、かもね」
と濁らせた。
俺はただ照れているのだろうと感じ、可愛い人だなと漠然と思った。もう少し観察眼が働いていたならきっと、翔一の赤面が単なる気恥ずかしさからきているのではないと気付いたのかもしれない。
その後、「あれはびっくりしたなあ」と何でもないかのように振り返るので気に留めることもなかった。
いずれにせよ、変わったのは精々、傷の深さだけだ。
俺はどうせ翔一に恋しただろうし、伝えても伝えなくても、俺達は道を違えることになっただろう。
その結論に至るのに、時間を掛け過ぎた。
俺が俺であり、彼が彼であるから、始めから他の結末はなかった。
であれば、思いっきり傷つこうと思う。
そんな形でしか許されないのなら、それが俺と彼を繋ぐ関係だ。
勝手に妄想した二人の生活とか。旅行に行ったり、猫でも飼ったり、水槽をまた作ったり、春樹や澄子と遊んだり、翔一の友人にも会ったり。
毎日一緒にご飯食べて、翔一が疲れていたら好物を作ってあげて、『おはよう』とか『いただきます』を言い合って。
子供はできなくても、ちゃんと家族として。全部、生まれる前に死んでしまった仮定の上にしか存在しない俺達。
そんなことを考えている自分に、思わず引いたが、それすら受け入れるべきなのだろう。




