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十二月が皮膚に刺さる湿った風と共に到来した。
先月解禁した越前ガニ漁はいよいよ最盛期を迎え、漁師達は真夜中から船の準備に出港にと、活気づいている。
無論、浜音とて例外ではなく、港から少し離れた『民宿うきぐも』にもエンジン音や金属音が早朝から届いてくる。
灰色一色の冬がしっかりと腰を据えたのだと実感する。
夏場とは異なり年末に訪れる客は軒並みカニ目当てだ。
週末には漁港近くの民宿が賑わうが、町外れの宿をわざわざ選ぶ人は少ない。冬季の収入源はほとんど食堂一本に絞られるのだ。
だから営業時間も漁師の行動に合わせて調整したり、定休日も開けたりと、工夫をしながら季節を乗り切らなければならない。
今年は年末年始に出前サービスも企画してみた。一人で回せるか不安だが、春樹が配達の助っ人として名乗り出てくれた。
容器や保温バッグなど、出前の必要品を安く譲ってくれた知り合いの料理人の店から帰る途中。
みぞれが降り始め、車のフロントガラスに小さく弾けるリズムを刻んでいる。それを定期的にワイパーの伸びのある機械音が払っていく。
まだ十七時にもなっていないというのに辺りは薄暗く、ヘッドライトの中を雨でも雪でもない半端な粒が無数に白く舞っている。
「そういや年末、スミちゃんは帰ってくるんけ?」
音楽をかけるでもなくエンジン音だけが鳴り響く中、助手席で窓の外を眺めていた春樹がふと思いついたかのように言った。
昼間のうちに出前のメニューの相談も兼ねて、買い出しに同伴してもらった。荷物の件は一人でも十分だったのだが、流れで付き添ってきたのだ。
「さぁ、美容院は稼ぎ時だからな。どっちかっていうと年明けてから来るんじゃねえ?」
俺は道路から目を離さずに答えた。
横で何やらがさがさと気配がする。
「おまえらまだ喧嘩してんの?」
「はぁ? もう解決してるよ。ただお互い忙しいからあまり連絡取ってないだけだ」
プルタブを引く小気味良い音が車内に鳴ると、目の前に缶コーヒーが差し出された。無言のまま受け取って一口飲むと口の中に香ばしい苦みが広がる。
実際、春樹に告げた答えには半分程度の真実しか含んでいない。
十月のあの日から、澄子との間に微かに気まずさが残っているからだ。何度か電話で話したが、翔一の件は浮上してこなかった。
俺も意識的にその話題をずっと避けている。また怒らせてしまいそうで。
だから、喧嘩はしていないが、前のようには話せないでいる。今は春樹の嫁が言った通り、時間が解決してくれると信じるしかない。或いは正月に帰省した際に彼女と話す機会はあるかもしれない。
「なら、いいけどの。確かに去年より忙しそうにしとるやの、おまえ。普段から料理しとっても出前ってだけでこんなに準備することあるんやな」
「そりゃな。調理方法も工夫しなきゃいけないし。色々勝手が違うからな。武志に相談して正解だったわ」
「あー、さっきの鮨屋の? 東京で知り合ったんやっけ?」
「おう。ほら、京都に行く前にあちこち旅してたろ? 東京にいたときにこっちの料理してる店があるって聞いて。それからも『出戻り組』ってことで付き合いはあったんだけど」
「へぇ。相変わらずおまえ、何気に顔広いんやの。にしても出前かー。島崎のじっちゃんが店やっとったときも、したことねえの」
「ん。まあ。常連に提案してみたら意外と受けがよくてな。予約まで入れようとする奴もいたから、ならちゃんとやってみるかって」
実を言うともう一つきっかけがあった。
冬場の民宿は特に閑散としていることを何となく話していたら、翔一が提案したのがそもそもの始まりだった。
電話で、ほんの酒のつまみとして出した話題だったが、数日後には簡易的なビジネスプランまで作成して送ってきた。
元手の計算や狙い目の時期、コストと利益のグラフまで作って、その上での価格設定や運営形態などのアドバイスまで纏められていた。
本人は会計士でも営業職でも何でもないので、参考くらいにしかならないと言い張ったが、そんな知識の欠片もない俺から見たら精緻に仕上げられた仕事だった。
何より、地域民の生活習慣や俺自身の性格まで考慮して考えてくれていたのだ。
その後、翔一とのことがあって実行する気にはなれなかったのだが、虚勢でしかないと思った。
『うきぐも』を守るためにできる限りを尽くしたいと、そう思うのであれば、感情に流されて試せるものも試さないのは意に反している。
友人のために翔一は手を煩わせて計画書を作ったのだ。友人を超えられなかったことにいつまでも拗ねてはいられない。
俺はその指針に従い動き出した。
常にやるわけではなく、祝日や季節を狙った戦略が推奨されていた。
初期コストを抑えるため、俺の周りの人間の協力まで盛り込んで。たとえば、宣伝に関してはプロに委託するより恵梨香にデザインしてもらうのはどうかと。
地元愛の強い浜音なら、認知度を上げるには寧ろ効果的な可能性があると。その通りに進めたら、驚くほど事が順調に進んだのだ。
出前を始めたところでどれほどの効果があるかは分からない。翔一の想定だとそれなりの利益が望める。
俺もここ数年で久々に手応えを感じている。何より気づかないうちに受け身になっていた自分の姿勢が浮き彫りになり、変わらなければという闘志さえ感じている。
「俺の家族もひっで楽しみにしとるっぽいわ。母ちゃんなんか『今年は少し楽さしてもらえるで有難いのぉ』って喜んどったし」
春樹の母親が肩を拳で叩きながら大声で言っている姿が浮かんで、笑った。
「毎度ありっす」
酒屋で春樹を降ろしてから店に戻り、荷物を片付けると、開店準備に取り掛かった。
暖房を入れたばかりの店内は寒い。それを紛らわすかのように厨房の中をせわしなく動き回る。
ずっと動き回っている。一か月以上前に翔一からの電話に出て以来、ずっと。
彼のことを考えないようにするためではない。早々にそれは不可能だと察した。
だから、俺はいつものように自分の中に潜って、問い掛けた。『今、何を望んでいるのか』と。
自分の想いが届かない現実も、負わされた傷跡も、彼を追い詰めてしまった事実も。全部受け入れて、心に耳を傾けた。
そうして聞こえてきたのは、『翔一に出会って良かったと思えるようになりたい』という声だった。
辛いだけの思い出として残したくない。鬱屈も悲嘆も全部手放して、共に過ごした眩しい空間の中で彼を愛したという事実だけを胸に刻んで。
大事なのはそれだけだ、と確信して。
そう生きていける自分でありたい、と。
俺にできることは、何もなかった。
必要としたのは時間。どれほどかかるのか見当もつかないほどの時間。
だから体を動かしている。そうすれば、俺の中の時計が僅かに進んでくれるような気がする。店のことを、客のことを考えて。友人に会って。町内会の仕事を手伝って。釣りをして。
いつだって、翔一はすぐそこにいるように感じる。それでも次第にその気配は柔らかくなっていった。
俺は失恋した。
その言葉が持つ重圧。人生を変えてしまうほどの力を秘めた痛みは、少しずつごくありふれた記憶へと変わっていく。
それは寂しくもあり、後戻りしてしまいそうになる。しかし執着してはいけない。彼の恐怖に満ちた表情より、笑顔を覚えていたいから。
苦い記憶だけ、ちゃんと解放しなければならない。
店の照明を落としたときには午前二時近かった。離れに向かう途中の数メートルの屋外が脅威に思える。
寒風は服を着こんでいても、僅かな隙間から身に噛みついてくる。顔を殴るように、パリッとした冷気が襲ってくる。
小走りで中庭を渡り部屋に駆け込む。
リビングとして使っている部屋の真ん中に置いてあるローテーブルに書類が散らばっている。翔一が作った出前サービスの計画書。
暖房をつけて部屋が少し温まるのを待つ間、座布団に腰を下ろす。目の前の何十枚もある紙の表面に指を滑らせる。
そこに綴られた文字や図形を見ると思うようになった。翔一は俺に対して、可能な限りの、彼なりの愛情を向けてくれていた。
彼はこんな言い方をきっと許さないだろう。
それでも、身勝手な妄想だとしても、感じるのだ。この書類を作るとき、俺のために掛けてくれた時間。そこに確かな愛情を感じる。
俺が友情以上と解釈したものが幻想だったとしても、何もなかったわけじゃないと思える。
それでまた一日頑張れる。
またひと欠片の蟠りを手放せる。
そうだ。
今でもいたるところに翔一がいる。
痛みが伴わないと言えば嘘になる。しかしそれでもいい。
いつかそれは懐かしくて温かいものに変わると信じている。
出会えてよかったと、思えるようになる。
着替えて布団に入り、眠気が訪れるまでスマホを弄っていると、手の中で突然振動した。
応答すると、声を抑えながらも興奮しきった春樹の声が聞こえた。
「浩太、浩太! 律、今夜かも‼」
勢いよく起き上がる。お腹の赤ん坊がついに生まれるのだ。
「マジで? 律は、大丈夫か? 今病院か?」
「ほや、さっき着いたとこ。今、陣痛の間隔も近なってきてて。律、頑張っとる。やべぇ、俺も心臓ばくばくやわ」
「おまえが取り乱してどうすんだよ? しっかりしろよ、律はおまえを必要としてるんだからな?」
「お、おう、分かった。また後で電話するでの」
「了解。そっちに行かなくて大丈夫か? 胡桃の方は?」
「大丈夫。胡桃は母ちゃん達が見てくれとる」
不安と期待が混じったような声で春樹は「じゃあ、また後でな」と言い残して通話を切った。
スマホの音量を大きく設定した上で心臓を弾ませながら仮眠をとることにした。




