6-3
「テンチョー、テンチョーってば!」
「ん? なんだ?」
苛立ちを帯びた声が繰り返す。
すぐには気付かず、少ししてから慌てて振り向く、恵梨香の不満そうな顔が配膳口に陣取っていた。
「だぁかぁら。十番テーブル、丸鯖定イチ、へしこ定イチ、あところ煮イチ」
「はいよ」
伝票を受け取り、調理台上のフックに吊るす。
今晩の営業は身体の自動運転機能に頼り切っている。それも不完全であり、自覚はあるのだが頭が切り替わらないのだ。
混み合っていないのがせめてもの救いだ。
注文を再確認して食材を並べる。定食用の膳を二枚取り出すために再び振り返ると、恵梨香はまだ何か言いたげに頬を膨らませていた。
「マジどしたんすか? 今日ずっとぼーっとしてますよね。風邪っすか?」
「悪かったって、疲れが溜まってるだけだから。心配すんな」
女子高生を騙そうったってそうはいかない、と言わんばかりに疑念たっぷりの視線を向けられたが、客に呼ばれて彼女は去って行った。
人目に付かないことを確認して溜息を吐く。
俺は戦っていた。卑小さに支配されて、今にも厨房で暴れてしまいたい衝動と。
いつだって単純なことに、俺は気付かない。
いつだって他人にそれを教えてもらわないと、自分を改められない。
そんな自分が忌々しいのだ。
調理器具を扱う所作が少し乱暴になっていると気付いて、深呼吸をする。
そういえば翔一がしょっちゅうやっていたことだ。
尋ねてみると、ストレスを感じたり、焦っているのを落ち着かせたいときにそうするのだと言った。昔からの癖というか、習慣。
そのときに求められる自分をイメージする。それが到達したい期待値。そして、そのイメージに一気に近付けるように心掛けて深呼吸をする。
そうやって自分を奮い立たせるのだと説明していた。
目を閉じて、仕事に集中している普段の自分を想像する。
頭の中に浮かぶ映像にズームしていくように息を吸う。
少しは近付けたのかもしれない。
目を開けると苛立ちで疼いていた腕や脚の筋肉がある程度落ち着いた。
こういうことさえ今になって初めて試すとは。
昔から、俺は他人の立場に立とうとはしない。立ったところで見える景色は、きっと自分の投影に過ぎないから。そんな嘘の理解を基準に誰かと接しても、偽善でしかないように思えた。
皆が皆そうというわけではなく、感覚のズレている俺が頑張っても誰かの考えに近付くことはないだろうと、そう思っていたのだ。端から無理があるのだから試みる必要もないと。
大事なのは自分を知ること、自分を見失わないようにすること。そうすれば、あとは社会のルールを学べば、それほど人間関係に困ることもないと思っていた。
実際、三十年近くそう生きてきたのだ。しかしそれは、とても傲慢で表面的な考えだったのだろう。
翔一とのことで初めてそう思った。なぜなら俺は、少なくとも好きな人には、理解してほしいからだ。
「はい十番、丸鯖定、へしこ定、ころ煮!」
味噌汁とご飯を乗せ、全体のバランスを確認して、寄ってきた恵梨香に膳を渡す。
「十番出します」と言いながら受け取る彼女は、いまだに問い詰めるような目を向けている。十代の子を相手に情けないとは思うが、目を伏せる。
「で、テンチョー、悩み事っすか? はっ! もしかしてついに店、畳むとか?」
一旦落ち着いた頃合いで再度、探りを入れてくる若きバイト。
この歳の好奇心は侮れないのは知っている。それにしても、口を両手で覆って、顔を青くしながら不吉な仮説を唱えたものだ。
「ちげぇよ。てか縁起でもねえこと言うなよ」
「じゃあ、なんなんすか?」
「だから、疲れてるだけだって」
「えー、絶対なんかあるじゃないっすか」
「お前はそういうの気にしなくていいの。つーか、冬場のバイトは見つかったのか? 紹介する宛てならあるけど」
別の話題への誘導を試みる。
冬場は民宿もいつも以上に閑散として、店の客足も減るのでバイトを雇う余裕がなくなる。そのため、恵梨香には去年、冬季中の人手を探していた知り合いを紹介した。
今年はまだ何も言ってきていないので訊いてみる。
「隣町のコンビニ。来月から入るっす」
「コンビニか。定番だな」
「居酒屋のバイトだってそこそこ定番すよ」
「一応、食堂な」
「ていうかテンチョー話逸らさないでください」
「お前、変なとこでしつけえよな」
何かしら言わなければ八時までこの調子だろうと悟った。
あまり突拍子のない話題を振っても意味がないだろう。核心から離れ過ぎず、恵梨香から話を引き出すように仕向けられる話題。
その作戦に決める。意味深な息をついた。
「なぁ、恵梨香。人間関係って難しいよな」
「え? マジ? なんすか急に」
「俺はな、最近思うんだ。お前くらいの歳が一番自由だったんじゃねえかな、って」
声のペースもリズムも考慮して話した。それほど良い意味での自由の記憶などなかったが、嘘ではない。
これで恐らく恵梨香はしばらく独り語りしてくれるだろうと踏んでいる。
「うーわ、ダメっすよテンチョー、そういうの。この歳がいっちゃあキツいんすから」
「へぇ、おまえでも悩むことあるんだ?」
思惑通り、淡泊な口調で彼女は話し始めた。
「高校なんてデスゲームっすよ。大人に用意された小さな箱の中で生き延びるのに必死になっちゃって。世界がもっと広いってことすら気付いてないんすから。悩む要素しかないっすよ」
妙に達観した言い方だ。
恵梨香は店内を見渡したが、それはまるで遠くから眺めているような眼差しだった。
昔からどこか冷めている子で、周りで何が起きようと冷静さを欠かないしっかり者という印象。自分で決めた目標を自分の力で達成しようとするところも、俺にとってはどこか親近感を覚える性格だ。
彼女が学校でどのような生活をしているのか見当もつかない。しかし、自分のことを思い返せば、やり辛さがあるのも想像できる。
「おまえこそ何があったんだよ」
恵梨香はハッとして、まるで余計なことを話してしまったかのように視線を逸らした。
「別に。さっさと卒業したいってだけっす」
「まあ、無理に言わなくていいけど。話したくなったら聞くぞ? 何ができるわけでもないけど」
俺の知る限り彼女の努力は全て、高校を卒業して上京するためのものだった。そこまでする理由を俺は訊いたこともなかった。
寂れた地元より煌びやかな都会への憧れだろう、と漠然と思っていた。しかし、もしかしたら別の理由もあるのかもしれない。
「え~、テンチョーにっすか?」
「不満そうだな」
揶揄うように言われ、この話は終わったのだと理解する。しかし、恵梨香は珍しく笑顔を向けて言う。
「いいんすよ、テンチョーはいつも通りにしてるだけで励みになるんで」
「は? なんだそれ?」
彼女の結論と今までの会話との関連性に違和感を覚えて、もう少し聞き出そうと口を開く。しかし店内から客の声があがり、恵梨香は呼応して配膳口から離れていった。
以降、話題を引き戻すタイミングもなく、八時には家に帰らせた。
布団の中で、訪れる気配のない睡眠を待ちながら思考を巡らせている。
長い一日だった。早めの閉店を迎えたときはほっとした。それでも、仕事で多少なりとも気が紛れた。
窓の向こうから雨と風の音しか聞こえてこない夜は、必要以上に孤立感を際立たせている。
自分しかいない空間で、何の進展もない考えが頭に浮かんでいる。
ずっと、揺らいでいる。
これ以上、翔一を傷付けないためにも関わりを絶たなければならないという決意。そして、あの会話が最後になるなんて許せないという未練。
俺だって完全に阿呆ではない。翔一の反応を見れば全部終わっていることくらい分かる。既に形を失ったこの関係には、俺に主導権など残されていないのだと。
しかし、彼は連絡してきた。俺を罵倒したことに罪悪感を抱いていたから。
ここでも心が揺らぐ。
責任を感じるくらいには嫌われていないという希望。そして、ありもしない希望をちらつかせて自分だけ楽になろうとしたことへの憤り。
それでも、もうこれ以上、苦しんでほしくないという願い。
俺はなぜ、恋に落ちたのだろう。澄子と別れて以来こんな感情を抱くことはなかった。
誰かに告白されて、付き合うことになって、自分なりにその人を好きになるように努力した時期もあった。無論、努力してどうにかなるものでもない。
だからこそ、無理に付き合うことはやめた。それで何の問題もなかった。寂しさを誰かで紛らわそうなんて思わなかった。
誰も他人の代わりになんてなれない。人はそれぞれの形がある。パズルの欠けたピースを別のピースで埋められないように、誰かの空白を別の誰かで埋めることはできないのだ。
祖父母も、澄子も、母親も、父親も。空白になってしまえば、そこは一生空白のままで、不完全なパズルを受け入れるしかない。
だから恋愛経験の浅い俺は、そのままでなんの問題もなかった。
間口が狭い自覚はある。人の容姿に執着などない俺に『タイプ』なんてないから、知っていく中で感情が芽生えるほかない。
それが澄子の場合、何年もの時間の中で育ったものだった。知り合って僅か数か月の翔一に対して『好き』という感情が現れたことに俺自身、驚いた。
『すごく愛情を注がれて育ったんだなぁ。俺も会ってみたかったな、浩太のお爺さんとお婆さん』
祖父母との生活を話したときに翔一が言っていた言葉。俺を可哀想だと一度も決めつけず、俺が幸せな幼少期を過ごしたことをそのまま受け入れてくれた。
『浩太がこの町に戻ってきてよかった。じゃなきゃ俺も『うきぐも』に出会わなかったし。なんとも言えない居心地の良さなんだよなあ。温かいっていうか、自然と笑顔になるっていうか? 飯はうまいし。はは』
爺ちゃんが倒れて、京都から浜音に戻って、店を継いだ、という話をしたときだ。俺が『うきぐも』を守りたいと思った理由そのものだった。
今までも決断を肯定されたことはあった。しかし言葉にするまでもなく、俺の内を言い当てられたのは初めてだった。
そうだ。そのとき胸の中を駆け巡ったものは、感動だった。
人を理解する力を持つ翔一が素敵だと思った。俺にはない能力だ。
それがどれだけの激励になるかを体験したのだ。
しかし春樹の言う通り、所詮は完全に理解することはできない他人。
俺は甘えていた。
今なら何が一番の間違いか分かる。
俺は、翔一のことを理解しようとはしなかった。いや、しているつもりだったのだ。言動の根拠とか、考え方の根源。
しかし、それらはまだ表面的なものでしかないと気付けなかった。翔一という男の内にある感情には、一度も触れられなかったのだろう。
もしできていたなら、きっとあんな風に『好きだ』と言えるはずがなかった。
遅すぎる気付き。
しかし翔一に出会っていなければ、あんな形で傷付けなければ、恐らくずっと知らずにいた。その善悪は分からないが多分、俺は人として成長する機会をもらっているのだ。
それが翔一と出会った意味として俺の中に残れば、そう結論付けてしまえれば、ずっと胸を打つ鋭い痛みは少しは引くのではないか。




