6-2
ぼんやりと夢と現を行き来している。
少し瞼を開けると陽の光やら海の音が身体に届いてくる。
それがなんとも煩わしくまた目を閉じる。
スマホが振動する。またハルだった。
時間を見ると十三時を過ぎている。風邪をひいてもこれほど怠けることはない。
着信は止まり、あるだけの気力を搔き集めてベッドから零れ落ちる。
全身の筋肉が重くて転んでしまう。
メッセージアプリの通知が鳴る。春樹だろう。
寝室の真ん中にへたり込んで、適当な服を掴み寄せる。
顔を洗って、歯を磨いて。
出口の扉を開くと新鮮な風が部屋に入り込んでくる。
空気の底にひりつく匂い。秋の匂いだ。
薄暗い空間に慣れた目は、曇り空から滲み出る僅かな光でも眩んでしまい、指で瞼を押さえる。
重い足取りで母屋に向かう。
今晩の開店が憂鬱だ。食欲もないし、なにも準備する気になれない。放心状態で店内の小上がりに腰を掛ける。
ただメッセージを確認するだけでも、世界との繋がりを感じてしまい、今はひたすら避けてしまいたくて沈鬱な気持ちになる。せめて誰からかだけでも見てみると、やはり春樹だった。
『よう。昨日はありがとの! 久々に色々話せてよかったし、律も胡桃も喜んどったわ。おまえも抱え込まんといつでも電話してこいよ? 置いてった皿とか届けようと思ったんやけど、また連絡するでの。店にいるとき教えて』
文章に続いていくつかの画像が添付されている。胡桃と遊んだり、皆でセルフィーを撮ったりしたときのものだ。
現実味がない。
友人と楽しい時間を過ごして、不安ながらも悩みを打ち明けて、受け入れてもらえたことに安堵して。その僅か数時間後、一瞬にして地獄に突き落とされたような気分だった。
体の良い返信を適当に送る。
取り敢えず少し散歩に出かけることにした。知り合いに出くわすのも嫌で町とは反対側の、山に入っていく道を進む。
民家の軒先に干し柿や大根が簾のように吊るされているのが目立つ。点在する小さな畑には疎らに老人が土仕事をしている。
道の先にある山の斜面には杉の暗い緑が広がり、その隙間には、紅葉が始まりかけて斑模様の黄色や橙色が彩りを添える。
無意識に翔一の影が薄い場所を求めてこの道へと足が動いたのだろう。
春になれば山菜取りに誘おうと考えていたのだが、今となっては幸いと言うべきか、それが実現することはない。
春が途方もなく遠くに感じる。
山の麓に辿り着くと、山中へと入る小道の横に寺に続く階段がある。そこに腰を掛けて一息つく。
建物に囲まれて海が見えない。
昨晩、望みを捨て切れていなかったときの、春樹達と交わした言葉を思い出す。俺が男に恋をしたこと、更にはその相手が翔一であることまで見透かされていたことに驚いた。
高校からよく知る二人だからこそ、俺が気付くよりも先に思い当たったのだろう。翔一と話すときの声のトーンや視線。火を見るより明らかだったそうだ。
『おまえがあんだけ誰かを気にかけてるのも珍しいでの』
春樹は得意そうに言うと、横から律が『うちがあんたに言ったんでしょ』と補足を入れた。
無論、そこから続く自然な流れは気持ちを伝えたのかどうかという質問だった。
『男とは無理だって……』
翔一の印象を下げたくなくて、言い合いになったことや、色々と言われたことは伏せることにした。
残念そうにしながらも、さして驚いた素振りは見せずに律が続けた。
『まぁ、そっちの可能性の方が高いわの』
『そうなのか?』
『そりゃあ、浩太にはちょっと分からんかもやけど。セクシャルマイノリティって言うやの? 少数派なんよ。うちも女に告白されたらちょっと困るし』
本人に気持ちを打ち明ける前に春樹達に相談するべきだったと思った。
結果的に何も変わらなかったのかもしれないが、少なくとも『伝えない』という選択肢に気付けた可能性もあった。
それに、きっと告白自体をもっと大事にできたかもしれない。どのようにして伝えるかなど、あのときは少しも考えていなかった。
今となっては後の祭りだ。
『律は友達からそういうの言われたら、やっぱ引くか?』
『え? んー、どうやろの。気持ち自体には引かんかな、多分。でも友達って思っとった分、動揺はするやの。ほら、男友達とかならどっか一線を引くけど、女ならそういうの考えてもみんがの』
春樹は会話の一部を切り取って『男友達ってどういうことだよ、誰?』と言い寄っていた。呆れたように笑いながらあしらう律は付け加えた。
『でも、そっか。浩太、引かれちゃったか』
その言葉に春樹は俺の方へと確認するような視線を送った。二人の同情する表情に居たたまれなさを感じながら頷いた。
翔一は俺から想定外の気持ちを向けられたから動揺したのだろうか。友情と思っていたものは、実は別のもので。だから裏切られたと言っていたのだろうか。
きっと彼の世界の中では、それは男同士では許されない感情で。その感情に科される罪の重さがあまりにも深刻で、気付けないのだ。
ただ一人の人間を好きになったのだと。
『よし、浩太、今晩は俺が一晩中付き合うでの!』
弾けるように声を上げ、俺のグラスに酒を注ぐ春樹。『胡桃が寝てるだろうが、この馬鹿旦那』と律が叱る。
春樹と律は、俺がいつか男を好きになっても不思議ではないと、前から思っていたという。
意識したことはないが、自分でもなんら不思議はないと思う。友人だろうが恋人だろうが、性別を意識して接してこなかった。
その意味すらよく分かっていなかった。
それで困ったことなどなかった。今まで好きになった人が澄子、つまり女性だったから。
そもそも翔一や澄子の反応がなければ、こんなこと考えてもいなかっただろう。人が、身内が、同性愛をどう思っているかなど。
自分の考えを、親しい人とは共有できていると思っていた。意見が異なっていても、否定されることはないと。
しかしそれは違ったのだと、改めて痛感した。春樹達みたいにさらっと受け入れてくれる人達でさえ、自分がその対象ではないのが前提だ。
もしそうだったのなら、彼らでも混乱するという。
会話の流れで、澄子との喧嘩は翔一のことが絡んでいると勘付いた春樹は呂律の回らない口調で言った。
『おまえはさ、人に背負わせ過ぎてんじゃねえの? 理解してるって言っても所詮は他人なんやで。完全に分かり合えるわけねえっての。だからちゃんと話す必要があるし、歩み寄る必要もあるんやろ?』
『話そうとはしたんだ、でも上手く伝わらないっつーか。まさかショックを受けるなんて思ってなかったし。それに、俺のことだし。何に怒ってたのかもよく分かんなくて』
『昔から、あんたは自分を貫いとるでねー。まあ、それがいいところやし、間違っとるわけでもないんやけどさ。でも、あんたにだってあるんじゃない? 頭では分かっとるけど、どうしても心が追い付かん、みたいなさ。そういうところ突かれると、間違ってても勝手に口が回っちまうんやって。うちも昔はそうやったの』
若かりし頃の律が脳裏に浮かぶ。まるで世界全体が敵であるかのように誰にでもガン飛ばして、突っかかって、すぐに手が出た。
春樹も、そして俺もそんな時期があった。色んな感情を持て余して、整理がつかない思考や身体の変化に振り回されて。
自分が何をしたいのかも掴めない。何一つ見えていないのに、自分を防御するかのように主張だけを並べていた。何に挑戦したわけでもないのに挫折して、迷走していることにも気付かず傷ついて。
客観視してみれば、今の心境と似ているのかもしれない。人生二度目の思春期が訪れたのだろうか。
『澄子の件は、きっと時間が解決すると思うよ』
『ほいで、俺達は何があってもおまえの味方での』
もしかしたら俺はもっと若くして人間関係で躓くべきだったのかもしれない。
友人に、家族に恵まれたからこそ今まで悩んだことはあまりなかった。一番大切な人達はいつだってありのままの俺を受け入れてくれたから。
それはきっと、とても幸せなことで、少しだけ不幸でもあるのかもしれない。それでも、この人達の人生の中に俺の居場所があることには感謝しかない。
酒が入っていたのもあり、少し大げさに、二人に抱き着いた。
山風が勢いよく降りてきて、砂埃が目に入る。
慌てて階段から腰を上げて瞬きをする。それがどんな刺激になったのかは分からないが、頭の中にあった二つの点が繋がった。
二十年以上もの付き合いがある澄子でさえ理解に苦しんだのだ。六か月程度の時間で、ましてやその想いの対象である翔一がそれを受け入れられないのも無理もないではないか。
なぜ、当然のように分かり合えると思っていた。俺が二人の反応の真相に至れないのと全く同じだ。俺が、勝手に理解し合えていると思い込んでいただけだ。
その誤解を視野に入れれば、翔一があんな態度をとったのもそれほど不可解ではなくなるのだ。
俺は翔一を理解していないのに、彼には理解してほしいと思っていたわけだ。
秋風索漠、冷たい空気が流れ過ぎていく中、呆然と立ち尽くした。
山からは数羽の鴉の嗄れた鳴声がこだました。




