6-1
沈黙がこれほど尖ることがあるなんて知らなかった。
肌に食い込むように痛く、喉に詰まるように息苦しい、そんな静けさだ。
ほんの数秒前まで、大好きな人の大好きな声を宿していたスマホも、今はもう空っぽで冷たいただの機械。
『なんであんなこと、言ったんだよ……なんで、あんな。なんでもないことみたいに』
翔一がそう口にしたときに分かってしまった。俺はとんでもない過ちを犯したのだと。
その過ちの全貌を理解することすら儘ならない愚かな咎人であるのだと。
澄子に言われた言葉と同じ。俺は翔一の気持ちも、生きてきた時間も、何一つ推し量ることなく無暗に自分の想いをぶつけただけだ。
それが彼にどう届くのかなんて考えてもみなかった。それなのに上手くいくと確信していた。
愚かだ。
『俺がこんなクズだなんて、知りたくなかった』
初めて俺がどれほど翔一を傷付けたのか把握した。
俺はたった二文字で翔一の中にある何かを壊してしまったのだ。きっとそれは翔一にとって大事なものだった。
潰れるような声でその苦しみを告げられるまで気付かないなんて。
さっきからひたすら同じような問答を繰り返す。どうしようもない問いに、決まりきった解。
もしもっと慎重に伝えることができていれば。もしもっと翔一の言葉に耳を傾けていたならば。もし俺が女だったならば。もし出会っていなければ。
彼をあんなに追い詰めることはなかった。
堂々巡り、何一つ意味のないことだ。
俺が翔一に触れようと近付けば、近付くほど彼は傷付くのだと思い知った。
努力も忍耐も関係ない、この気持ちは初めから触れてはならないものだった。なぜなどない。俺が俺で、彼が彼であるからとしか。
本当に好きなら、諦めなければならない。だから、通話を切った。もう一生、翔一の人生に関わらないと自分に誓って、通話を切ったのだ。
苦しい。辛い。こんな終わり方はおかしい。もう一度くらい話せないだろうか。
せめて本気だったことだけでも分かってはくれないだろうか。決して傷付けるつもりはなかったと。
いや、ただの口実だ。結局また好き勝手するだけだ。自己満足だ。
翔一が初めて浜音を訪れた日のことを思い出す。
まるで生気を感じられない、やつれた顔。しかし俺の飯を食って、魚の話をして、途端に目が輝き出して生き返ったようだった。
よく笑う、よく食べる。笑うと靨ができて。好きな話をしていると手がよく動いて。眠くなると頻繁に顔を触り出して。酔うと子供のようになって。誰とでも臆せず話して。やっぱり笑って。
あんなに見ていたのに、一番肝心なところを見ていなかった。
ああ。涙が止まってくれない。
会いたい、会いたい。
なぜ俺は全部ぶち壊してしまったんだろう。友達でよかった。知り合いでも、たまに訪れる町の宿の主人だけでもよかった。
なぜ俺は欲張った。欲張って、全部失った。
ちゃんと彼のことを気にかけてくれる友人はいるだろうか。母親は東京だって言っていたし、父親とはあまり会わないって。
たまに話していた同僚は傍に寄り添ってくれるだろうか。ちゃんとまた笑顔の翔一に戻れるように。
俺のことなんて全部忘れてしまうくらいに。
嫌だ。
忘れて欲しくない。最悪の思い出としてでも翔一の中に在り続けたい。
忘れられてしまうことに底知れない恐怖を感じる。だって、確かに俺は翔一と出会った。確かに共にした時間には特別な何かが存在した。
全部、確かにあったものだ。
抹消されるなんて。あんまりだ。
彼を笑顔にするのは俺だと信じてた。なんでそんな根拠もないものを信じられた。
でも、翔一がまた笑顔になるならそのくらいの代償、差し出せるだろう。
差し出せる。
今一番笑顔でいてほしい。一番幸せであってほしい。俺がその隣にいる人じゃなくても。
俺であってほしかった。そうなるべきだと思った。誰よりも笑顔でいさせてあげられると。
でも、俺に何が分かる。彼の何が分かるというのだ。
なぜ電話してきたのかだって。結局同じ結果なら、なぜ連絡してきたのだ。
謝りたいから? それで気持ちを軽くして、自分だけ先へ進めるように。
俺をちゃんと過去に片付けて、忘れてしまえるように。あの時間も全部か。
あれは全部『ごめん』の一言に収められてしまうのか。
冗談じゃない。
こんなに、こんなに苦しいのに。翔一だけ楽になるのか。
彼が何を考えているのか分からない。
ずっと分からない。
どうすれば理解できた。何を言えば話してくれた。何が悪かった。
もっと翔一のこと知りたかった————
どうやって眠りに就いたのかも分からない。ずっと一晩中空虚なことを繰り返し考えていたと思う。
一晩中泣いて、翔一の名前を呼んで。雑多な感情に苛まれて。
目が腫れているのが分かる、充血しているだろうか。客がいないことがせめてもの慰めだ。
こんなに辛いものだったろうか、失恋とは。しばらくベッドを離れる気にはなれない。なんなら一日中このまま埋もれていたい。
恋愛マンガのヒロインみたいだ。似合わないな。このまま怠惰に身を投じて、恋に敗れて消えていってしまう。
いや、そう思えるほど青くはない。きっと俺は立ち直れてしまうのだろう。
もっと若ければ『一世一代の大恋愛』だの、『運命の出会い』だのと思うこともあっただろう。『失っては生きていく意味がない』などとほざいて。
澄子がまさにその相手だと確信していたように。
しかし、一つの感情に全てを捧げるほどの理想は、きっとその時代に使い切ったのだろう。もう、残っているようには思えない。
澄子と別れたとき、現実は大きな絶望の音を立てて降り落ちてきた。
詰まるところ、どんなに苦しくても、何を失っても、案外人間は生きていけてしまうのだ。
俺は翔一という人を好きになった。
今でも大好きだし、きっとこれからもその気持ちは続く。形を変えたとしても。俺の中では翔一はずっと特別な存在であり続ける。そんな大切な人なのだ。
それでも、ベッドから足を出せてしまう。洗面台まで行き、歯を磨けてしまう。腹が減って食って。客が来るから掃除して。店開けて。笑って。
明日、明後日、一週間、一か月、無理だったとしてもやがてはそうなるのだ。だから今日だけは存分に弱くて情けない自分を責めないでおく。
何も考えずに日が昇るまで布団に隠れてぼうっとしていた。突然の振動に、散乱する意識が収束し、スマホを手に取る。
翔一がかけてきたのではないかと、条件反射でつい全てを忘れてしまう瞬間がある。画面には『ハル』と表示されている。
相手にするそんな気力、愈々ない。枕元に端末を放ってまた不明確な白昼夢に潜り込む。
『好きとか、おまえ頭おかしいだろ⁈』
翔一の声だ。怒りと焦りが度を超えた、完全な拒絶の声。
一か月前、翔一から連絡が途絶えて思い切って名古屋に行ったとき。あのとき気付けばよかった。翔一は男が男を好きになることを罪だと思う人なのだと。
たった一言で、翔一は彼が知っている俺の全てを疑わしく思った。全てが嘘だったと結論付けた。
俺もまた、知らない翔一の側面に戸惑った。
『ずっと騙してたんだろ⁈ 俺のこと気持ち悪い目で見て、タイミング見計らって!』
痛かった。
翔一が今まで親しくしていた奴は間違いなく俺で、自分を偽ったことなんてなかった。気持ちを伝えている俺は別人などではないこと。それを彼は知ってくれていると思い込んでいた。
まるで不審者を見る彼の目が、今でも頭にこびり付いている。疑心と、あと恐れを帯びた眼差し。
『騙したことなんてない』、『俺はずっと俺だよ』、そう叫んでも何一つ届かなくて。どうして分かってくれないのか。湧き上がる無力感を必死に押し返した。
『巻き込むなよ、一緒にするんじゃねぇよ! ありえねぇ』
『なんで俺なんだよ? おまえら異常者同士でやれよ、そういうの』
そうじゃなくて。男とかじゃなくて。
おまえが好きなんだ。
それを分かってもらえるような言葉を見つけることができなかった。
連絡がつかなくなったところで結論を導き出せなかった俺は、想像力のない愚か者だった。
あんな言葉を浴びせられた時点で、どれだけ翔一を追い詰めているのか気付かなかった俺は、それ以上に救いようのない馬鹿だ。
『怖ぇよ。普通じゃねぇよ。家まで押しかけてきて。なんなんだよ』
それは。
歓迎されるとは思っていなかった。それでも話くらいはできると思っていた。
浅はかだ。
翔一の反応を何一つ理解せず。理解しようともせずに、話せるわけがなかった。
何が一番痛かったのだろう。翔一の言葉、向けられる表情、俺自身の困惑。とにかく、最後に会った記憶は苦痛の伴うものだ。
そして昨日、翔一から電話がきて、必死に平静を装う声を聞いて。俺は同じ罪を繰り返してしまったのだ。
謝罪してくる翔一。あの電話は彼の罪悪感が怒りを上回ったからだと分かっていたのに。そういう覚悟で俺の番号を入力したのだ。
そんな叫びを軽んじて、俺はただ希望を持ってしまった。もしかしたら、まだ俺の居場所はあるのかもしれない、と。
望んではいけなかったのだ。
『無理じゃん。もう。全部……』
スマホの反対側で聞こえた絶望にも似た心許ない声。
もうすでに粉々に割れてしまっているような。
罵声を叫んでいたときよりはるかに、俺の心を締め上げた。
俺はきっと、彼を好きにならない方がよかったんだ。




