5-6
「なーんだったの、あれ?」
午後十時十分。遠慮する木下に『気にするな』と言いながらタクシー代を渡して見送った。
少し酔いが回っているように見えたのと、彼女が市外から通っているのを知っているからだ。
それにしても木下を連れてくるのは悪手だった。部下がいれば少しは顔を立ててくれると思った。
いや、実際、俺を貶めるようなことは何一つ言われていない。巧みに俺への当てつけを気付かれない程度に織り込んで話していた。結果として同じ、というだけだ。
店で無理に相沢の話を遮ってから、どうしようもない空気になってしまった。
幸い、苛立ちが伝わったのか、彼はそれ以降、矛先を木下に向けた。彼女は喜んでいるようだった。
「先輩こっち方面じゃないでしょう、酔ってるんですか?」
さっさと家に帰りたい俺の横を歩く相沢に目も向けずに言い捨てる。
「いやあ、怖いねー、相変わらず。少し揶揄っただけじゃん、そんなに怒る? いつもはもっとクールに躱してくるのにさ」
「なにが面白いんですか?」
「そりゃあ、須田君の反応でしょう」
「もう、いい加減にしてくださいよ」
妙な噂が立ったことがないのは本当だ。相沢本人に関しては。
しかし彼の言動のお陰で噂が立ったのは俺の方だった。
相沢が教育担当について間もなく、彼がゲイであることを知った。別の先輩が普通に『彼氏、元気?』と尋ねているのを聞いて思考が固まった。会社内では周知の事実だと知ってさらに困惑したのだ。
大学でもそういうのを受け入れようという風潮はあった、少なくとも俺の友人周りにはそういう人だっていた。
社会が規律から逸脱した者に対して寛容になってきていることは分かっている。関わらなければ問題はない。
けれどここは会社で、彼は俺の教育担当者。ピアスやタトゥーのようには受け入れられない。しかし関わらないわけにもいかない。
その日から言いようのない気詰まりを感じた。
相沢のそもそもの性格も、当時は特に勢いがあって、どんどん印象が悪くなっていった。避けるようにしたり、視線を逸らしたり。
きっと俺の変化は一目瞭然だったが、本人は一切気にする様子はなかった。
ある日、不注意で俺は手をカッターで怪我してしまった。一番近くにいた相沢がすぐに救急箱を持ってきて手当を試みた。
俺は咄嗟に手を引っ込めて「触んな!」と声を出してしまった。その場に居合わせた誰もが動きを止めた。
さすがに驚いたように俺を見る相沢は一瞬の間を置いて、
『あ、マジだ。手、汚れてる。ごめん、榎田替わってくれ』
そう言ってトイレに向かっていった。
もちろん相沢の手は汚れてなどいなかった。席を変わった榎田でさえ困惑した表情をしていた。
後に謝りに行ったが訝しげな目で『いいよ、別に』と言われただけだった。
その場面を目撃した人の間では、相沢の咄嗟の配慮も虚しく、俺に対する風聞が広まった。
なんとでも言えたはずだ。それでも職場では『須田って偏見ヤバいらしい』と囁かれるようになり、尾鰭はひれの付いた目撃談が広まっていった。
それまでも言われてきたことはあった。だから俺の見解が偏見とされることも、それが悪とされることもよく知っていた。
勿論、傷付けるつもりなどはなかった。
衝動的に、無意識にそう反応してしまったのだ。
そして今日もまた、同じように反射的に反応した。あのジョッキをテーブルに叩きつけた感触が指の中でまだ響いているようだった。
「す〜だ〜君。僕が悪かったから。ん? 機嫌直して、缶コーヒー奢るからさ」
「なんなんですかっ⁈ もう打ち合わせは終わったし、平日ですよ? さっさと帰って下さいよ! 疲れてるんですよ、俺はっ!」
睡眠不足に不快感を引きずっている状態での飲み会。限界だった。
一日中、必死で目を逸らしていた息苦しさが心臓に突き刺さって鼓動を打つ度に身体中の血管が膨張するような感覚に襲われる。
「一体、先輩は何がしたい——ひっ」
勢いよく翻って、飛び出そうとした言葉の的を探した。
しかし視界に入ったものに思わず足を踏み外して尻を地面に打ちつけた。
相沢の背後にアレがいる。
何倍にも膨れ上がった巨体が憑りつくように相沢を頭上に乗り出している。
肥えた百足のように腹から生えている無数の手が掴もうとしている。
虚ろな目玉はそれでも俺しか写していないかのように。
頭と思える部位を裂くように横断する口は口角を上げ、今にも相沢を丸呑みするかのようにゆっくり開いていく。
「え、須田君? どうした⁈」
転んだ俺に駆け寄った相沢が片膝をついて顔を覗き込む。怪物はいなくなっていた。
俺は冷や汗と小刻みな震えを感じながら辺りに視線を走らせる。仕事帰りのサラリーマンが鬱陶しそうに横を通り過ぎていく。
相沢は起き上がるのを手伝おうと手を伸ばすが、途中で引き下げる。
あのカッターの件から相沢の言動に変わりはなかった。何もなかったように接してきた。それでも変化が二つあった。
ひとつは、報復するように俺を揶揄うようになったこと。それは決まって不快な内容だった。
仕事を円滑に進めさせれば『さすが僕の須田君、偉いね』とか、頼まれたコーヒーを持っていけば『須田、大好きだ〜』とか。セクハラと言っても過言ではないのではと思ったが、自尊心がその言葉を意識から除外した。
敢えて人前で言われ、それを戒めのように感じていた。その度にぞっとするのだが、会社内での俺の評判もあり激怒する権利はないのだと、精々皮肉を言うくらいで止めた。
もう一つの変化は、元々スキンシップが多めの相沢が、俺に触れてくることは一切なくなったということ。
それに関してはほっとしていた。彼についての事実を知ってからというもの、肩に手を乗せられただけで不快に感じてしまっていたから。
あの時、自分で気付くことはできなかった、或いは認めるには傲慢すぎたのか。多分、俺は罪悪感を覚えていた。
だから仕事が贖いであるかのように、彼の復讐めいた弄りに堪え、我武者羅に働いた。
相沢の手柄になったとしても。いや、寧ろそうであれば一層真摯に作業していった。
全部、無意識下の行動だったが、今なら分かる。
俺はすっかり脱力してしまい、相沢に促されて近くの公園のベンチに腰をかけた。
街灯の調子が悪いかと思ったのだが、蛾が電球に引き寄せられて体中をぶつけながら飛んでいる。その影が明かりをちらつかせていた。
ゆったりとした足取りで相沢が戻ってくると、缶を手渡された。
「おしるこ……ですか」
「え? うそ」
騙されたように覗き込んでくると「うわ、間違えた」と言いながら自分の缶を確認する。
そちらは紛れもないコーヒーだったようで、「どっちがいい?」と訊かれる。
「おしるこでいいですよ、もう」
形ばかりの謝罪を言いながら隣に座る。
雨は昼前に止んだが、厚い灰色の雲がずっと空を敷き詰めていた。夜は星一つ見えない、月の位置もよく分からない、暗くて寒い天井に見えた。
「少しは酔い覚めた?」
先ほど、転んでしまったことを酔いのせいにした。相沢が信じたかは分からない。
しかし『真っ黒な魚の怪物が見えたんです』なんて言えるはずがない。
「はい。すいませんでした」
爪先を見つめながら力無く言う。
「あのさ、揶揄って悪かったから。この通り。機嫌直して」
俺の方を向いて膝に手を乗せて大袈裟に頭を下げている。
「謝るんならなんであんなこと言うんですか? 先輩、分かってるでしょう」
「そりゃあ、須田が勝手にあの子呼ぶから。こっちだって少しむっとするじゃん」
開き直ったように言う。
ゲイである相沢は俺がどう思っているのか知っている。俺が、それを理解できない上、嫌悪感まで抱いていることを知っている。
それでもなぜか俺に冷たくすることはなく、寧ろ絡む要素にしている。恰も意味深な発言をしては、俺の青ざめる顔を見てほくそ笑む。
一度それとなく訊いたことがある『なんでいちいち俺に絡むんですか』と。その時は『いやいや、仕事だよ』と笑いながら言っていたが、はぐらかされたのは明白だ。
カッター事件から一か月ほど経った頃には俺の悪い噂はほとんど消えていた。
世間の移ろいというやつか、新しいネタが手に入ったのか。俺を白い目で見る者はいつのまにかいなくなっていた。
こんな話、覚えている人も最早いないだろう。所謂、黒歴史というものだ。
それから少しして。いつのまにかチーム内で恒例になっていた、相沢のいかがわしい発言と俺の突き放す皮肉のやりとりがあった後。
デスクに忘れ物をしたので戻ってみると、相沢が先輩の女性と話していた。自分の名前が聞こえたので、少し身を隠して出るタイミングを探った。
『相沢君、後輩にあんな態度させてていいの? 前にもなんか酷いこと言われてたし』
『あー、はは。あれは出所の分からないデマですよ。須田とは初めからこんなノリで付き合ってるんで、それを誰かが勘違いしたんだと思いますよ?』
『え、そうなの? 私てっきり仲悪いのかと』
『いやいや全然。仕事もすごい真剣にやってくれるし、丁寧だし、めちゃくちゃ可愛い後輩ですよ、あいつ』
忘れ物も。
面と向かって何も言わない女性の先輩のことも。
どうでもよくなって、その場を去った。その話を後から榎田にすると。
『あーなんか、先輩、前も『僕があんだけ弄ってんのに怒んないのすごいなぁ、愛だなぁ』とか言ってたぞ? 俺思ったんだけどさ。なんかお前に対してだけ、やたらとふざけてない、あの人? 先輩のことだからなんか怪しいけど。ああやってふざけてるからあの噂も収まったのかなぁ、って。もしくは狙われてるかだな』
意地悪く榎田は告げると、『やめろよ』と反論した。
身の危険を感じた方がよいのか、疑心が一瞬芽生える。しかし、それ以外は普通だし、スキンシップも明らかに避けているのだ。
そうなると榎田の最初の推察が正解のように思えた。それが俺の悪評を払拭するための意図的な策略だったのか、単純に面白可笑しく遊んでいただけなのか。
それが判明することはなかった。いずれにせよ、俺の名誉挽回に相沢が一役かっていたのは議論の余地がない。
多分初めて俺はゲイでも良い奴がいる、という当たり前のことを感じたのだと思う。それでも、噂が誰の記憶にもなくなってからも相沢の絡みは続いた。
今では明らかに遊んでいるだけだと思っている。必要以上には関わりたくないし、いちいち相手をするのも億劫である。
それでも頭が上がらないのは、俺が攻撃的な態度をとったことを彼が気にも留めず、逆に親しく接し続けたからだ。
それゆえ会社で居辛くなることはなかった。
相沢の言い訳を聞き流しながら、口におしるこの甘すぎる味が広がる。
逆に喉が渇く。
「折角のデートに他人を呼ぶんだもん、意地悪したくもなるでしょ」
「っまた、あんたはっ!」
笑いながらあんた呼ばわりしたことについては言及されなかった。
「そもそも何で飲みに誘ったんですか。先輩、絶対昼間でも時間できたでしょう」
「そんなに暇に思われてんの、僕。事実だけど」
軽蔑の視線を飛ばすと満足そうに口角を上げる。
長い脚を少し伸ばし、缶コーヒーを両手で膝の間に持ちながら、何も見えない空を見上げて続ける。
「そうだねぇ。どうするかな。……須田君さあ。酔ってるわけじゃ、ないんでしょう?」
「は? なんですか急に」
「うん。やっぱりねー。僕じゃあねぇ」
「てか、なに言ってんですか?」
「今朝もさ会議中、顔色悪いようだったからさ」
「え、それで俺、誘ったんですか? いや、普通疲れてるだろうから早く帰らせようとかじゃないんですか?」
「はは、確かに。でも寝ても消えない疲れとかもあるしさ」
相沢の訳の分からない問答に先ほどとは比べ物にならない苛つきが湧き上がってくる。一体なにが言いたい。
なぜ俺はこの人と寒い公園の中でおしるこなんかを飲まなければならない。なぜそんな余裕と憐れみのこもった視線を受けなければならない。
自分の口が不敵な笑みに歪むのが、どんどん声が荒れていくのが分かる。
「いや、先輩、マジで頭おかしいんじゃないですか?」
「うわ、辛辣〜。うん、まぁ、そうなるとは思ってたけどさ」
「なに分かった気になってるんですか? 先輩に何ができるんですか、俺の何が分かるって言うんですか? 先輩みたいな……」
俺は学ばない。
追い詰められると取り敢えず適当に言葉を投げつけてしまう。
一番効果がありそうな、一番鋭くて、醜い言葉を。
「先輩みたいな異常者に、ってか?」
飲み込んだ言葉を言い当てられて、恐れを感じながら相沢の顔へと振り向く。
想定していた表情はなかった、掠り傷一つない顔で微笑んでいるのだ。
相沢はベンチから腰を上げ、二、三歩進む。ポケットに手を突っ込んだまま前後に重心を移す。
きっと俺はどうしようもなく情けない顔をしているだろう。泣きたくなってきた。
「さっぶいなあ、今日は」
「……」
「もう一本おしるこでも飲む?」
「マジ、なんなんですか。先輩は。怒ればいいじゃないですか。いつもへらへらして。傷ついたりしないんですか? 俺、先輩のような人気持ち悪いって思ってるんですよ? 一緒にされたくなくて、近くにいるのも嫌なんですよ? 正直、一緒に仕事するのだって……。普通、距離置くとか、上に突き出したりしません? なんで、いつも絡んでくるんですか? もう放っといてくださいよ!」
声が震えているのが分かる。
自分でどれほど理不尽なことを言っているのかすら理解できていない。
疲れや、眠気や、吐き気とか。込み上げるものが多すぎて、容量をとっくに超えている。
「ははは。そうかそうか。まあ確かに」
「だからなんで笑うんだよ……」
「いやまぁ、僕だってさ。あからさまに差別されれば嫌な気持ちにはなるよ」
「なら——」
「でも、おまえはなー。本気じゃないからなー」
声にこそ馬鹿にしているような響きがあるが。
振り返ってこちらを見る先輩はいつもの侮りきった笑顔ではなく、困ったような優しい微笑みを浮かべている。




