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地下鉄の出口から吐き出されると、小雨が降っていた。
意識はまだ、四月の浜音にある。傘を開いて重い足取りで会社へと向かう。切り替えなくてはならない。私情を仕事に持ち込むのは社会人として未熟なことだ。
自分の中の使命感を探り出す。
身体の奥にしこりのような感情が常にある。
返信しなければならないメール、払わなければならない請求書、行かなければならない約束、片付けなければならない家事。意向とは関係ない。
任意であろうが義務であろうが同じだ。それらは俺の中で蓄積していき、ときには重たく感じる。使命を果たせば少し軽くなる。
それでもずっと、耳鳴りのように聞こえている。何もなくても聞こえてくる。
何かをしなくては、何かを忘れている、空白を埋めなくては。強迫観念と呼ぶにはあまりに曖昧。しかし確かにある、いつでも、すぐそこに。
だから少しずつ処理していく。それはいつから始まったのか。いつから生活に溶け込んだのか。いつからそれを頼りに自分を動かしてきたのか。
きっと、多くの人が共感できる、一般的な社会人の普通だ。
浜音で過ごした時間は水のように連続的な時の中に漂う泡に似ていた。
その泡の中では『今』と『ここ』しか意味を持たなくて、そしてしこりのような感情はそこにはなかった。
だから、無邪気な子供時代に戻ったかのような錯覚があったのだろう。それが錯覚でしかないことは明らかで、必ず日常に戻るのだ。
悲しい話ではない。泡は水がなければ生まれない。解放は拘束がなければ生まれない。そういうものだ。
そして泡はいずれ必ず消えるもの。確かに浩太はそんな泡だった。彼が生活に馴染めば馴染むほど泡は増えていって、まるで水槽に酸素を供給するエアレーションのように。
でもそれはもうない。日常に戻る時間なのだ。
心の中を現実でいっぱいにしてしまう。
きっとこの息苦しさにも慣れて、やがて感じなくなる。冷静さを失わないことだ。
深呼吸をする。効果、期待値内。
午前中に新企画の打ち合わせがあった。
これはオルテスの自社企画で、来年行われる大掛かりなリブランディングの一環として、ウェブリニューアルの担当に抜擢された。
すでに手持ち案件に苦戦している中、全くもって気の進まない話だが専務直々のチーム構成案に異議を申し立てるわけにもいかず、不機嫌ながらも黙って打ち合わせに参加する。
各担当者が発表されてからは、詳細を語る企画部長の言葉が全く入って来なかった。
なによりも気に入らないのは制作部からは、よりにもよって相沢が推薦されたことだ。
できることならチームの誰かに担当を押し付けてしまいたい。しかし、それは許されないだろう。
ミーティングが終わると相沢は俺の下にわざわざ来て手を差し伸べる。
「久しぶりに一緒に仕事ができて嬉しいよ、須田君」
爽やかに向けられる笑顔に引き攣った表情で手を取る。
腹黒いくせによくそんな顔ができるものだ。
「よろしくお願いします、相沢先輩」
相沢尊は二年上の先輩で、制作部の花形チームリーダーである。
俺と榎田が入社したときにはすでに担当案件を任されており、リーダー候補として名前も挙がっているほどの人材。
プログラマーとしても、リーダーとしても、彼の裁量を疑う者はいなかった。俺も榎田も初めこそ、そんな彼に憧れたものだが、その性格には難があった。
入社当時、俺達は相沢と同じチームに配属されたのだ。
頼りがいのある先輩っぽく振る舞うことだけは立派だった。しかし、提出したコードは報告も説明もなく書き換えられ、土壇場の変更への対応はサポートなしで押し付けられ、手柄は自分に有利になるように持っていく。
あの大量変更案件のときも、実はクライアントからの返信がないことを相談していた。
『ふーん。で、君はどう思う?』と訊かれ、なんとなく『返信がないということは取り敢えずOKなんではないでしょうか』と愚かにも答えた俺に、『なるほどね。うん、君が思うようにするといいよ』と言われた。
相沢ほどの人が状況のリスクに気付かないはずもなく。つまり、あの惨事を食い止めることを意図的に放棄したのだ。
当時のリーダーが傍観を貫いて、全ての皺寄せが俺と榎田に降りかかったとき。相沢は確かに助けてくれはしたのだが。
今でもそのときの異様なほどに楽しんでいる姿が忘れられない。
現在では毅然としたリーダーの役を演じ切っており、後輩には人気がある。
別に完全に悪い人でもないのだが、俺の同期とその前後の社員で彼と仕事をした者は大体何かしらの因縁を持っている。
嫌い、というより苦手なのだ。
そう、俺はこの人が大の苦手だ。
いつも笑顔を張り付けていて何を考えているか分からない。要領がいいことだけは間違いない。
そして、苦手なもう一つの要因として。相沢尊は自分がゲイであることを公然と認めている。
知る限り、妙な噂が立ったことなどないが、やはり居心地の悪い存在だ。
これから何週間もこの人と手を組まなければならないのが憂鬱で仕方ない。
「方向性をさ、一度確認したいから、今晩飲みに行こうよ」
「はぁ。え? いや、昼間の内に時間作れますけど」
「こっちが作れないんだよ。じゃあ六時半頃で。迎えに行ってあげるよ」
「いや、先輩——って」
反論の余地すら与えずに会議室を去ってゆく。相変わらず自分本位な人だ。
この場に座り込んで『行きたくない』と駄々をこねてしまいたい。
しかし仕事なので深く嘆息をついて高を括った。
時計を見ては溜息が零れる。
チームの若い女性社員が小声で「どしたの、リーダー」と同僚に尋ねると彼女は気の毒そうに囁く。
「次の担当、相沢さんと組むことになったんだって」
「あー……通りで。リーダー苦手なんですよね? 昔なんかあったのかな?」
「さあ。不思議よね、相沢さんいつも気が利くし、相性悪いとも思わないけど……」
「イケメンだし?」
「やめなよ」
「いいじゃないですか、目の保養にゲイもなにも関係ないですよ」
仕事ができて、長身で、物腰柔らかな外面で、容姿にも気を使っている相沢は女性社員にも当然、人気を博している。
俺は全てにおいて胡散臭さしか感じないのだが、悪役を買って出る意味もないので黙っている。
そんな会話が筒抜けであることにも気付かないチームメンバーの話を聞いているとふと、名案が浮かぶ。
チーム一人一人の作業状況を判断する。
「なあ木下」
話し合っていた二人の内、相沢にイケメンの幻想を抱いている方に向けて発する。二人の背筋がピンと伸びる。
「来年のウェブリニューアルの件で今晩、制作部の相沢さんと打ち合わせをするんだが。お前も来るか?」
「え? わたし、ですか?」
「ああ。もし空いてたらな。正直、俺一人で対応していくのも今の状況じゃ心許ないし、おまえがいてくれたら助かるんだが」
公言した以外にもう一つ思惑が加わるだけで、嘘はなかった。
他のメンバーは既に案件を抱えているし、入社間もなくまだ担当を任せられない木下にとってはいい機会だ。自社企画なので多少の融通も効き、丁度いいのではなかろうか。
自分の都合と崇高な言い訳——もとい目的を混ぜ込む。担当が自分であることは免れないが、相沢と二人きりで対面する機会は格段に減るだろう。
「え、ええ! 私で良ければ、ぜひ!」
内心安堵の息を吐く。
午後六時二十九分、予告通りに相沢が部署に現れた。
ナチュラルなコンマヘアにチェック柄のダークグリーンスーツ、緑と白のストライプシャツ。部屋に入るなり女性陣に隠し切れない動揺が走る。
木下も同行することを告げる。提案ではなく決定事項として伝えることを心掛ける。彼は明らかに不服そうな表情をしたが、すぐに甘い仮面を被って彼女に振り向く。
「木下さんね。突然ごめんね、よろしく」
「は、はい! よろしくお願いします!」
「元気な声だねー」と少し茶化しながら部署の外へと向かう。肩越しにもう一度不服そうな視線を俺に送った。
相沢は昔から俺や榎田で遊んでいる節がある。しかし俺達の世代に限ったことで、俺達前後の後輩以外を蔑ろにしているという話は聞かない。
木下がいるといないとでは今晩の精神状態が全く異なるのだ。
会社近くの居酒屋チェーンに行くことになり、個室の席に案内してもらった。
ビールが運ばれると取り敢えず乾杯となった。
「そうか、木下さんは去年入社したんだね。じゃあ、この企画は教育も兼ねてるんだ?」
「あ、はい、そうです。足を引っ張らないように頑張ります!」
「いいね、一生懸命で。誰かさんの入社当時を思い出すよ」
「ちょっ、相沢さん!」
チームの後輩に色々と余計なことを暴露されそうなので、さっさと話題を変える。木下を連れてきた判断は果たして吉と出るか凶と出るか。
「それで、そちらは相沢さん一人で進める予定ですか?」
「うーん、須田君の発想はなかったんだよな。ははは、いつになっても学ぶことは多いね! まぁでも、うちの方には手隙の子はいないし、仕方ないね」
わざとらしく肩を竦めて笑う。
言っていること自体にはなんの悪意もないのだが、『こちらの後輩はちゃんと育てているから』という嫌味をどうしても感じてしまう。
しかし一旦は話題の回避に成功したので、そのままプロジェクトの話を進めていく。
木下は噂好きでお喋りだが仕事に対しては真面目な部下だ。今も、話を真剣に聞きながらメモを取っている、必要とあれば議事録さえ作れてしまうだろう。
上から指示された内容を確認しながら、リブランドに用いる新しいロゴやフォントシートを基に、デザインの方向性を議論する。
利用者側の今までのフィードバックも加えて機能改善の必要性についても軽く意見をすり合わせる。
これは何かを決定する場ではない、これからの作業で両部署の担当が認識を揃えるための工程だ。
それをしておかないと後々、誤解や議論が無駄に発生して時間ロスに繋がってしまうし、携わるスタッフのストレスの原因にもなる。
業務の話をしているときだけは相沢もちゃんとしているのに。
一通りの話し合いが終わりそうになって初めて焦り出す。雑談になったときの回避手段を決めておかなくてはならない。
「よーし、こんなとこかな? どう、木下さんは何かある?」
相沢が気の利く先輩口調で問う。
「いいえ、というかなんか圧倒されてしまいました」
「ん? どうした?」
俺もまた口を挟む。
「やっぱりお二人とも手際とか思考とかすごいっていうか。こんな短時間でこんなに進められるものなんですね。無駄がなくて感動しちゃいました」
そのコメントにいち早く反応したのは相沢だった。並行して頭を抱えたくなった。
「そりゃあ、須田君の教育担当は僕だったからね。自然と仕事のやり方が似たんだろう」
「え? そうだったんですか?」
無念な感情を抑えつつも、苦しい頷きをする。話を逸らす言葉を早く見つけなくては。
「そうそう。当時は可愛い後輩だったんだけどねえ」
「相沢さん」
「大事に育てたつもりなんだけどねぇ。制作部からは引き抜かれちゃうし。今は煙たがれるし。はは」
「そんなことは——」
「ねぇ、聞いてよ木下さん。あの時、僕なんとか引き留めようと熱烈なラブコールを送ったんだけどね。須田君は大好きな後輩だったからさ。こいつすっごい冷めた顔で荷物纏めるんだよ。すっかり振られちゃ——」
ガン、と強い音を立てて一気に場が凍り付いた。
衝動に任せて力強く降ろしたビールジョッキは意図したよりも大きく響いてしまった。
相沢は満足げな笑みを浮かべている。
「……先輩、グラス空ですよ、なんか注文します?」




