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無情な四月の海風を体感しながら釣っていると、雑誌に書いてあった通りの爆釣具合。
食事の時間になれば民宿に戻り、温もりを骨の髄まで染み渡るのを感じながらカウンター席に座る。そこにはだいたい浩太がいて「おかえりー」と言ってくる。
夜は片付けが終わるまでずっと話して、そこから二人でまた少し飲んで。迷惑じゃないのかとも思ったが、結局ずっと喋っている。
それが苦に感じないのはきっと、島崎浩太が実に不思議な人間だからだ。
「それよく言われるんだよなぁ。て、言うか『ズレてる』って言われる。自覚あるけど。翔一さんもそういう意味?」
「あー……」
僅か二日程度の付き合いなのだ。誰かを知ると言えるにはあまりにも短い。
それでも、思い当たらないことはない。思ったことを思った通りに言う、そういう人に思えるが。
この世の中に実直な人はたくさんいる。浩太は少し違った。彼の場合ははっきりしている、というわけではなくて。一般化をあまりしない人なのだと思う。
例えば、昨日。大量の釣果を抱えて戻ってきたときに『いい釣りできました?』と訊いてきた。
自慢げな顔でクーラーボックスいっぱいの魚を見せた。感心したように覗き込んだのだが、『で、楽しめました?』と再度尋ねられた。
これほど釣れれば、当然いい釣りができたに決まっている、そう確信していた俺は呆気に取られた。本人なりの見解はあるのだろう、しかしそれを他人が共有していると決めつけはしない。
いや、そもそも一般的な『釣果の量』と『体験の良し悪し』の関係性すら見えていないような感じがした。浩太のそういうところが不思議だと思うのだ。
自分が当たり前と思っていたことは彼にとっては個人的な認識に過ぎず。それを意図して、信念のように掲げている人も多いが、きっと浩太は根本的にそういう人間なのだろう。
「確かに」
「そうだよなぁ」
「いいと思うけどな。楽しいし、新鮮? 多分、俺は浩太君の真逆で。常に周りと合わせるのが板に付いちゃってる、っていうか。でも、フラストレーションは溜まるし、なんかいつも人の考えることを先読みしてると疲れるんだよね。だから、ちょっと羨ましいし、俺は浩太君と話しててすごい楽かな」
「そうなんだ。じゃあ良かった。へへ、足して二で割ればきっと丁度良くなるのにな? 翔一さん割りみたいな」
「焼酎じゃん」
そんな真逆な俺がこれほど気楽に話せるのも、どこかで常識とか体裁とか全部薙ぎ払ってしまいたい自分もあるからなのだろう。
香衣良に対してそうであるように、俺の普通を覆してくる存在には憧れみたいな感情が湧く。
明確な理屈はつけられない。しかし会うべくして会った、というような必然性に身を任せたものだと思う。波長が合う。それだけのことだ。
しかし様々な見栄や配慮で身を固めてしまった大人が、苦難を共に乗り越えたわけでもなく、強烈な体験を分かち合ったわけでもない他人と本音で付き合えるなんて、どれほどあり得ることなのか。
こういう出会いもあるもんだな、と浮かれる自分が確かにいた。幻想が砕けるのも時間の問題だったとは露知らず。
三日なんてあっという間に過ぎていった。
月曜になり、荷物を纏め、車に積んだ。太陽が空高く昇っても、ハンドルを握る気にはなれない。
こんなに楽しくなるのならゴールデンウィークに来ればよかったと、実家に帰る約束を差し置いて後悔している。
我ながら幼稚だとは思うのだが、たかが数日前に知った空気や景色、音や匂いがすでに恋しいのだ。
海の見納めという言い訳を立てて、車を民宿の駐車場に置いたまま、浜辺を歩いて妙な感傷に浸る。
自分で認められる以上には生活に疲れていたのだろう。それは、繁忙期の反動というのもあるし。より大きく言うと、色んなことで雁字搦めになっている自分から逃げてしまいたいと思う弱さでもある。
浜音での自分はきっと、普段とは多少なりとも違う。そしてそれは体によく馴染んだ。
これから元の生活に戻らなくてはならない、そこで待っている『本来』の自分が窮屈に思えて仕方ない。ただの我儘であることは明確だ。
「翔一さーん」
単調な波の音を割って自分の名前が聞こえた。
振り向くと自転車に乗った浩太が手を振っている。彼はその場に自転車を立て掛けるとこちらに小走りで向かってきた。
今まで様々な場所を見てきた。今回ほどの憂鬱を感じたことはない。きっとそれにはこの男が関係しているのだろう。
そんな理解はあるのだが明確に意識するのは憚れる。だから俺は心の隅の見えないところに押し込んだ。
「少し一緒に歩いてもいい?」
目の前に辿り着くと笑顔で訊いてきた。
「え、浩太君、民宿は?」
「ちょっと時間ができた。昼前に戻れば大丈夫。一人の方がよかった?」
「いや、全然」
それを受けて浩太は俺が歩いていた方向の先へと進み始める。多くの民宿客は前日に帰って行ったのだが、まだ一組の客がいるわけで、朝食前の準備で忙しいはず。
不可解に思いながらも彼に続いて足を進める。
「浜音、楽しめた?」
大きな背中が問い掛けてくる。
「お陰様で、最高の休日だったよ」
「そりゃよかった。翔一さん、来たときより顔色いいしな」
可笑しそうに振り向く浩太。
「俺そんなにヤバい顔してた?」
「よく長時間運転できたなあって思った」
「マジか、全然自覚なかった」
笑いながら答える。
確かに身体の調子はすっかり戻っている。よく寝て、釣って、食べて、笑ったお陰だろう。しばらく何を話すでもなく歩いた。
ふと気になることがあった。失礼にならない言い方を暫し考えて。
「そういえば、浩太君こっちに用事があったのか?」
「ん? いや、普通に翔一さん探してただけだけど」
「え? わざわざ?」
買い出しか何かで偶然俺を見かけたので声を掛けたと思っていただけに驚いた。
「だって、忙しくて遊べなかったじゃん? 珍しく客多かったし。ならせめて翔一さんが帰る前に散歩くらい、って思って。いや本当はさ、穴場とか連れてきたかったんだけどな。あと山の方とか」
明言されたわけではないけれど、そこで初めて俺が友人認定されていることに気付いた。
いや、浩太の場合はそれが通常運転でどんな客にもその距離で接している可能性は十分に思い浮かべるのだが。
過去三日を振り返っても、さすがに客と『遊ぶ』という表現にはならないだろう。
一瞬『ちょっとヤバい奴かも』という疑念が過った。その言葉がこの男以外から告げられていたのであれば、悪寒を覚えていたかもしれない。
そんな気持ちにならないのは、多分自分自身が同じように感じているからだろう。残念そうに結構思い切ったことを言う姿に思わず笑いが飛び出した。
突然の笑い声に驚いた浩太が振り向いた。
「え、何いきなり?」
「いや、ごめんごめん、なんでもない」
怪訝そうな顔で笑いの真意を推し量っている。
「あー、でも、俺も浩太君と釣りとかしたかったな」
わざとらしく話を逸らしてみると効果があった。疑問への解答は放って、確信めいた笑顔を見せる。
「翔一さん、今度一緒に釣りに行こ!」
自分の中で『今度』という概念がなかった。
どんなに仲良くしたとしても、民宿の主人とその客の立ち位置があって、その敷居を超えようなんて考えは一度も湧かなかったのだ。
その時に自分の常識に従っていればあんなことにはならなかった。『さすがにそれはちょっと……』で済んでいたはずだ。浩太は少ししょぼくれただろうが、泣くことはなかったはずだ。
しかし俺は『今度』というひと言に心が弾んでしまった。窮屈な自分へと戻っても、『次』があると思うだけで重々しさが和らいだ。
だから前のめりに「おお、絶対行きたい!」と答えた。その瞬間がすでに、俺の弱さが招いた選択の誤りだった。
昼近くに民宿に戻ると、浩太に「出発する前に食っていって」と誘われた。初日同様、彼の料理の誘惑に敵うわけもなく、まただらだらと居座ってしまう。
しかし朝から感じていた怠さはなく、晴れやかな気分だった。
車まで見送りにきてくれた浩太に向けて、
「じゃ、家着いたら連絡するな。あ、旅館の番号でいいんだよね?」
「え? マジで?」
不意を突かれたように大声を上げる浩太。
一瞬、もしかして自分が何かを勘違いしていたのではないかと焦る。彼は俺の表情の翳りに気付く様子もなくすぐさま興奮した風に続ける。
「こっちからも連絡していいか⁈」
「え、いや、だって……どうやって今度の予定立てんの?」
「あー、いや、翔一さんが次に浜音に来るとき話せばいいかな、って。いや、でも、すげぇ嬉しい、ありがとう!」
いつのまにか友達認定はしているのにプライベートで連絡することは思いつかない。浩太の線引きがいよいよ謎に思えた。
それにしても溌溂とした『ありがとう』が可笑しくて大笑いした。運転席の窓を開けて手で合図をしながら、
「じゃあ、またな! 浩太」
と言って帰路に就いた。
敢えて呼び捨てにしたのはそれが俺なりの友人認定の印であるからだ。
それが届いたかは分からないが、無事家に着いたとメッセージを送ると、
『翔一〜。太陽返せ〜!』
と、一週間の雨を宣告する天気予報の画像付きで返ってきた。




