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人っ子一人見当たらないが恐らく町一番、或いは唯一の商業区画であろう中央通りを下れば海沿いの道に出る。
景観は変わり、住居が肩を並べる落ち着いた道だ。それをずっと進むと、ナビは寂しげな防波堤の近くを指した。
くたびれた外観には所々、簡易的な修理の跡。幾つかの植木鉢が一生懸命、場を和ませようとしているが。あまり温かみのある第一印象とは言えなかった。
唯一入口横にある『うきぐも』という看板だけが現在進行形で営業していることを明示していた。
その入口をくぐり、敷地内の小さな駐車場に車を停める。
先程のは食堂の入口なのだろう。駐車場に面して、引き戸式の玄関口があり、その上には筆文字で『民宿うきぐも』と書いた看板があった。
取り敢えず入ってみると人の気配はなく、「すみませーん」と何度か声を上げても誰も現れなかった。
店主の話では部屋に上がれるのは十五時からだが、何時に着いても構わないという話だったのだが。さすがに早すぎたか、と思いながらも試しに正面へ回ってみる。
すると中からなにやら香ばしい匂いが漂ってきた。ガラス張りの扉から中を窺ってみるが特に動きはない。扉を開けてみた。
心まで包み込む温かさが肌を撫で、豊かな香りが鼻孔を擽った。味噌汁、焼き魚、ご飯。他にも断定できないもの。朝食は取ったのに無性に腹が減ってきた。
写真で見た通りの店内である。厨房と思われる場所からことことと音がするので「すいませーん」と声を上げてみる。そちらから「うーす」と声がして、配膳口から顔を覗かせた。『民宿うきぐも』の店主だった。
「あれ。えーと。あ、すんません、朝は食堂やってないんすよ」
「いえ、あの。予約した、須田なんですけど」
「ん?」
「須田です」
怪訝そうにこちらを伺っていた彼は少し考えるような素振りを見せると、たちまち表情が明るくなった。
「あ〜! はいはい須田さんね。て、もう来たんですか⁉」
「すいません、早すぎましたよね。何時でもいいって聞いてて。車だけ停めさせて貰ったんですけど、また午後に伺います」
「いやいや、全然。あ、でもちょっと待っててくれます? 適当に掛けといて下さい」
視線と頭の小さな動作でカウンターの席を指した。そう言い残すとまた厨房へと引っ込んでゆく。
迷惑を掛けてしまっただろうか。言われるがままに座って待つと、少ししてお盆に幾つかの皿を乗せて現れた。店の奥にある襖を開け何やら言いながら入っていった。
向こうからいくつかの陽気な声が会話しているのが聞こえてくる。そうして襖を閉めて戻ってきた店主はカウンターの端に立ち、屈託のない笑顔を浮かべる。
「腹、減ってません?」
突然、そう切り出す。
今にも鳴き出しそうな腹に鎮まるよう祈りながら、甘美な香りの誘惑と戦う。しかしチェックイン前に面倒を掛けるのも居たたまれず。
「あ、えっと。さっき食べたんで……」
「まぁまぁ、遠慮しないで。有り合わせにはなりますけど、良ければ。あとこのままカウンター席になりますけど」
小首を傾げて「ね?」と言うと、返事も待たずにまた厨房へと消えて行った。
「連れの方、大丈夫ですか? 体調崩されたんすよね?」
大きな声が厨房から響いてくる。換気扇を掛けているからだろう。自分もなるべく聞こえるように声を張る。
「はい、すいません突然の変更で。繁忙期明けで反動がきたみたいです」
「なるほどー。大変そうっすね。お仕事聞いてもいいっすか?」
「えっと、ウェブ制作会社に勤めてまして。あ、同僚なんですけど」
「そうだったんすね。俺そういうの全然駄目で。つまりネット系の仕事っすか?」
「まあ、そうですね。ウェブサイトとかアプリとか作ってます」
「へぇ、なんかすげぇカッコイイっすね」
「そんな感じでもないですよ」
笑いながら返事する。自分でも決して口下手な方ではないのだが、この人の対話力は明らかに上をゆく。
距離感が近いのに、ぐいぐいくる感じはしないし、ごく自然と会話が成り立つ。
「でも同僚と釣りに行くとかめちゃ良いですね。ここ俺一人でやってるんですけど、のびのびできる反面、そういうのは憧れるなぁ」
そう言いながら再び姿を現して、俺の前に器を並べてゆく。
メバルの塩焼き、筍の煮物、蕗の薹と白身魚の天ぷら、ホタルイカの酢味噌和え、菜の花とぜんまいのお浸し、アサリの味噌汁、ゆで卵と白ご飯。
これほどの量が出てくると思わなかった。しかしどれも丁寧に盛り付けられ、食器との調和も取れた芸術品のようだった。
思わず感嘆の溜息が零れてしまう。
「え、こんなに? 突然伺ったのに、本当すみません」
「いえいえ、多めに作っていたもんが余ってたんで。出来たてじゃないっすけど。どうぞ召し上がって。あ、今飲み物持ってきます、お茶で大丈夫ですか?」
温かい朝食の芳しい気配があたりを満たして、外の寒さに想いを馳せると、この静けさに心が和らいでゆくようだ。
過去一か月の疲労が瞬く間に消え去った。崩してしまうのが勿体ないくらいの料理に箸を近付け、塩焼きを一口食べる。
ふわふわとした旨味のある身質が塩と炭の香りを広げて溶けていく、一筋掛けたレモンがアクセントとなり、濃厚な味を更に引き立てる。
「やば、うますぎ」
と独り言が口から抜け出す。湯呑を置きながら店主は満足気な笑みを浮かべている。
「ご主人さん、これめっちゃくちゃ旨いです。何なんですか、こんなメバル初めて食べましたけど⁉ 筍も食感やばいし、天ぷらとホタルイカが絶妙に高め合ってるし、旨すぎますって!」
あまりの美味しさに感情が高ぶり、畳み掛けるように言ってしまった。途中で気付いて委縮する。
呆気に取られた表情を示した店主は吹いて、笑いながら言う。
「気に入ってもらえて嬉しいです。あ、言い忘れてました。俺、島崎浩太って言います。ご主人さんとか恥ずいんで、浩太って呼んでください」
箸元に落とした視線を上げると浩太が両腕をカウンターに立てて微笑んでいる。
「それで、須田さんは大丈夫なんですか?」
「へ?」
「須田さんも繁忙期明けなんでしょう? 無理しないで下さいよ?」
「あ、え。ええ。大丈夫、です。あの、こっちも翔一でいいですよ」
別に意図して言ったわけではなかった。
恐らく浩太の人懐っこさや他意のない親切心があまりにも自然すぎて。或いは一人で未踏の地に足を踏み入れた胸の高鳴りか。何も考えずに溢れた言葉だった。
初めて会った赤の他人なのに、全くそんな感じはせず。飾ることなく気軽に話せる古い友人のような感覚。
四月上旬の寒い朝、俺はそうやって島崎浩太に出会ってしまった。
朝食を終えてからも暫く居座って話をした。民宿の食事や風呂の時間などの説明を受けて、辺りで釣れる魚について訊いたり、町について訊いたり。
浩太は厨房の後片付けをしながら相手をしてくれた。
さすがに当初の目的を忘れていることに気付き、荷物は車に乗せたままで釣りに行こうと思った。
浩太はそんな俺におにぎりを持たせてくれた。
夕飯時もわざわざカウンターで食べていいかと尋ねた、もっと話したいと思ったからだ。しかし瞬く間に店は近隣の常連でいっぱいになり、まさに居酒屋然とした賑わいを見せた。
この地元民が集う雰囲気がなんとも心地よかった。SNSで見たアルバイトの女子高生にも出会い、忙しそうなので引き留めることはできないが、素敵な場所に引き合わせてくれたことに心の中で感謝の言葉を送った。
浜音の住人は親和的なのが特徴なのか、すぐに後ろ席に座っていた老人のグループに誘い込まれた。
三人とも方言が強く、ところどころ聞き取れない言葉を解読しようと必死だった。
「ほうかい、あんた名古屋から来よったんか。よーまあこんなボロ宿みつけてきよったの」
「ほんまやのぉ。たいがいお客さんは知り合いか、でなけりゃ知り合いの知り合いみたいなもんやざいけのぉ」
「え? あ、んー。いや実は別の民宿の女将さんからの紹介で」
「あー、なるほどの! そりゃ香苗ちゃんやざいわ、きっと」
「絶対そうやわ。香苗ちゃんもここの常連やざいけの。『うきぐも』潰れてしもたら、うちらみんな行くとこのうて困るざいけ、あははは。宣伝せんなんわ! それにしても、こんなイケメンさん寄越してきてからに、香苗ちゃんもとんだお手柄やざいけのぉ」
情報を探していた際に集客意欲がまるで見えなかったことを思い出す。
一人でやっているのであれば、余裕がないのも頷けるが、悪循環である。この民宿は経営難に陥っているのだろうか。
「はは、そんな。でも、そんな厳しいんですか、店?」
「やんやん、また余計なこと言うてしもたわ。ごめんのぉ、浩ちゃんならきっと上手いことやってくってみんな信じとるざいけ」
「まあでも、浩ちゃんも今までよう大変やったざいけのぉ。島崎の婆さんがなくなってしもて、いきなり一人で宿継いでの。ほんまによう頑張っとるざいけ。お客さん、贔屓にしてくれんさいよ? ここの料理は浜音一やざいけの!」
「よそもんにゃ分からんわな!」
「え、俺もそう思います、めちゃくちゃ美味いです」
「ほー、こりゃ見る目のある若いもんやのぉ。ほれ一杯飲みんさい。ほれ、はよしね」
「は、し……え?」
「なぁにぼーっとしとるんや、ほれグラス出しねって」
一瞬ぎょっとしたが、酒を注いでやるから早くグラス出せ、と言っているのだと理解する。
どうやら言いたい放題言われてはいるが、この場所が地元の人から愛されているのが分かる。
「こらぁ、濱爺さん。またお客さんいじめとるんじゃないろな」
「なぁにを言うんや、人聞きの悪い。話聞いとるだけやざいけぇ」
突然現れた浩太が空いた瓶を片付けながら言う。
証言を確認するように俺に視線を送ると笑顔になりウィンクをしてきた。
現実世界でウィンクする人、初めて見たかもしれない。




