5-1
とても長い時間、何度も呼び出し音が響く。
その度に喉から心臓を吐き出してしまいそうになる。このまま通話を切ってしまいたいほどに。
コール音が止まる。なにか言わなくてはならないのに、言葉を忘れてしまったかのように何も出てこない。
「……翔一……?」
最近まで聞き慣れていたはずなのに、まるで遠い昔の反響のように。
懐かしくて、痛くて。
痛くて、痛くて。
「…………こ、浩太」
その名前を呼ぶだけでも酷く動揺する。
「翔一」
再度繰り返された名前はより鮮明に聞こえる。見えない感情が内で暴れている、スマホを壁に投げ捨ててしまいたい。暴言を吐いて逃げてしまいたい。
なのに、『大丈夫だ、ゆっくり息して』と励まされているようで。無性に泣きたくなる。
「お、遅くにわるい。その。寝てた?」
「翔一……」
頼むからもう名前を呼ばないでくれと叫びたい。
ずっと震えた声。泣いてしまう寸前のような。頼むから。
頼むから、そんな声をしないで。俺のせいで。俺のために。
吐き気がこみ上げる。酸性の塊が胃の中を渦巻いている。
スマホの向こうで短い咳払い。
「大丈夫。起きてた」
前の。こんなことになる前の耳に馴染んだ口調。
「そうか……」
どう切り出せばよいのか糸口が掴めない。いくつも考えていたのに全部どこかに溶けていった。
急かすこともなく、ただ静謐だけが糸のように張り詰める。それを絶ってくれたのは浩太だった。
「なんか、食ったか?」
「え。ま、まあ」
「食事抜かしてると体、壊すぞ?」
「そう、だな。うん。お、おまえは?」
「さっき、ハルんちで。作ったの俺だけど」
「はは、そっか。楽しそ」
理由もよくわからない脱力感が広がる。
俺はこの一か月、浩太がどのように過ごしてきたかなど予想もできない。考えないようにしていたのだ。
浩太の友人の名前が出されて、スマホを握る指の力が緩まった。まるで時間が巻き戻ったようなやりとり。
それでも、声の機微で、困惑とも緊張ともつかないなにかがあるのが分かる。表面上だけが静かで、しかし水中には確かな潮の流れがある。
発せられる言葉は一つずつ慎重に置かれてゆく。
「そういえば、胡桃のやつ。絵を描いててさ。前のバーベキューの時の。似顔絵がさ、お前だけやけに力入ってんの。俺らみんなほぼ棒人間なのに」
思い浮かぶ光景。暑くて眩しい夏の日。
笑い声が炭火の匂いに乗って辺り一面に広がっていて。蝉の鳴動さえ掻き消して。
こんなに楽しいのはいつぶりだろう、と思った。
春樹君の娘がずっとくっついてきて。最初は俺の顔を見て泣いたのに。ずっと、これ見て、あれ見て、と。
「マジか。見てみたいな、その絵」
そう言うと浩太は考えるように間を置く。穏やかに聞こえる電波の流れが変わる。
「翔一、俺どうしたらいい? この絵。送った方がいいか? それとも……今度、直接渡す?」
絵の話をしていないのが分かる。浩太は俺に尋ねている。なぜ電話したのか。
鼓動が更に加速する。
「こ、浩太、俺……」
勢いを付けるように呼吸をする、どれか一つに音が乗っかってくれればと期待して。
「俺、お前に、酷いこと言って。あんなに。その。許せないかもしれないけど。ずっと気になって。謝りたくて。浩太……ごめん。本当に、わるかった」
微細な波にでも飲み込まれてしまう波紋みたいに、頼りなく掠れた声がする。それでも言えた。ずっとつっかえていた言葉。
もっと楽になるかと思った。腹の奥に居座る感触が一気に消えてくれるような。しかし理解している。そんな簡単な話ではないのだ。
「俺が。俺が翔一を傷付けたんだろ? きっと。だから、いいんだよ。あれくらい」
明一君の写真が頭を過る。本当に? 本当に、あんなこと言われるだけのことをしたのだろうか。
浩太の言葉に対して、俺のはどれだけ釣り合っていたのだろうか。許してくれているのに、期待した解放感はどこにもない。
俺の謝罪で浩太が浮かばれていないことくらい、声で分かる。
「それより、また来てくれないか? 浜音。俺も、もう変なこと言わないからさ。胡桃も皆も喜ぶから」
気を取り直すかのように放たれた『それより』が反響する。
数週間抱え続けてきた吐き気や虚脱感がその一言で無造作に払われたような気がした。いや、これは浩太の言葉というより、自分自身なのだろうか。
結局謝りたかったのは、己の気持ちを楽にしたいがため。利己的な計算。それに自ら嫌悪感を抱いて。自分の中の脆い何かが崩れ落ちそうで、浩太の言葉に縋りたくなる。
それと同時に縋った自分を想像して気持ち悪くて仕方がない。
胡坐をかいて座っているベッドの下から黒い染みが湧きだす。
灯油みたいにゆっくりと広がってゆく。
汚染、といった方がよいのかもしれない。
知っている。アレがまた来る。
「それは……無理、だろ」
「い、今じゃなくていい。いつかまた来てくれたら——」
「だから、無理だって!」
破裂音に似た声は他の音を全て塗り潰した。浩太に向けた苛立ちではない。何をしても前に進めない自分に対して。
伝えなくては。また傷付けてしまう。
しかし黒い染みから這い上がるように魚の怪物が俺を睨んでいる。余計なことを言うなと牽制している。
「翔一……」
「無理じゃん。戻れねぇよ、もう! 聞かなかったことにできないし! 無かったことになんて……会う度に気にすんのか? これは本音なのか、とか。今、傷付けたかな、とか。誤解させたかな、とかって? そんなんで前みたいになるわけっ……ねぇじゃん……」
息が切れる。声を張ったからではない。
弾けてしまいそうな感情を抑えているから。
俺を憐む目玉が見下す。怪物が大きな体ごと圧し掛かってくる。皮膚に触れる滑りと悪臭で虫唾が走る。
もうこのまま押し潰されてもいいとさえ思えてきて、抵抗する気もない。
「俺だって。俺だって戻りてぇよ……なかったことにしてぇよ……俺がこんなクズだなんて、知りたくなかった。でも、無理じゃん。もう。全部……なんで。なんであんなこと、言ったんだよ……なんで、あんな。なんでもないことみたいに」
喉が詰まる。抑え切れない。
背を這う怪物の腹から無数に触手のような黒くて爛れた腕が伸びる。
まるで子どもを抱きかかえてあやすように。
まるで絞め殺そうとするように。俺を抱擁してゆく。
何も見えない。暗い。臭い。痛い。気持ち悪い。怖い。
「……翔一、ごめんな。ほんとにごめんっ……」
「あ」
俺はまた。
「もう全部忘れていいから。俺、傷ついてないからな? 大丈夫だから」
また浩太に。違う、違うんだ。声を出そうとするが唇が形をなしてくれない。
怪物の無数の手が、どろどろとした指が、そうさせてくれない。
「翔一はクズなんかじゃないから。謝ることなんか一つもないからな?」
浩太が泣いている。声帯が握り締められているみたいに、震えて、苦しそう。
時折、鼻を啜って。それでも落ち着いた、優しい、笑顔のような。子どもに約束をするときのような、言い聞かせる声。
そんな嘘を吐いている。
「俺が。っ。全部、ぶっ壊しちまったな。ごめんなぁ翔一」
今なにか言わなくては、また後悔する。
なのに怪物は俺の口を抑え込んで、息すらできない。
気持ち悪い。気持ち悪い。助けて。誰か。
浩太。
最後に「ごめんな」と聞こえてきてぷつりと通話が切れた。
ベッドの上に呆然とへたり込んでいる俺に圧し掛かっているのは怪物などではない、ただ途方もない沈黙だ。
胃の辺りが捻じれるように痛い。覚束ない足取りでトイレにいく。
無理にでも吐き出そうとするが、涎以外の何も出てこない。胃が痛い。痛くて涙が出る。どうしよう。このまま死ぬのだろうか。
ただ謝りたかった。それが正しいことだと思っていた。正解だと。ずっと思ってきた。
何事にも模範的な回答はあるはず。見逃せば抜け出せない立ち位置に置かれる。だから考えて、考え抜いて回避する。
それが後悔しないための処世術。
願望なんて移ろいやすく、脆い支柱。あてにするだけ無駄だ。逆に翻弄されて、現実を正しく見極められなくなる。
好機、岐路、正解。これらは有限な資源であり、逃すことになる。逃せば元には戻れない。
感情のような不確かに支配されてはならない。客観的に。着実に。そうやって今まで生きてきた。
感情に支配されているのでなければ、これは一体なんだ。
俺はどこで何を逃した。どこで間違えた。なぜ俺は今、便器に俯せて悶えている。アラサーのおっさんが、顔をぐしゃぐしゃにして、たかが友人一人失ったくらいで。
深呼吸しても。効果、全くない。無様だ。
しかし浩太の声が何度も何度も聞こえてくる。砕けてしまいそうなほど細くて弱い声。
それを招いたのはほかでもない俺だ。あんなことを言わせて。
『忘れていいから』できるならそうしている。
『傷ついてないから』傷ついてるじゃん。
『大丈夫だから』そんな声じゃないよ。
『クズなんかじゃないから』クズですらないだろ、ゴミだ。
『謝ることなんかないから』ならなんで泣いてるんだよ。
『ごめんなぁ翔一』なんで全部被るんだよ。
俺はただ謝りたかっただけだ。傷付けるつもりはなかった。戻ろうなんて思っていない、戻れないのだから。
岐路を踏み誤って、もうどこにも戻れないのだから。
小さい頃、東京に越してきたばかりのとき。俺と母はしばらく祖母の家に住んでいた。
祖母はいつもにこやかな人で、仕事で忙しい母の代わりに色んな遊びを教えてくれた。折り紙にはまっていた俺は色んな折り方を教えてもらった。
ただの紙が自分の手で動物や乗り物に変身していくのが堪らなく楽しくて。選んだ色や柄を纏って活き活きとしていて。だから色紙にまでこだわった。
ある日、祖母は箪笥に仕舞ってある古着を見せて、好きな柄があれば特別な折り紙を作ってあげるよ、と言った。
俺は何時間もはしゃいで布地を選んだ。折りやすいために糊で仕上げた布の色紙で作った鶴はそれでも、ふにゃふにゃで。しかし材質や色があまりにも綺麗で大興奮した。
それから時折祖母に頼んでは布を選び特製の折り紙を作ってもらったのだ。
そんな衝動に駆られたある日。祖母が昼寝をしていたので起こすわけにもいかず、一人で箪笥の引き出しを引いた。
そこはやはりいろんな色彩が躍る宝石箱のようで。特に目を引かれた布を取り出して、怪我をしないように気をつけながら一生懸命ハサミで四角い布を切り出していった。
糊の場所も付け方も分からない俺は、とても扱いにくい正方形を一生懸命に折っていった。
そうして出来た鶴は今までのどれよりも不格好で美しく思えた。とても得意になった俺は、母が帰ってくるなり見せびらかした。
初めこそ『すごいねー』『綺麗だねー』と機械的に反応していた母は、それに目をやるなり突然、平手で俺の頬を打った。
その頃はたまにあることだった。離婚したばかりで、新しい職場でも上手くいっておらず、精神的に追い詰められていたのだ。
泣き喚く声を聞いて慌てて祖母が駆け付けた。そして俺の手にある生地を見ると、座り込んで涙を流してしまった。
それは、不要になった服が仕舞われた引き出しの、一つ下の段に納めてあった着物だった。
祖母が嫁いだときに母親に拵えてもらった、大切な着物。
あまり理解できなかった俺は、それでも見違えるほど素敵な鶴を祖母に見せて励まそうとした。ひりひりする頬を目一杯の笑顔にして。
当然、母は俺を引っ叩いた。『あんた、分かってんの? お婆ちゃんに酷いことして! もう元に戻らないのよ⁈ あんたはお婆ちゃんの大事なものを傷付けたの! なんで分かんないのよ⁉』
何度も何度も打たれて、何度も謝って、祖母は母の怒りを鎮めようと笑顔で『いいのよ、私が気をつけなかったのが悪いの』と言っていた。
それでも涙が皴の間から流れていた。
知ってたんだ。
浩太はきっといつかの祖母のように、過ちを犯した俺へ優しく笑い掛けて、許してくれると。
でも謝っても壊してしまったものは元に戻らない。傷ついた心も元には戻らないのだ。
ボロボロにしてしまった祖母の着物も、泉明一君の決意も、浩太の心も。
そう。もう何もかも遅いのだ。
せめて、これで浩太も俺を好きになるなんて馬鹿げていたと気付いて欲しい。
土日の間ひたすら脳内でシミュレーションをしていた。
店が休みの月曜なら落ち着いて浩太と話せるのではないかと考えたからだ。ただの時間稼ぎだったのかもしれない。
いざ浩太の声を聞いたら結局思った言葉は何一つ言えずに、パックマンのことすら伝え忘れた。
水抜きを終えて、いよいよ空っぽになった水槽を見る。
とりわけ懐くわけでもない。無論、鳴くわけもない、ただ無関心に遊泳しているだけだったのに。
まるでこの部屋全体が水槽の中であるみたいに空っぽだ。
午前七時二十一分。何度覗いても鏡は酷い顔しか映さない。
断片的な夜だった。
ゴミ袋を抱えて家を出る。
階段を降りていき、アパートのゴミ置き場に近付く。
既に誰かいる。気配に気付いて振り向いた長い人影はよりにもよって笠貫さんだ。
「か、笠貫さん。おはようございます」
「これは須田さん、おはようございます。調子はどうですか?」
主張の強い黒縁眼鏡の裏側から観察するような鋭い目が向けられる。その視線に堪えることができずさっさと反らす。
「お陰様で、完全復帰できました」
「……そうですか。あーそうだ、お菓子を頂いてしまったようで」
一昨日、お礼にと渡した品のことだ。
無難に地元民なら喜ぶであろう老舗の和菓子店で、季節限定のフルーツ羊羹の詰め合わせを選んだ。
あまり奮発してもよくないと思い、五つ入り。雅と可愛さを融合した包装紙を見るなり奥さんは頬に手を当てて、申し訳なさそうに喜んだ。
「全然大したものでは」
「いえいえ。ありがとうございます。私が外出していたときに来られたもんですから、直接お礼を言えず」
頭を下げながら言われたその言葉に意図を感じた。敢えて旦那さんが不在のタイミングを見計らって訪ねたのだ。
それを見透かされているようで気まずい。すぐにその場を離れたい。早く街の匿名性に身を投じてしまいたい。
「そんな」と愛想笑いをして、ゴミ袋を並べると「ではこれで…」と言いながら軽く会釈をする。
去り際に笠貫さんが単調な具合で言う。
「いってらっしゃい。あまり無理しないように」
まるで水の中にいるように籠もった感じで聞こえてくる街の雑音。
波みたいに遠近しながら揺らぐ音に流されて、意識の輪郭が定まらないまま漂う。
しっかりしなくてはならないことくらい分かっている。しかし、もう少しだけ、会社に着くまで。全部忘れて、自分も忘れて、漂っていたい。
道を踏み誤る前の瞬間に戻れると錯覚したい。全部元通りになるのだと。
それはいつのことなんだ。
先月、浩太が訪ねてきたとき。その前のキャンプ。七月のバーベキュー。五月の河川敷。
いやその前だ。
三月のあの夕方だ。




