4-6
折角の民宿と店、両方ともフル休日であるのに加え、今晩招かれた瀬戸家に振る舞う料理の件もあり朝から釣りに来た。
とは言っても家の前の道路を渡って少し先の防波堤に行くだけなのだが。なんだかとても久しぶりな気がする。
この時期に晴れの日が二日続くなんてことは滅多になく、案の定、今日は曇り空。
来週辺りから気温はどんどん下がり、天候も崩れ、波は荒れ。煌びやかな青から濁った灰色に衣替えをした海はなかなか釣らせてくれなくなる。
日本海が気難しいと言われる由来だ。今日のように凪いだ海はもうすぐ希少な光景となる。
かろうじて気持ちいいと呼べる風をジャケット越しに感じる。波と風と海鳥しか聞こえてこない静かな時間。
小さい頃から爺ちゃんと来ていたこの防波堤は家の一部分という感覚が強い。友達の少なかった俺は毎日のように釣りに来ていた。
何も釣れなくても延々と竿を伸ばして、爺ちゃんから貰ったウォークマンで歌手も歌詞も知らない古い曲を聴いていた。
一陣の風にラインがたわむ。
テトラポットに波が砕けて磯の匂いと一緒に飛沫が弾ける。視界の向こう、町の反対側から漁船のエンジン音が届いてくる。
昨日、ラジオで耳にした話がずっと頭のどこかにある。しかし気付いた以上のことには辿り着かなくて。まだ見えてこない。
澄子の叱責の真意も翔一の表情の理由も。関係あるような気がする。意識の深みから水面へと泡のように浮上しようとする何かがあるのを感じるのだ。
本物の海に漂う蛍光色のウキを眺めてなぜか自分を重ねた。
大体なんでもいいと思っているが、一応目当ての獲物はある。
撒き餌に紛れて仕掛けを漂わせるフカセ釣りでそいつを狙っている。流れに合わせて道糸を調整し、仕掛けが馴染む位置を見つけたら、あとは待つ。
午前中いっぱい使って目当てが釣れるかは運しだい。
ウォークマンは中学のときにさすがに寿命を迎えたが、スマホからフォークソングのプレイリストを再生している。
昭和のざらざらとした音に乗って親しみ深い独特の哀愁を秘めた旋律が流れる。爺ちゃんがずっと聴いていた曲たち。
ほんの六か月前にはそこに無かった翔一の気配がある。その前からここはこんなに静かだったのだろうか。
耳に届く七十年代のせいだろう、優しく抱擁してくる寂寥感が染みる。
ゆったりとしたギターが流れ男女が歌い出す。秋になり、誰もいなくなった海の話。まるでこの光景を模写したかのようで笑える。
そうだ、死にはしないさ。
「傷心旅行でもするかな」
冬になったら店閉めてしばらく遠くにでも。そんな金ないのだが、想像するくらい許されるだろう。
鼻を啜って風が目に入ったんだと自分に言い訳する。
来る前に身体が反応した。
ラインに僅かな動きがあって突然一気に沈んで横へと突っ走る。アタリだ。
ちゃんと掛かっているのを確認すると肩で目元を拭う。この潜る感じはたぶん間違いない。
勢いを付けて断続的にくる引きと兼ね合いを取りながらリールを巻く。重め。
バランスを崩さないように足を広げ腕に力を入れる。決意の固い抵抗が腕に響いてくる、暴れん坊と見た。
先ほどまでの物悲しさとは打って変わって、疾走感に溢れた曲が流れている。根気よく徐々に引き寄せる。
ようやく黒っぽい光沢が見える、なかなかのサイズだ。タモが届くまできても注意を怠らない、こいつは最後まで抵抗するから。予想通り勢いよく突っ込んできた。
黒銀の渋い体色といかにも好戦的な背鰭、狂暴な歯。金色の目はギロリと恨めしく睨んでいる。まさにお目当てのチヌだ。
バケツに入れると負けを認めないチンピラみたいに暴れる。大きさは申し分ない。
クロダイとしても知られるチヌはこの時期から産卵期を迎える春に向けて脂肪を蓄える。いわゆる旬だ。
あと一、二か月すれば更に旨味が増すのだが、浜音の海は中々釣りの機会をくれなくなる。
個体によっては臭みが特に強いので食材としての人気はあまりない。店でも敢えて出すことはないが、しかし匂いの軽い個体を選別して、下処理をきちんとすれば美味く調理できる。
何より栄養豊富でこの時期なら高級魚にも劣らない味だ。妊婦である律には滋養のあるものを、と思いこのチヌを煮付けにしようと考えていた。
防波堤でもうしばらく粘ったが他に釣れたのはサンノジ、ベラ、またサンノジ。外道ではあるが身は旨い。
必要以上に釣っても手に余るので今回はリリースした。
昼近くになり、ついにもう一匹チヌを仕留め、納竿した。
午後から雲の晴れ間を空が覗き込んできた。夕方の傾きかけた陽が橙色の影を落とすころ、大きな袋を二つ提げて瀬戸家のベルを鳴らす。
中から賑やかな足音が響いてきた。
「コータ〜!」
「おー、胡桃ー。元気にしてたか?」
飛びついてきた六歳児に危うくバランスを崩す。「くるみ、げんきー」と笑いながら言う。
後ろから遅れて春樹と大きなお腹をした律がやってくる。
「浩太ぁ、こりゃ期待できそうだのぉ」
春樹が袋を見るなりはしゃぎだす、つられて胡桃も同じく。
煮付けが気に入るか分からないので他の料理は無難なものにして、胡桃の大好物の唐揚げも作ってきた。
春樹たちは両親と祖母が暮らす母屋ではなく、敷地に建てた別棟に住んでいる。風情のある木造の母屋とは違って現代風の建物だ。
「おっちゃん達は来んの?」
「今日は若い衆だけでやってくれ、やって」
また後で料理を一部分けて持って行こう。「ささ入って入って」と中へと誘う律に片脚にしがみ付いている胡桃を引き摺りながら着いてゆく。
「律ぅ、こりゃ大物だなぁ」
「魚みたいに言わないでよ。もーさっさと腹の中から引っ越して欲しいわ」
苦笑交じりに動きづらそうな足取りでリビングへと案内してもらう。
胡桃の散らかしっ放しのおもちゃがそこかしこに広がって、部屋の隅には雑誌や洋服が積み上げられている。生活感が漂う家族の温かい空間。
小慣れた動きで台所を占領し、とりあえずつまみに用意した品々を袋から出す。夕飯にはまだ少し早いので一旦乾杯をした。
「もうあと一か月ちょいか?」
「まだ、よ。まだ一か月以上トド状態や。も〜限界。寝不足やし、まともに動けんし、ハルの飯は不味いし、酒飲みたいし、マジもう勘弁して」
そう言いながらも満足気に腹を撫でている。その姿は母親然としていて少し眩しい。
持参の品を並べていくとその度に歓声があがる。唐揚げを出したときには胡桃が部屋を駆け回りながら「やったあ!」と叫ぶ。
テーブルを囲み再度杯を掲げる。
この町の人は温かい。その中でも春樹達は特に。
婆ちゃんが死んで、初めて家が広すぎると感じた。一人で喰う飯も、一人で見るテレビも、味気なかった。
でもここに来るといつだって家族がいて。春樹達は今以上に誘ってくれたり、遊びに来てくれたり。近所の人や地元の他の友人もそれはよく気に掛けてくれた。
けれど瀬戸家は本当に俺を家族のように迎えてくれる。婆ちゃんも澄子もいないこの町で寂しい思いをすることが無かったのは春樹達のお陰なのだ。
すっかり日も暮れて燥ぎ疲れてソファで眠った胡桃を春樹が寝室へと抱えてゆく。
絶賛された煮付けの残り汁を突きながら、他愛ない話を延々と続ける。
「でさ、そのガキが『だってこいつの髪の色変じゃん』て言うんやって。そしたらさ、胡桃が『変じゃないもん、綺麗だもん。うちのママだって髪の色ピンクで綺麗だったもん。あんたの方がずっと変や』って言ったらしくてさ。あははは、たぶんうちのヤンチャだった頃の写真見たんやろうね。でっこ恥ずかしくてさ。でも『あー、うち、ええ仕事してんな』って思って」
笑いながら言う律。胡桃の学校での話だ。
どうやら胡桃の友達がクラスの男子に揶揄われていたのだ。その子は二年前に近所に越してきたオーストラリア人夫婦の娘で、すぐに胡桃と仲良くなった。
一緒に小学一年生になって、同じクラス。彼女のことを知らない子から髪や目の色を珍しく思われたのだろう。きっと悪意もなく、寧ろ好意があるからこそ、心無い一言を言ってしまった。
しかし、胡桃はそれを見逃さないで、友達を庇ったという話だ。
「胡桃は優しいからな」
うんうんと大きく首を振る律。そんな話をしていると春樹が戻って来た。
「そりゃあの、俺らの娘だぜ? 優しくて当然やろ」
「その分、思春期大変かも知れんけどな」
三人の十代の黒歴史を思い返して笑う。
「そんときは浩太おじちゃんがビシっと決めてくれんと」
「俺任せかよ」
また笑い声が弾ける。少しして律が柔らかい眼差しでお腹を撫で擦る。
「でも、何でもええわ。この子たちが幸せに育ってくれれば」
そこには母親の無条件の愛があって。あれほど尖ってた律がこんな顔をする日がくるとは当時思わなかった。
昨日のラジオの話が頭を過る。こんなに愛があっても受け入れ難いこともあるのだろう。
「なぁ。もしさ、胡桃が将来、『女の子が好きになった』とか言ってきたらお前らどうする?」
拍子抜けしたような視線が送られる。
やはりこれはデリケートな話題なのか。問い掛けたことを少し後悔した。
先に律が口を開く。
「えー何急に? さっきのジェナちゃんのこと? あはは、まだ小一やん」
「てか、俺は女やろうが男やろうが、娘を他所にやるなんて許さんでな!」
威勢よく宣言する春樹に「はいはい」とあしらう律。
心のどこかでほっと息を吐く声が聞こえた。律は俺の方に視線を送ると、何かを悟ったような口調になる。
「胡桃がそれが幸せやって感じてるんなら、うちは全然ええけどねぇ」
まるで子供のような情けない顔をする春樹が表情を戻す。
「にしても、どした急に? なんかお前らしくないの」
意味ありげに微笑む嫁を横に、怪訝そうに片眉を上げている。
漠然と胡桃の将来を思い浮かべて尋ねたことだった。それ以上の意図はなかった。
当然、無意識に自分の状況を重ねていたのは、今なら分かる。
一瞬固まった俺に更に視線を深く刺すと、春樹の目に閃光が走った。
「あ、マジで? お前もしかして」
冷汗がこめかみから滲む。澄子の絶句した表情が蘇って躊躇いを覚える。
どんなに信頼していても分かり合えないことはある。思わないところで轍を踏み、関係を濁す。
何も返さない俺を見て春樹は律に振り向いて続ける。
「そっかそっか。あー絶対いつかそう言う話してくると思っとったわ。のぉ、律?」
「思っとった、思っとった」
予想とはほど遠い、明るい声がする。俺の「え」という声が頼りなく零れた。
誰よりも先に澄子に話そうと思っていたので翔一のことは何も伝えていない。でも、春樹や律が知ってくれてたら、受け入れてくれたら、俺はだいぶ生きやすくなるのではないか。
妙な期待が心を走る。反面、決心が付かない。
こんなこと、二日前までの俺では考えられない。友人に伝えたいことを熟考するなんて。
大切な人の拒絶を一度受けると自分を守りたくなるのだろうか。だから人は自分らしくあることに躊躇するのだろうか。
それでも俺は反応を伺うように頷く。すると二人の顔に相槌のような微笑みが浮かぶ。
「ていうか、『思ってた』ってなんだよ?」
「だって浩太やざ? 女とか男とかそんな壁、平気で乗り越えそうじゃん。てか、壁なんて見えてもないやろ?」
澄子に話したときとはあまりにも対照的で呆気にとられる。
俺はどこで自信をなくした。自分でいる自信も、友人に理解してもらえる自信も。
「それは、大丈夫なことなのか?」
「は? なんなん、おまえらしくねぇ。のぉのぉ、当ててもいいけ? 絶対、翔一やろ?」
バーベキューのとき、翔一に対する俺の振る舞いを目撃して、二人でそんな話をしたという。
自分でも自覚しないでそんなに垂れ流していたとは露とも知らず、急に羞恥心がこみ上げる。
しかし焦燥感ではなく、心を掬ったのは安堵感。受け止めてくれた。俺が翔一に抱く気持ちを知ってくれた。
少し感情的になりそうなのをこらえながら翔一のことを話す。『おまえ、胡桃に引っ叩かれるぞ』と言われながら、愛情に溢れた眼差しが話を聞いてくれた。
雲の裏側で月が高く昇っているだろう。
静まり返った部屋に戻るといつもの虚しさが襲ってくると構えていた。しかし、胸はずっと満たされたままで。
今まで俺が当然だと思っていたことはそうでもなくて、理解して貰えたことにこんな充足感があるとは。
ベッドに仰向けになって春樹達の言葉を反芻する。何があろうとこの気持ちは確かに在るものとして残る、俺だけじゃなくて俺を知る誰かの心に。
押し殺さなくていい。俺はつくづく恵まれているのだと自覚する。
突然のスマホの振動に身体が跳ねる。瀬戸家に忘れ物でもしただろうか、とスマホを手に取ると目を疑った。
須田翔一の名前が表示されている。
手が震え始める。
本人であるわけがない理由が脳内に列挙される。
同姓同名。ポケット発信。悪戯。しかしどれも繋がらない。
今にも切れるかもしれないとはっとする。
慌てて応答ボタンをタップして端末を耳に当てる。
何も聞こえてこない。
「……翔一……?」
「…………こ、浩太」




