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蛇口から勢いよく水が噴き出して鍋を満たす。
ラジオから耳触りの良い女性MCの溌溂とした声がポップなBGMと共に届く。
「はい。ありがとねー。じゃあ次いくよ。うーん、よし、君にしよう」
とやや大袈裟に言う。
リスナーのメッセージを読み上げ、コメントしたり相談に乗ったりするコーナーだ。
「RN『ムササビ笹むすび』さん。ん? 早口言葉? 『YUIさんのラジオにはいつも元気をたくさんもらってます。いつも楽しく聞いています』
ありがと〜、私もみんなから元気もらってるよ〜!
えーと『先週のゲスト会に来られたアコさんの話にすごく感動して、お礼が言いたくてメッセージを送りました。
私は今高校三年の女子なんですが、今まで好きになったのはいつも女の子で、自分はレズビアンなんだろうなと思っています。
この前、さんざん悩んだ結果、母にカミングアウトしたんですが、理解してもらえず、ずっと気持ちが沈んでいました。でもアコさんの話を聞いてとても楽になりました。
当事者にとってカミングアウトは一種のゴールだけど、受ける側にとってはスタートラインなんだと聞いたとき、これからも理解してほしいから努力しよう、と思いました。
カミングアウトは義務じゃなくて自分が生きやすい環境をつくるための手段でしかないと仰ったときも、無理に言わなくていいんだ、とすごく楽になりました。
アコさん、そしてYUIさんのおかげで前を向けた気がします。本当にありがとうございます』
はーい。ムササビちゃん、メッセージ本当にありがとうね〜!」
味噌汁の味を確認しながら、意識が聴覚に集中しているのが分かる。
「アコさんねー、本当にすごい人よね。
あ、おさらいするけど、先週ゲスト会に来てくれたアコさんは最近出版した本が話題のドラァグクイーンね。
著書とは別にゲイとして経験してきた生きづらさとか葛藤とかたくさんお話してくれて、私もすごく感動したよ。
私はアコさんがムササビちゃんを励ましたみたいに、ムササビちゃんのメッセージも今多くの人を励ましてると思うな。大変なこともきっと多いけど、息が詰まっちゃう前に同じ悩みを分かち合えるコミュニティとかを調べるのもいいかもね。
お母さんのことも含めてずっと応援してるからね! またいつでもメッセージ書いてね。 ムササビちゃんありがとう!」
次のメッセージを読み始めるMCの声はもうあまり鮮明に届いてこない。
俺はラジオを消して、スマホでラジオアプリを起動する。YUIがMCを務める『セーフゾーン』を探し出す。
過去番組の履歴にはぎりぎり目的の回が残っていた。スマホの音量を最大にして、調理台上の吊り棚に置いた。
しばらくするとアコという人の紹介が入り、特徴的な口調で例の書籍について語り始める。
内容は、ドラァグクイーンの世界に踏み込む一人の女性の物語を描く小説のようだ。片耳で聞き流しながら野菜や肉、魚の用意を進めてゆく。
「アコさんは昔からこういう煌びやかなお洋服とか好きだったの?」
「いやあねぇ、アタシだってこ〜んな感じで育ったわけじゃないわよ。元々は女装も興味なかったし。ふっつーのゲイをしてたわよ」
「普通のゲイって。あはは」
「今は母親とショッピングしたりできて楽しいけどね」
「お母さんと仲いいのね」
「いやぁん、もう本当大変だったんだからぁ。カミングアウトして十年くらい口聞かなかったし」
「十年も? それで今は出かけたりするんでしょ? それもすごい話ね。カミングアウトの話とかできれば聞きたいわ」
「そうねぇ、まあ正直アタシもカムアウトするかしないか、相当悩んだし。そのときはゲイである自分も中々受け入れられてなかったのよね。今思うと。
だから決死の覚悟でばーって気持ちをぶつけたんだけど。んも゙う、すんごい言い合いになって。『仕事どうすんのよ』とか『結婚できないよ』とか『老後は』とか言われて。はは、正直『うーわ、的外れー』とか思ってね。
アタシもむきになって『そんなもん知るかクソばばぁ』とか怒鳴ったりして。焦ってたのよね、あまりにも受け入れてほしくて。
でもさー、自分でさえ何年もかけて、しかもそれ以外の選択肢なんてないから、やっとの思いで受け入れたわけじゃない? それを突然言い放って即理解してもらうって相当のものよねぇ?
若いころは分からなかったけどアタシは考えて考えて、カムアウトしようってゴールまで辿り着いたけど。母親にとってはそこで初めて向き合うしかなかったのよね。
いわば、アタシのゴールは母親のスタートラインって感じかしら。あらやだ、アタシめちゃくちゃいいこと言ってない?」
MCが相槌を打つ。自分でも繋げることの難しい考えがいくつも頭を巡る。
受け入れてほしいアコさんの焦燥感。突然打ち明けられて思考が追い付かなくなる母親。翔一の傷ついた顔。澄子の怒りを抑える顔。
俺が思うよりずっと、性的指向とは核心的な部分なのではないだろうか。
アイデンティティ以上に、どうしようもないこと。
だから、どうでもよくなんてない。
「それで絶縁状態になってね。でも歳を重ねてけば分かるじゃない? 確かに仕事では気まずい空気出されてぐちぐち嫌味言われるし。
あたしカムアウトって自分らしくあるためにはしなきゃいけないものだと思ってたのよね。それ自体がアタシのアイデンティティみたいな?
でも所詮、自分が生きやすくなるための手段でしかないの。することでかえって生きづらくなるならしなくてもいいんじゃない、って今は思えるけど。
それに、好きな人ができてもノンケのような恋愛できないのよ。ゴールに結婚も子どももないわけだから。
未来のこと考えても自分のことは自分でやるしかないし、わりと孤独な感じがするのよ。
それで『あー、クソばばぁ、こういうこと心配してたんだなぁ』って思ってね。十年ぶりに連絡したわけ。そぉしたらさ〜。
母親も十年間ずっとLGBTQとか勉強しててぇ、なんならNPOとかでボランティアしてて。
ホントよ〜。アタシたち分かり合うのにこんだけ時間がかかったんだねぇ、ってなったわけ」
YUIは興味深そうに話を更に広げる。
社会が実際に「そんなもの関係ない」と傾いていけば、きっと誰も傷つく必要はないのだろう。
しかし、俺がどう思おうと現代はそんな世界じゃない。最後のフレーズが脳裏にこだまする。分かり合う時間。
高校時代の自分が思い浮かぶ。性的マイノリティについて初めて聞いて、調べたとき。
ネットには本当に色んな意見が載っていた。自分を自らこうだと主張すること。誰かを異常だ、の一言で否定すること。どれも不快に思えた。
迷惑なんてかからないのだから好きに生きればいいのに、わざわざ主張する意味もそれを否定する意味も分からなかった。
俺はそこにれっきとした戦いがあることを理解していなかった。生きやすい環境をつくるための戦い。
俺は無益な対話だ、と一瞥して視線を逸らした。どうでもいい、と。
四時半丁度に店の扉が開いた。
「おはよーっす」
「おう、悪いな日曜に来てもらって」
「問題ないっす、稼げれば稼げるだけいいんで」
大真面目な顔でガッツポーズをする恵梨香は近隣に住む高校二年の女子高生。
親は昔からの常連で、卒業後に上京するための資金作りに去年から定期的に働いてもらっている。
不愛想だがてきぱきと動くし飲み込みも早い。今まで厨房と店を行き来してばかりだった俺は大変助かっている。
なんなら俺よりも商売上手で、彼女が入る日は売上も伸びる。女子高生なのでさすがに遅くまでは働いてもらうわけにはいかないが、八時までの混雑に対応するには十分だ。
「そう言えば、中間テストどうだったんだ?」
厨房の角に設けたスタッフ用のスペースでエプロンを絞めている恵梨香は露骨に嫌そうな顔でこちらを見た。
「え、なに?」
「いや、大丈夫でしたけどー。テンチョー親みたいなこと言わないでくださいよ」
「大事だろ。東京の大学受けたいなら、成績保つのも」
「うーっわ」
そう零して店内のテーブルを拭きに消えていった。
今まであまり感じずに生きてこられたのだが、いよいよジェネレーションギャップというものを痛感するようになってしまった。「うーっわ、て」と呟く。
とりわけ恵梨香はもう何年も東京で勉強するのが夢で堅実に貯金し、流行を逃すまいとアンテナを張り巡らせ、確率を上げるために猛勉強し、方言まで矯正するほど一念が定まっている。
浜音女児の中でも特に都会のティーンエイジャーを意識して生活している。イメージとは似つかない舎弟口調は、なぜか俺専用で、普段は実に女子高生らしい口調である。バイトを始めた頃に定着した話し方だ。
小さい頃は『浩兄』とか呼んでたのに、生意気になったものだ。
「恵梨香、これ今日の品書き」
「す」
固定品以外の料理をメモした紙を渡して清書してもらう。字の汚い俺よりはるかに客に親切だからだ。
そのついでに品書きをデコってしまう癖は俺も微妙に思うが。
「え、テンチョー、マジっすか」
「なに?」
「アジのカルパッチョ、て」
「何かおかしいか?」
「いやぁ、いいっすけど。なんかオシャレじゃないっすか?」
「何だよ、オシャレじゃいけねぇみたいな言い方して」
「いやだって。カタカナっすよ?」
「うっせぇな、いいだろ。試しだ試し」
「あの」
「あ゙ぁ?」
「後で食べさして下さい」
その晩はグリッターペンまで使った、特に気合の入った品書きが店頭に並び、一皿を除いて瞬く間に品切れになった。
品書きデコには威力があるのだと確信した。




