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とても、とても翔一の声が聞きたくなった。
汚れないように自室の仏壇の前に胡桃の絵を置く。金髪髭お兄さんの似顔絵を軽く指でなぞる。翔一、これ見たらどんな顔するだろう、と少しだけ噴き出してしまう。
渡す機会はもう、ないかもしれないのに。
スマホから翔一との会話履歴を開く。
少しスクロールすると彼が残してくれた音声メッセージに辿り着き、画面をタップし、再生する。
『浩太〜。もう寝た? 今さ、動画で京都のグルメ特集みたいなの見つけてさ。桜喜亭が出てるじゃん、ってなって。当主さんも出演しててさ、何かすっげぇ厳格な感じなのにインタビューでめっちゃ噛んでてさ。あー、ヤバい、もう、笑い止まんねぇ。『伝統を守ってゆきましゅ』って。あははは。あーヤバい。あ、ごめん。マジで失礼だよな。気を悪くしないでな〜。それ以外はすげぇ格好良かったし、店もめちゃくちゃ雰囲気あって。絶対一度行ってみたいわ。まぁ、そいだけなんだけど。暖かくして寝ろよー』
なんでもないメッセージ。そんな『なんでもない』がすごく心地よくて。温かくて。楽しくて。
俺は笑いと同時に違うものも込み上げてきて、スマホを胸の近くで握りしめて蹲る。
正面には祖父母の写真が並んでいる。和やかに微笑む婆ちゃん。写真が苦手で決まらない顔をしている爺ちゃん。
「爺ちゃん、婆ちゃん。俺どうしたらいい?」
翔一に今まで貰った色々なものや時間が心の奥から溢れそうだ。溢れたらなくなってしまうような気がして、瞼を固く閉じて、手で抑えて。
行かないで、と言うように必死で押し返す。
俺は恋愛の初心者だ。
本当に好きになったのは澄子と、翔一。たった二人。俺から告白したのは翔一が初めて。
浜音に戻ってから試しに付き合った人は何人かいた。そういう好きにはならなかった。だからこういうとき、どうすればよいのか知らない。
皮膚の裏側でたまに暴れ出す痛みは、どう対処する。息が詰まりそうになるのは。
どこにいっても周りからは楽観的だと言われてきた。その通りだと思う。
前向きなのが取り柄だ。前向きで諦めが悪い。過ぎたことを悔いて膝を抱えている時間などない、ひとつしかない人生。
だからやりたい事はやるし、大事なものは守るようにしてきた。実現させる力がないのなら、力を付けるのも含めて目標になる。
考えが浅いと言えばそれまでで、確かに俺は決して頭の良い方ではない。
しかし思う。どんなに考えても目の前にある日常も、事象も、人も。心にある夢も、願望も、嫌悪感も。全部そこに存在している。
変えられるものよりそうではないものの方が遥かに多い。変えられるとすれば、自分。
どう捉えて、どう影響されて、どう活かすか。それくらいではないのか。
同じ変えられない現状ならば、考える前に受け入れるべきだと思う。一度受け入れてしまえば、自分の心が傾く方向がよく聴こえてくるようになる。
何が可能かではなく。まず、どうしたいか。それが分かれば自分の行動に責任が持てる。後悔しない方角を決断して、進められる。
受け身でのらりくらりと生きるというわけではない。俺は昔それを履き違えた。それは何も受け入れていないのと同義だった。
婆ちゃんが言った、自分の人生に責任を持つこと。俺にとっては人生の欠片ひとつひとつを、自分の意思でちゃんと積み上げることなのだ。
それが崩れたならば、それがどうしても不可能ならば、誰のせいでもない。俺の決めたことだ。
楽観的とは別に、思考を放棄している、浅はかだ、幼稚だ。そうも言われる。その通りだと思う。
少しズレてる俺には、ちょうどいいのだ。違う生き方がどういうものなのか想像も付かない。
今、俺の心に耳を傾けると。翔一が好きで、翔一ともっと一緒にいたくて、翔一と笑っていたい。
それが本音なんだ。
だからできる限りのことはしたい。それで駄目なら後悔はない。
『浩ちゃんは正しいよ。正しいけど違うんだよ』
澄子の悲しそうな声。一つの疑念。
できる限りのことをすることで翔一を傷つけてしまうのであれば。それは、後悔にならないのか。
傍に放ったスマホが振動し、煌びやかな着信音が鳴り響く。画面に瀬戸春樹と表示されている。
「おー、さっきぶり〜。今大丈夫け?」
「おう」
「あれ元気なくね?」
「全然。ちょっと寝てた」
「なんやぁ心配させやがって」
「大袈裟だろ」
昔から春樹は熱い男だった。一度打ち解けた仲間にはどこまでも親身になって、喧嘩でもなんでも最後まで付き合う。
決して裏切らないし、見返りも求めない。むさ苦しいと言ってもよい。でも様々な人に出会って気付いた。こいつみたいな人間はほとんど会ったことがない。
マンガの中の人物なのだ。そんな友人を想って少しは声に張りを出すことにする。
「あ、ほんでさ。澄子と話したんやけど。やっぱ厳しいってや」
「そうだろうな、今度もっと余裕があるときにしよう」
「ん。てかさ、お前ら喧嘩したやろ?」
妙な明るさが声に籠っている。面白がってやがる。言い当てられて若干たじろぐ。
「う。お前こういうときだけ鋭いよな」
「何年友達やっとると思ってんの」
得意そうに笑っている。さりげなく少し貶したことはスルーしてくれているのか、気付かなかったのか。やはりマンガの登場人物だ。
「さっさと仲直りしとけや? どうせそうなるんやで」
「はい」
「浩ちゃん、父ちゃんの言うこと聞けて偉いのぉ」
「やめろよ」
春樹の最近の持ちネタ。第二子が生まれることを知ってから、やたらと父親アピールをするようになった。
スマホ越しに再び軽快な笑い声が響く。喧嘩の内容を聞いてこないところも非常にこいつらしい。
「でさ、まあ飲む気分でいたわけやの」
「そうだろうな。いつにする?」
この流れはよく知っている。春樹に限って、宴会の機会があったのにそれがなくなって黙っていられるわけがない。
正直なところ、客もいないのだし、気分転換をしたい気持ちは大きい。
「うおぉ、さすが心の友よ! 話が速いの! 明日さ、店の方休みやろ? さっき客おらんって言ってたし、うち来いの。律も会いたがっとるし。最近ずっと引きこもっとったで、誰にも会えんくてピリピリしてるけど」
ついに国民的アニメの名台詞まで。もうすぐ臨月の律は行動範囲が急激に下がったのだろう。
ずっと籠りっぱなしでは気が滅入ることだろう。「だからだろ」と答える。
「まぁ、分かった。明日の晩な。まさか、ハルが料理するつもりじゃねぇよな? ならいくつか作ってくけど」
「あ、マジで? やりぃ! 白状するとカレー一品にするつもりやったわ」
恐らく端から俺に料理させるつもりだったと窺える。その分の嫌味も差し込んでおいたし、よしとする。
「酒はこっちで用意しとくもんで気にせんでの」
酒屋の息子が至極予測可能な言葉を残して通話は切れた。
春樹の躍動的な活力に触れてこちらも元気が出た。いつだってこいつは何も深く聞き出すでもなく、ただ励ますように、寄り添うように接してきた。
スマホの表示を見て澄子から通知が入っていることに気付く。DMで音声メッセージが入っていた。
少し構えて再生する。
「浩ちゃん、昨日はあんな感じで帰ってごめん。私、今晩帰ることにした。喧嘩したからとかじゃなくて、浩ちゃんの言う通り、私、逃げてきたんだって分かったから。だからちゃんと向き合わなきゃなって。そうしないと進めないって思ったの。でさ、浩ちゃんの言ってた。好きな人のことなんだけど……」
少し沈黙する。浜辺で録音したのだろうか、波と風の音がする。
「やっぱりよく分かんない。なんで突然男の人なのとか。将来のこと、考えてるのとか。色々。でも。浩ちゃんが好きになったんだから、きっと素敵な人なんだと思う。正直に言うと私、応援していいのか分からない。けど浩ちゃんはいつだって大事な人だから。だから、浩ちゃんが笑顔でいられるように、って。心配しないでね。また話そ。バイバイ」
澄子が普段通りの口調だったことに胸を撫で下ろす。その上、決意が蘇ったようでよかった。
画面の録音ボタンをタップして返事をする。
「昨日は俺も悪かった。きっとまた俺が気付かずに良くない言い方したんだと思う。無理に応援することもないし、俺も澄子が大事なのは変わらないから。だから、京都に戻っても元気でな。いつでも帰って来いよ。またな」
時間を見ると三時になるところだった。そろそろ店の準備をするか、と部屋を出る。
不安が一つある。昨晩で近所には澄子の帰省の噂が広まっただろう。すなわち今晩も大勢押しかけてくる可能性がある。
混雑と澄子がいないことへの文句と、容易に想像がつく。もちろん、ありがたい悩みだ。
日曜の夜で申し訳ない気持ちもありながら、駄目元で恵梨香に今晩バイト入れないかメッセージを送る。
幸い無遠慮な子だ、だめならはっきり言うだろう。
厨房に立つと気合いが入る。
必要な動作は全部身体が覚えている、一つずつ動けばいい。ラジオをつけて、包丁を研いで、調理台を拭いて、皮を剥いて、火をつけて、身を捌いて、味噌を溶いて、フライパンを揺すって、冷蔵して、味見して、容器を並べて。
指先まで馴染んだ動作、寸分の狂いもない動作。
その先に食べる人がいるから。
恵梨香からの返信は早々に来た。
『ダイジョブっす。四時半入ります』
頼もしい子だ。臨時だしバイト代は少し弾もう。




