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15/30

王都の技官、廃村の井戸に敗北する

第15話です。

リーベル村の水と記録は、ついに王都側の技官にも確かめられることになります。

 三滴印を押した検査票が村の外へ出てから、三日が過ぎた。


 ドランが運んだ検査票が王都まで届くには、まだ早い。

 それでも、別の知らせならもう届いていてもおかしくない。


 セドリック・ロウが持ち帰った報告。

 エルシアが辺境警備隊へ送った巡回記録。

 そして、王立錬金術院で続いているらしい不具合。


 それらがどこでどう結びついたのか、今の俺にはわからない。

 ただ一つ確かなのは、旧リーベル村がもう、誰にも見られない廃村ではなくなったということだった。


 リーベル再開拓準備村の朝は、以前より少しだけ忙しくなっている。


 中央井戸では、ガイ老人が水音を聞く。

 分水石では、ミラが木札を見ながら取水順を確認する。

 東水路では、ガンズが木樋の継ぎ目を叩き、ネリアは南畑の試験区で白露草の葉先を見ている。

 エルシアは村の入口と北森境界を巡回し、俺はその間に記録帳を開いていた。


 水が戻った。

 薬草が芽吹いた。

 規格部品ができた。

 検査票も生まれた。


 けれど、どれも完成しているわけではない。


 中央井戸の赤線はまだ残っている。

 南畑の白露草は試験株だけだ。

 北森の結界柱は応急修正のまま。

 リーベル一番枠も、東水路の一部に使えるだけの木樋でしかない。


 だから、今朝の記録にも制限を書く。


『中央井戸、水音安定。ただし大量取水不可。東水路、リーベル一番枠一号から三号まで異常なし。四号、接合部に軽微な赤線。調整板を半枚追加。白露草試験株、枯死なし。採取禁止継続』


 書き終えたところで、ミラが水番小屋から顔を出した。


「お兄さん、三滴印、箱にしまったよ」


「鍵は?」


「おじいちゃんの鍵、わたしの首のひも。エルシアさんの鍵、エルシアさんの袋。お兄さんの鍵、記録帳の下」


「俺の鍵の場所まで言わなくていい」


「え、だめ?」


「だめだ。鍵の場所は、必要な人だけが知っていればいい」


 ミラは少し考えてから、真剣な顔でうなずいた。


「じゃあ、今のは忘れる」


「忘れるのも記録できればいいんだが」


「忘れることを記録したら、忘れてないよ」


 その理屈は正しい。


 俺が少し笑った時、村の入口から馬の蹄の音が聞こえた。


 一頭ではない。

 馬車の車輪の音も混ざっている。


 ミラがすぐに水番小屋の戸を閉めた。

 最近の彼女は、知らない相手が来ると、まず三滴印を隠すようになっている。


 エルシアが村の入口に立った。

 外套の下、左腰には短剣。亀裂の入った長剣はまだ使わない。


 倒れた柵の向こうから入ってきたのは、王立錬金術院の紋章をつけた馬車だった。


 先頭に立つ男は、白衣の上から旅用の外套を羽織っている。

 年は三十代半ばほど。細い銀縁の測定眼鏡をかけ、手には金属製の器具箱を持っていた。

 その後ろに、見習いらしい若い技官が二人。


 白衣の男は、村の入口に掲げられた札を見上げた。


『リーベル再開拓準備村

水、薬草、部品の持ち出しは検査票を要する

三滴印なき品はリーベル産と認めない』


 さらに下の札も読む。


『リーベルの水には、リーベルの印をつけます』


 男は、鼻で笑った。


「廃村が、ずいぶん物々しい札を掲げるものだ」


 エルシアの目が細くなった。


「所属と目的を示してください」


「王立錬金術院、調査技官マルク・レインズ。院長命令により、旧リーベル村の水源復旧状況、およびルカ・オルメインの現地作業を確認しに来た」


 マルクと名乗った男は、懐から命令書を出した。


 エルシアが受け取り、封蝋を確認する。

 王立錬金術院の紋章。宛名は、旧リーベル村派遣者ルカ・オルメイン。


 以前来たセドリック・ロウと違い、今回は技術調査を名目にしている。

 だが、目的がそれだけとは限らない。


「確認内容を具体的に」


 エルシアが言うと、マルクは少し不快そうに眉を動かした。


「辺境警備隊が錬金術院の技術調査に口を出すのか」


「ここは再開拓準備村として臨時保全指定を受けています。水源、薬草、部品の持ち出しには村の管理記録と立会いが必要です」


「臨時保全指定。ああ、報告にありましたね」


 マルクは視線を俺へ向けた。


「ルカ・オルメイン。君が申請したのか」


「俺だけではありません。エルシアさん、ガイさん、村の関係者の記録をもとにしています」


「相変わらず記録が好きなようだ」


「記録がなければ、なかったことにされますので」


 マルクの表情がわずかに固まった。

 王都で何があったか、どこまで聞いているのかはわからない。


「今日の目的は三つだ」


 マルクは器具箱を地面に置いた。


「第一に、中央井戸の水質確認。第二に、君が作成した検査票の妥当性確認。第三に、古代式制御井と称している井戸構造の実地調査。必要に応じて、試料と写しを王都へ持ち帰る」


「試料は、用途と量を記録してからです」


「水の小瓶程度だ」


「小瓶でも記録します」


 マルクはため息をついた。


「本当に、面倒な男だな」


「よく言われました」


「褒めていない」


「わかっています」


 ミラが水番小屋の戸の隙間から、じっとマルクを見ている。

 その顔は、以前のような怯えではない。

 水番として、三滴印を守ろうとしている顔だった。


 俺はマルクに言った。


「調査には立ち会います。ただし、中央井戸の内壁には勝手に触らないでください。制御陣はまだ不安定です」


「井戸の石壁に触るな、と?」


「はい」


「それで調査になるのか」


「触らずに確認できることから始めます」


「王都では、そういうのを過剰警戒と言う」


「王都では、それで炉が止まりました」


 マルクは口を閉じた。


 俺は第七小型炉や薬品庫の詳しい事故内容を知らない。

 だが、王都から来る人間の顔を見れば、何かが起きていることくらいはわかる。


 マルクは器具箱を開けた。

 中には、魔力圧計、水質石、微細刻印鏡、銀針、薬液反応紙、簡易炉心灯が整然と収められている。

 王立錬金術院で使われる標準的な調査道具だ。


 俺が使っている針金や欠けた定規とは比べものにならない。


 それでも、俺の視界には、器具箱の留め具に細い赤線が見えた。

 旅の途中で一度落としたのだろう。蝶番がわずかに歪んでいる。


「その箱、左の留め具が外れかけています」


 マルクの手が止まった。


「何?」


「左です。開いたまま持ち上げると、蓋がずれます」


 若い技官の一人が確認し、目を丸くした。


「本当です。留め軸が曲がっています」


「今は井戸の調査だ」


 マルクは不機嫌そうに言い、器具を取り出した。


 最初は水質確認だった。


 中央井戸から汲んだ水を小瓶に入れ、水質石を沈める。

 石は薄い青に光った。

 危険反応はない。


「清浄度は高い」


 マルクは認めた。


「だが、水量は少ない。井戸としては不完全だ」


「完全復旧前です。検査票にも大量取水禁止と書いています」


「水質は良い。しかし水源としての価値は限定的」


「今は、その通りです」


 マルクは俺を見た。


「反論しないのか」


「正しい指摘には反論しません」


 マルクは少し困ったような顔をした。


 次に、彼は分水石と東水路を測った。


 分水石後の水には、古い土の筋が混ざる。

 木樋の受け場の水には、新設木樋由来の木臭がある。


 マルクの測定結果は、先日作成した検査票とほぼ一致した。


「中央井戸水、飲用可。ただし大量取水不可。分水石後、煮沸推奨。東水路受け場、飲用不可。生活用水、畑用」


 マルクは三枚の木札を読み上げた。


「荒い札にしては、内容は正確だ」


「ありがとうございます」


「褒めてはいない。正式なギルド証明でも、院の検査書式でもない」


「はい。試験運用です」


「……反論しないのか」


「正式ではないのも事実です」


 エルシアが横で小さく息を吐いた。

 たぶん、笑いをこらえたのだと思う。


 マルクは気を取り直すように、中央井戸の縁へ近づいた。


「では、本題だ。古代式制御井とやらを見せてもらう」


「井戸の縁から覗くだけにしてください」


「わかっている」


 マルクは微細刻印鏡を井戸の内側へ向けた。

 光を反射させ、内壁の刻印を拡大して見る道具だ。


 王都にいた頃、俺も何度か使ったことがある。

 良い道具だ。

 刻印の摩耗、ひび、欠け、汚れを細かく確認できる。


 だが、魔力流路の赤線までは映らない。


 マルクはしばらく黙って観察していた。


「古いな」


「はい」


「円環式。水脈印。三方向の流路印。中央制御環の外側に補助刻印。分類としては、古代北方式の水源制御陣に近い」


「俺もそう見ています」


「だが、動作原理が合わない」


 マルクは眉を寄せた。


「古代北方式なら、水脈印の外周を削って流量を上げる。詰まりがあるなら、白色結晶を広く除去するのが普通だ」


「この井戸では駄目です」


「なぜだ」


「中央、北、南、それから西方の不明流路がつながっています。広く削ると、流れが西へ逃げます」


「西方流路?」


 マルクは刻印鏡を調整した。


「見えない」


「表面刻印ではありません。魔力流路です」


「測定値は?」


「今の器具では出ません」


「なら、根拠がない」


 その言葉は、王都で何度も聞いた。


 数値がないなら根拠がない。

 書式にないなら存在しない。

 手順書にないなら不要だ。


 俺は井戸の縁に手を置いた。


 赤線は見える。

 中央制御環の内側に、太く残った閉塞線。

 北森流路へ伸びる細い黄線。

 南畑流路は昨日より少しだけ安定している。

 そして、西へ伸びる、薄いが不自然な赤線。


「根拠はあります。ただ、あなたの器具には映らない」


 マルクの顔が険しくなった。


「それを、王都では主観と言う」


「でしょうね」


「君は、主観で井戸を直しているのか」


「いいえ。見えたものを記録し、結果で確認しています」


「言葉遊びだ」


 マルクは銀針を取り出した。


「中央制御環の白色結晶を、こちらで少し採取する」


「駄目です」


「調査には試料が必要だ」


「採取する場所を間違えると、水音が乱れます」


「そんなことは、やってみなければわからない」


「だから、やってはいけない場所を先に確認します」


 マルクは苛立ったように俺を見た。


「ルカ・オルメイン。君は自分が特別な目を持っていると主張するなら、それを示せ」


「わかりました」


 俺は水番小屋から、昨日ガンズが削った木片と、南畑水路から剥がれた白色結晶の小片を持ってきた。

 それから、浅い木皿に中央井戸の水を少し入れる。


「何をする」


「簡易試験です。実際の井戸には触りません」


 木皿の上に、小さな溝を三本刻んだ木片を置く。

 中央、北、南の代わりになる溝だ。

 そこへ井戸水を垂らし、白色結晶の小片を一つ置く。


「これは井戸の再現ではありません。ただ、結晶が水と魔力の流れにどう反応するかを見るだけです」


「子どもの実験だな」


「そうです。危険な井戸に直接触るより、子どもの実験のほうが安全です」


 ミラが胸を張った。


「助手も見ます」


「近づきすぎない」


「はい」


 俺は小型魔石灯を木皿の横に置いた。

 光が水面に当たり、白色結晶の縁に細い赤線が浮かぶ。


 マルクには見えていない。


「この結晶を、上から削ると濁ります」


 俺は針金で、結晶の真上を軽く擦った。

 水が白く濁る。


「これは誰でもわかる」


 マルクが言った。


「次に、縁の浮いた部分だけを外します」


 別の小片を置き、赤線の端に針金を当てる。

 ほんの少しひねる。


 ぱき。


 結晶の端だけが剥がれた。

 水は濁らない。

 溝を伝う流れが、少しだけ滑らかになる。


 マルクの目が細くなった。


「今の位置は、どう決めた」


「浮いている場所です」


「見た目ではわからない」


「俺には見えます」


「だから、それでは証明にならない」


「証明にはなりません。ただ、作業手順にはなります」


 マルクは黙った。


 俺は三つ目の小片を置いた。


「では、あなたが削る場所を決めてください。井戸に触る前に、ここで」


 マルクは少し迷い、銀針で結晶の側面を指した。


「ここだ。結晶が薄い」


「そこは、下の木片に強く付いています。削ると周囲ごと剥がれます」


「根拠は?」


「赤線ではなく黄線が見えます」


「また見える、か」


 マルクは銀針を当てた。


 ぱき。


 結晶だけではなく、木片の表面まで小さく剥がれた。

 水が濁り、溝の一つが詰まる。


 ミラが小さく言った。


「井戸だったら、危なかった?」


「危なかった」


 俺が答えると、マルクは銀針を置いた。


 彼の顔に、初めて怒りではない表情が浮かんだ。

 困惑だ。


「偶然だ」


「一回なら、そうです」


「何度やっても同じとは限らない」


「同じではありません。だから毎回見ます」


「……毎回、見えるのか」


「危険な箇所は見えます。ただし、全部を直せるわけではありません。道具も時間も必要です」


 マルクは中央井戸を見た。


 井戸の底では、水音が続いている。


 ぽちゃん。

 ぽちゃん。


 彼の器具は、その音を数値にできる。

 水質を測れる。

 魔力圧も測れる。

 刻印の摩耗も見える。


 だが、どこを最初に触るべきかは示さない。


 マルクは小さく息を吐いた。


「王都式の検査では、作業順序が出ない」


 その一言は、敗北を認める言葉に近かった。


 ただし、彼はすぐに背筋を伸ばした。


「だが、調査は続ける。君の能力を認めるかどうかは、院が判断する」


「わかっています」


「中央井戸の検査記録を写させてもらう」


「写しなら出します。原本は出せません」


「院長命令だ」


「旧リーベル村の現地記録です。原本は村に残します」


 マルクが何か言おうとしたところで、エルシアが一歩前に出た。


「私も立ち会います。現地記録原本の持ち出しは、辺境警備隊の報告書にも不適切と記します」


 ガイ老人も、戸口から低く言った。


「十年前、王都の調査員は井戸番の記録を持っていった。返ってこなかった。二度目はない」


 ミラが三滴印の箱を抱えている。


「持っていかないで」


 マルクは三人を見た。

 それから、俺を見る。


「……写しでいい」


「ありがとうございます」


「礼を言うな。私は納得していない」


「それでも、原本を持っていかない判断は助かります」


 マルクは苦々しい顔で、若い技官に写しを取らせた。


 写した内容は、中央井戸の水音記録、白色結晶の閉塞箇所、中央・北森・南畑・西方不明流路の仮図、検査票の運用記録。

 ただし、【修正眼】で見える赤線と青線そのものは、図にしても完全には伝わらない。


 若い技官が、俺の仮図を見て言った。


「この西方不明流路は、どこへ続いているのですか」


「まだわかりません」


「測量していないのですか」


「村の西は丘陵です。地図には水路も井戸もありません」


 マルクが仮図を覗き込んだ。


「西方か」


「何か心当たりが?」


「いや」


 返事が早かった。


 早すぎた。


 マルクはすぐに仮図を閉じた。


「今日の調査結果をまとめる。水質は良好。検査票は仮運用としては妥当。古代式制御井については、通常の王都式検査だけでは修正手順を再現できない」


「そのまま報告するのですか」


「私は技官だ。見たものは書く」


 その言葉には、少なくとも今のところ嘘は見えなかった。


 ただ、彼がすべてを書くかどうかは別だ。


 マルクは荷物をまとめ始めた。


「ルカ・オルメイン」


「はい」


「君は、王都では本当に計測係と呼ばれていたのか」


「はい」


「無能とも?」


「はい」


「……王都の基準が、すべて正しいとは限らないらしい」


 それだけ言って、マルクは馬車へ向かった。


 馬車が村の入口へ進む時、ミラが小さく手を振った。

 マルクは振り返らなかった。

 だが、若い技官の一人は、迷ったように小さく頭を下げた。


 エルシアが隣に立つ。


「どう見ますか」


「技官としては、正直な人だと思います」


「王都の人間としては?」


「まだわかりません」


「それが妥当ですね」


 ガイ老人は中央井戸を見ていた。


「王都の技官は、井戸の何を見たのだろうな」


「見えないものがある、ということは見たと思います」


「それは負けか」


「技官にとっては、たぶん」


 ミラが首を傾げた。


「負けたの?」


「井戸に勝てなかった、という意味なら」


「井戸、強いね」


「強いです」


 俺は中央井戸に手を置いた。


 赤線はまだ残っている。

 西方不明流路も、薄く脈打っている。


 ただ、今日の調査でわかったことがある。


 王都の器具は高価で、正確だ。

 技官の知識も浅くはない。

 それでも、この井戸の修正手順は出せなかった。


 つまり、王都が十年前にこの村を自然枯渇と判断したのは、見えなかったからかもしれない。


 あるいは、見えないことにしたからかもしれない。


 俺は記録帳を開いた。


『王立錬金術院調査技官マルク・レインズ来訪。中央井戸水質、リーベル検査票、制御井構造を確認。王都式検査器具では修正順序の再現不可。現地記録原本は保持。写しのみ提出』


 少し考えて、さらに一行を書く。


『西方不明流路について、マルク技官が反応。詳細不明。今後確認を要する』


 井戸の底で、水音がした。


 ぽちゃん。

 ぽちゃん。


 その音は、調査が終わっても変わらない。


 王都の技官が来ても、井戸は井戸だった。

 誰かの肩書きや紋章で水を増やすことも、記録を消して枯れたことにすることもできない。


 直すには、見なければならない。

 順番を間違えず、無理をせず、必要な記録を残さなければならない。


 俺は記録帳を閉じた。


 馬車の音は、もう南西の道へ消えている。


 リーベル村に残ったのは、今日も中央井戸の水音と、少し増えた記録だけだった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

第15話では、王都の技官がリーベル村を調査し、王都式の検査だけでは井戸の修正手順を再現できないことが明らかになりました。

次回、第16話「薬草畑を増やしたら、王都の薬が売れなくなりました」。リーベルの白露草が外部に知られ始め、今度は王都の薬商たちが動き出します。

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