第65話 最初の一歩
宿は広場に面した高級なところを選んだ。
ライルが扉に手をかける。
磨き込まれた取っ手が静かに沈み、彫刻入りの重い扉が音もなく開いた。
「……なんだこれ」
広場を一望できる大窓から、夕暮れの灯りが赤く差し込んでいた。
天井近くでは魔導灯が淡い光を揺らし、石壁に掛けられた深紅のタペストリーを照らしている。
奥には寝室が見え、そのさらに奥には鉄扉付きの小部屋まであった。
ライルがぎこちない動きで振り返る。
「おい……貴族の屋敷か?」
僕は寝室脇の鉄扉へ視線を向けた。分厚い金属枠。複数の錠。
「魔石を保管するには、これくらい必要です」
扉を開けると、小さな金庫室が現れた。
石造りの棚が並び、大型の箱をいくつも置けそうな広さがある。
「次の満月まで五日あります。今から納品しても無駄になります。その間、安全な保管場所が必要です」
ライルは何度もうなずいた。
「……なるほどな。ただ魔物を狩ればいいってわけじゃないか。まあ、そのへんはノアに任せるぜ」
そう言って、にっと笑う。
「ちょっと、こっちもすごいわよ」
珍しく、エレナの弾んだ声が響いた。
「あ、お風呂もあるんですね」
浴室には、磨き上げられた大きな鏡とバスタブが備え付けられていた。
蛇口の形をした魔道具に触れると、お湯がどっと吐き出されて湯船に溜まっていく。もう一度触れると、ぴたりと止まった。
「これが、風呂か。すげぇ」
ライルが感嘆混じりに呟く。
エレナは浴槽を覗き込みながら、そっと湯に指を浸した。
「先に使っていい?」
「お、珍しく乗り気じゃん」
ライルがすかさず茶化すように言う。
「うるさい」
即座に返されて、ライルはにやりと笑った。
「じゃ、そのあとオレな!」
風呂を終える頃には、全身から旅の埃も疲労も流れ落ちていた。
夕食の皿が運び込まれた瞬間、部屋の空気が変わる。
焼き上げられた肉の脂の香りと、香草の鋭い匂いが混ざり合い、空腹を容赦なく刺激してくる。
主菜は厚切りの肉料理だった。こんがりと焼き目のついた赤身肉に、表面の脂が照りを返している。隣には、骨付きの鶏肉を煮込んだもの。肉の旨味が染み出したソースが皿の底に広がっていた。
スープは澄んだ琥珀色で、浮いている具材は根菜と小さく刻まれた肉片。それに香草が少しだけ散らされていて、湯気と一緒にやわらかい香りを立てている。
パンは黄金色に焼かれ、外は固く、中はふわりと空気を含んでいるのが見てわかった。
カイは席に座ったまま何も言わずに料理を見ていた。
視線だけが、肉からスープへ、スープからパンへと淡々と移っていく。
「ごちそうじゃねぇか。早く食べようぜ」
言うが早いか、ライルはもう肉に手を伸ばしていた。
「で、明日からダンジョン潜るんだろ?」
肉にかぶりつきながら、ライルが口を開く。
「ええ、まずは十層までの魔石を集めながら、ダンジョンに慣れましょう」
僕はスープを一口飲む。
香草の風味が喉を抜けた。
「今は着いたばっかりだしね。次の満月までは様子見ってわけね」
エレナはパンをちぎりながら言う。
「それでいいと思うわ」
「ま、細けぇとこはノアに頼むわ。戦いの段取りは任せる」
ライルが骨付き肉を持ち上げる。
「戦いのほうは、期待してくれていいぜ」
カイも肉を頬張りながら無言でうなずいた。
気づけば皿は空になっていた。
満腹の余韻に引きずられるように、誰もすぐには動かなかった。
魔導灯の柔らかな光だけが、静かな部屋に揺れている。
「……寝るか」
ライルが腹をさすりながら立ち上がる。
「そうね」
エレナとカイも続いた。
僕は最後に水を飲み干し、灯りを落とした。
部屋から光が消える。
翌朝——
「よし、行くぞ!」
ライルが勢いよく歩き出す。
「ちょっと待ってください。先にギルドに行きましょう」
ライルが振り返るより先に、隣のエレナが小さく首をかしげる。
「依頼はまだ受けないのよね?」
「ええ。ですが潜る前にパーティー登録を済ませておきましょう」
僕はライルに並びながら続ける。
「ボスへの挑戦権が得られるのは、パーティー単位ですから」
ギルドは朝から騒がしかった。鎧の擦れる音。酒と汗の残り香。受付では冒険者たちが次々と書類を叩きつけている。
空いている窓口で声をかける。
「パーティー登録をお願いします」
職員が顔を上げ、無表情でこちらを見た。
「メンバーの登録証を出せ。銀貨一〇枚だ」
僕は四人分の登録証と銀貨を差し出す。
「パーティー名は?」
「誓いの天秤です」
職員は台帳に書き込むと、淡々と告げる。
「登録完了だ。メンバーが変わった場合は申請しろ。登録できるのは十人までだ」
それだけ言うと、職員は次の書類へ視線を落とした。
「十人?」
ライルが首をかしげる。
「ボスに挑める人数だ。それ以上は結界に弾かれる」
面倒くさそうに、顔を上げた職員が補足した。
パーティー登録を終え、ギルドを出た僕たちは正面の天逆塔に向かって歩き出す。
「今度こそ、ダンジョンだな」
早朝にもかかわらず、塔の周囲は冒険者で溢れていた。
満月まであと五日。追い込みの時期なのだろう。
歴戦の風格を漂わせるパーティーは広間の転移陣へ吸い込まれるように消えていく。
一方で、まだ若いパーティーたちは左手の大階段へ流れていった。
そんな喧騒のただ中、広間の中央で転移の光とは異なるまばゆい閃光が弾けた。
「なんだ今の?行ってみようぜ」
ライルが好奇心を隠しきれない様子で駆け出す。
近づくにつれ、異様な台座の姿が見えてきた。
黒とも銀ともつかない金属で組まれた祭壇は、幾本もの柱を絡み合わせたような奇妙な形をしている。
表面には細かな模様が脈打つように浮かび、淡い光が内側を流れていた。
台座の前では、ローブ姿の男が球体に手を置いたまま肩で息をしている。
すぐそばでは、重装の男が台座から取り出したばかりらしい剣を掲げ、刃の輝きを確かめるように眺めていた。
やがて満足したように剣を鞘に納めると、二人は並んでその場を後にした。
「何だあれ?」
ライルが首をかしげる。
「錬成の祭壇ですね。魔物素材と装備を合成できるそうです」
僕はギルドで読んだ資料を思い出しながら答えた。
「へぇ」
ライルは感心したように台座に歩み寄り、まじまじと覗き込んだ。
「三十層を越えないと起動できないそうですよ」
僕は付け加える。
「じゃあ今は見学だけか。つまんねぇな」
ライルは露骨に唇を尖らせた。
「ま、今の私たちには遠すぎる話ね。地道に潜るしかないわよ」
エレナの口からため息が漏れる。
「それもそうだな。まずは第一歩だ。行こうぜ」
ライルは気持ちを切り替えるように踵を返すと、大階段へ向かった。
僕達も錬成の祭壇を後にして、その背中を追って歩き出した。
大階段は巨大な塔の外周に沿って緩やかな弧を描いている。
壁に備えられた魔導灯が、その石肌を淡く照らしていた。
同じ景色が延々と続く。
「まだ続くのかよ、この階段……」
ライルがぼやく。
「ほら、あそこ。一層の入口じゃない?」
塔を半周したあたりで、エレナが指さす。
踊り場の横に、石造りのアーチが口を開けていた。
「よっしゃ、やっと戦えるぜ。ノア索敵頼む」
アーチを抜ける。
その先には石造りの通路がまっすぐ伸びていた。
等間隔の魔導灯が床を照らしているが、高い天井は闇に沈んで見えない。
通路は、四人が両腕を広げてもなお余裕があるほど広い。
左右には分岐路がいくつも続いている。
僕は魔力を広げた。
薄い膜のように広がった感覚が壁をなぞり、通路の形を浮かび上がらせる。遠くの冒険者。潜む魔物。流れる空気。
拾い上げた情報を『果てなき記録』へ書き込んでいく。
「それ、地図か?」
ライルが感心したように覗き込む。
「よく、探索中に書き込めるわね。それ、魔力かなり使うでしょ」
エレナは呆れたように肩をすくめた。
「こっちに魔物がいます。まずは戦ってみましょう」
僕は一番近くにいた魔物のところまで先導する。
「その角の左に曲がったところにいます」
カイが盾を構えて前に出る。その斜め後ろにバスタードソードを構えたライルが続いた。
角を曲がった先にいたのは、ゴブリンだった。
「なんだ、ゴブリン一匹だけかよ」
ライルは気楽な調子で言い捨て、そのまま一閃で切り伏せた。
「この階層は、単独のゴブリンしかいなそうですね。魔石集めの効率も悪いですし、もっと深く潜りましょう」
僕が走査した範囲では、ゴブリンは単独でうろついていた。それに一層は魔物の数に対して、冒険者が多すぎる。
「また、あの階段下るのかよ……。早くボス倒して転移したいぜ」
ライルがげんなりした声を上げる。
「そのための魔石集めでしょ。行くわよ」
エレナはそう言って歩き出した。
「エンハンスをかけるので、走っていきましょう」
僕はそう告げ、魔力を巡らせた。




