決勝の鐘
本作は『灯の断章 〜ココと記録の塔〜』の外伝ですが、単体でも読める作品にしています。
ただし、もし少しでも「灯とは?」「記録官とは?」
と気になる部分がありましたら、本編でより深く描いています。
興味を持っていただければ、ぜひこちらからどうぞ。
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塔の衛生室。
その中央で、フリージアは洗いたての包帯を細く畳み、くるくると巻いていた。
白い指先は迷いなく動き、慣れた手つきには静かな品がある。
その時――
「フリージア様! フリージア様!」
廊下の向こうから、ばたばたと慌ただしい足音が近づいてきた。
次いで、勢いよく扉が開かれる。
バンッ!
「フリージア様!!」
若い記録官が肩で息をしながら立っていた。
額には汗がにじみ、よほど急いできたのか、制服の襟元まで乱れている。
「あら?」
フリージアは驚いたように目を瞬かせ、それから小さく微笑んだ。
手にしていた包帯を机へ置くと、彼女はゆるやかに一歩近づき、少し腰を落として青年の目線へ合わせる。
それから細い人差し指を一本だけ立て、そっと彼の口元へ添えた。
「しっ……」
囁きのような声だった。
「眠っている子もいるのだから、そんな大きな声を出しては駄目」
背後の寝台では、フィオナが眠りに落ちている。
額には新しい包帯。細い指先は毛布の上で力なく開かれ、その奥の寝台には大きな身体を横たえたミックの姿もあった。
二人の呼吸だけが、静かな部屋に規則正しく溶けている。
「どうしたの?」
青年の喉が、ごくりと鳴る。
目の前で微笑むフリージアに、顔がみるみる赤く染まっていった。
「も、申し訳ありません……!」
彼は慌てて背筋を伸ばし、今度は声を潜めすぎて妙に小さくなる。
「ですが……フリージア様……」
フリージアは首をかしげ、淡い金の髪を肩先で揺らした。
「様だなんて。私は記録官でも、あなたの上司でもないのよ」
唇に笑みを浮かべたまま、やわらかく言う。
「ただの衛生室の管理者です」
青年はますます狼狽え、視線を泳がせた。
「い、いえ……! その……あなたは、上級記録官の奥様で……!」
言い終えるころには、耳まで真っ赤だった。
フリージアは一瞬だけ目を丸くし、それから口元へ手を添えて、くすりと笑った。
鈴のように軽い笑い声が、静かな室内へ小さく転がる。
「まあ。そんな肩書きで呼ばれるのは、少し照れてしまうわ」
青年は言葉を失い、ただ姿勢を正したまま固まっている。
フリージアは笑みを残したまま、包帯の束を棚へ戻しながら尋ねた。
「それで? そんなに慌てて、何かあったの?」
青年ははっと我に返り、拳を握りしめた。
「そ、そうでした……! ついに次は決勝戦です!」
興奮を抑えきれず、声がまた少し大きくなる。
だが途中で気づき、慌てて口を押さえた。
「……ガイウス様と、フレアという志願者が戦います!」
その名に、フリージアのまつ毛がわずかに揺れた。
脳裏に浮かんだのは、寝癖の赤髪を慌てて押さえ、パンを抱えて飛び出していった少女の姿だった。
思わず肩が小さく揺れ、笑みがこぼれる。
「ふふ。続きをどうぞ」
青年は咳払いをひとつし、胸を張った。
「ガイウス様が、いよいよ記録官となられる晴れ舞台でもあります!」
その言葉に、フリージアの表情がほんのわずかに和らぐ。窓辺の灯が、彼女の横顔を静かに照らした。
「……そう」
小さく、優しく呟く。
青年は目を瞬かせた。
「そ、そう……って。観覧に行かれてはどうですか!? ご子息様ですよ!」
フリージアはふっと微笑み、視線を寝台へ向けた。
「あの子は強いわ。きっと立派な記録官になります」
そう言って、フィオナの寝台へ歩み寄る。
毛布の上に投げ出された小さな手へ、自分の手をそっと重ねた。
「それより、この子達を放ってはおけません」
青年は慌てて一歩前へ出る。
「そ、それならば、私が見ておりますから!」
フリージアは振り返り、困ったように眉を下げながらも、やはり笑っていた。
「そう言われても……」
柔らかく返しかけた、その時だった。
「あら?」
指先に、かすかな力が触れた。
フィオナの細い手が、うっすらと震えながら、フリージアの袖口をきゅっと掴んでいた。
フリージアの瞳が、やさしく細められる。
――
衛生室の静寂とは裏腹に、広場の熱はなお冷めていなかった。
決勝戦へ向かう歓声。
勝者を追う足音。
敗者を語るざわめき。
その喧騒から少し外れた場所で、ジェミルはナストロンドケープの裂け目を押さえながら、肩を揺らしていた。
「……ふふっ……」
喉の奥で笑いを転がす。
「いやぁ……見事でしたよ、シン君。
まさか準決勝で、あそこまで優雅に、華麗に、そしてわざとらしく負けるとは」
少し離れた場所で、シンは背を向けたまま立っている。
黒衣の裾が風に揺れ、剣の柄へ添えた手は動かない。
ジェミルはその背中へ、楽しげに問いかけた。
「なぜ彼女に勝たせたのですか?」
返事はすぐには来なかった。
遠くで鐘が鳴り、決勝戦の準備が整ったことを告げる音が、広場へ響く。
やがて、シンは視線を前へ向けたまま、低く言った。
「……これ以上、勝ち進む理由は俺にはない。
目的は、すでに果たされている」
ジェミルの口元から笑みが少しだけ消える。
「ほう?」
シンは続けた。
「上位四名に入った時点で、合格はほぼ確定だ。
この先は誰が主席を取るかの争い」
わずかに顎を上げ、人垣の中で揺れる赤い髪を見る。
「ならば、村出身のあいつの方が利がある」
ジェミルの眉が、面白そうに持ち上がった。
「フレアさんに?」
「ああ」
シンの声は静かだった。
風が吹き、黒髪がかすかに揺れる。
「外で飢えた者。狩って生きた者。理不尽に耐えてきた者――
そういう目を持つ人間こそ、塔に注視されるべきだ」
ジェミルは目を細めた。
「それは、彼女が勝てれば――の話でしょう?」
「そうだな」
シンは広場の方角へ視線を向ける。
人垣の切れ間、その先。
槍を地へ立て、金髪の少年がひとり、静かに背中を向けて立っている。
「正直、あの金髪は、相当やる槍使いだ……」
わずかに眉が寄る。
「それに、何やら妙な力を宿している」
ジェミルは口元を吊り上げ、にやにやと笑った。
「フレアさんが無事で済む保証はありません。
負ければ先程の肉だるま君のように腕が捻じ曲がってしまうかも」
「……その時は、その程度だったということだ」
シンは淡々と言った。
「俺はあいつに機会を与えた。
それを物にできるかどうかは、あいつ次第だ。
せいぜい足掻けばいい」
一拍。
「俺の知ったことじゃない」
ジェミルが肩を揺らし、くつくつと笑った。
「ふふ……本当にそれだけ?」
シンはわずかに顔を伏せる。
影が目元へ落ちた。
「それだけだ」
ジェミルはそれ以上、追及しなかった。
ただ、その背中へ向ける笑みだけが、少し深くなった。
「案外、かわいいところもあるんですね」
一拍置いて、肩をすくめる。
「大人ぶって都合のいい理屈を言い張っても――
隠しきれていませんよ」
――
「皆様、お待たせいたしました」
試合場の中央に立つヘルモーズが、満面の笑みを浮かべながら、両手を広げた。よく通る声が、熱気の残る広場へ静かに伸びていく。
その声に呼ばれるように、これまで姿を見せなかった塔内の記録官たちも、志願者たちの背を囲むようにぞろぞろと姿を現し始めた。
「幾多の激戦を越え、ついに最後の二名がここへ辿り着きました」
ざわめきが少しずつ鎮まり、人々の視線が集まる。
「片や、名門バルナーク家の血を継ぎ、圧倒的な槍技で勝ち上がってきた本命――」
一拍。
「ガイウス・バルナーク!」
ざわめきがうねりとなって広がり、人垣が左右へ割れていく。
その中央を一人の少年が歩み出た。
金の髪。鍛え抜かれた体躯。槍を携えたその姿は、まるで戦場から切り出された彫像のようだった。
「ガイウス様……!」
「上級記録官ユリウス・バルナーク様のご子息だ……!」
塔の窓辺から歓声が降る。
それは熱狂というより、敬意と緊張の混じった声だった。
ガイウスは、そのままヘルモーズの前で足を止めると、ゆっくりと槍を地へ立てた。
ドン――
鈍い音が広場へ響く。
背筋は一分の隙もなく伸び、顎はわずかに上がっている。その立ち姿には、生まれながらにして前へ立つ者の気配があった。
「ガイウス様!たかが田舎村の女に、格の差を教えてやってください!」
フォルドが身を乗り出して叫ぶ。
ネレクは眉ひとつ動かさず、ただ肘で無言にその脇腹を押し戻した。
だが、場全体の熱は思っていたほど大きくはならない。
ヘルモーズはその空気ごと受け止めるように微笑み、続けた。
「そしてもう一人――」
声色がわずかに明るくなる。
「誰も予想しなかった快進撃。知恵と胆力で強敵を退け、この決勝の地へ駆け上がった挑戦者!」
人々の肩が揺れ、期待が広がる。
「赤き狩人の娘――フレア!」
試合場の反対側――
赤髪の少女が姿を見せた瞬間、空気が一変した。
「フレアー!!」
「赤髪、怪我しねぇように頑張れよ!!」
「さっきの試合、最高だったぞ!!」
先ほどまで張りつめていた空気が、ふっと緩む。
周囲から、笑みがこぼれ、肩の力を抜いた声援が、あちこちから飛んだ。
フレアはきょとんと目を丸くし、それから照れくさそうに頭をかく。
「お、おう! 任せときなさい!」
弓を高く掲げる。
どっと笑いが起こった。
その光景を、ガイウスは無言で見ていた。
横目だけが、赤髪の少女へ流れ、槍を握る手には、わずかに力がこもる。
ガイウスの眉間には、薄く皺が刻まれていた。
フレアはようやくガイウスの視線に気づき、にやりと笑った。
「なによ。怖い顔しちゃって」
腰へ手を当て、身を乗り出す。
「あ、もしかして緊張してる?」
その瞬間、ガイウスのこめかみに青筋が浮いた。
だが次の瞬間には消え、表情は静まり返る。
「……ふっ。くだらない」
吐き捨てるでもなく、笑うでもない。
自らへ言い聞かせるような低い声だった。
「所詮これは試験。
俺にとっては、ただの通過点でしかない……」
そう呟くと、乱れかけた呼吸を押し込めるように、肩が一度だけ上下した。
やがて穂先が、静かに持ち上がる。
「……始まれば分かる。
歓声が、誰の名を呼ぶべきかをな」
その声音に、空気がぴんと張った。
フレアは一瞬だけ目を細め、すぐに笑みを深くした。
「へぇ。言うじゃない」
弓を肩から外し、くるりと回した。
「じゃあ、その余裕……いつまで持つか見せてもらおうかな」
ヘルモーズが手を上げる。
「決勝戦――」
風が止んだ。
誰もが息を呑む。
壇上では、ユリウスが静かに帳面を閉じた。
細い指先が表紙を撫で、その視線は一瞬たりとも試合場から逸れない。
隣でグレイブは腕を組んだまま肩を鳴らし、口元を歪める。
「さて……勝つのはお前の息子か、狩人の小娘か」
愉快そうに、横目でユリウスを見る。
「なぁ、ユリウス。
こいつは面白い賭けになったじゃないか」
ユリウスはしばし黙したまま、やがてごく淡々と口を開く。
「……《ルナブラン》を一本」
グレイブの片眉がわずかに上がった。
「む……! それは私の屋敷の秘蔵酒だぞ……!」
喉の奥で笑い、顎へ手を当てる。
一瞬だけ考え込み、それから鼻を鳴らした。
「なら私は、《ノワールグリフ》を一本だ。
お前の屋敷の地下蔵に、まだ眠っていたはずだな」
腕を組み直し、にやりと笑う。
「ふん……。
親不孝者とはよく聞くが、自分の息子に賭けん、この子不幸者め。泣いても知らんぞ、ユリウス」
ヴァルターは、二人のやり取りに目もくれない。
白髪交じりの髪が風にわずか揺れるだけで、その双眸はただ真っ直ぐ、試合場の二人を見下ろしている。
硬く結ばれた口元に、感情の影はない。
「ガイウス・バルナーク対フレア。
――始め!」
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