3.如月音の事情
如月音が、卜部サチと知り合ったのは、単なる偶然だった。如月が飲みなれない酒の所為で潰れて終電を逃して困っているところを、毎度の飲み過ぎの所為で終電を逃して困っている卜部が見つけて捕まえ、偶々帰る方向が同じだったのをこれ幸いとタクシー代を折半しようと無理矢理誘って相乗りしたのが彼女達が知り合った切っ掛けだ。
社交的で明るい性格の卜部サチがどうして引っ込み思案の如月を気に入ったのかはまるで分からない。そしてそれが如月音にとって幸運であったのかどうかも。何故かそれからも卜部は彼女に頻繁にコンタクトをするようになり、心を開いたと言うよりは、その押しの強さに負けた結果、彼女は卜部に自分の身の上を語ってしまったのだ。
「それは可哀想だわ」
如月の身の上を聞いた彼女は、少しも同情しているようには思えないあっけらかんとした表情でそう言った。
「そういう事なら、あたしも協力してあげる。任せて!」
そして胸を張ってそう続けたのだった。
聞けば彼女は営業を仕事にしているのだという。技術者を紹介して、開発現場などに斡旋するのが主な仕事内容だ。
社交的な性格の彼女には向いていると言えるかもしれない。
「こう見えても、何百人もの技術者を企業に放り込んで来たんだから! 実績があるのよ。実績が!」
その時、断っていれば、或いはこんな目には遭っていなかったのかもしれない。そう如月は思っていた。もっとも、彼女には他に道などなかったのだが。
如月音の学歴はそれなりに良かった。それは彼女の父親が「今の時代は女でも良い大学を出なければいかん!」と主張し、その言葉に従ったからだった。ところが彼女が就職活動をし始めると今度は「女が良い会社に入ってどうする?」と正反対の事を言い始め、訝しく思いながらもその通りにした結果、彼女は地元の小さな会社の事務職に就いたのだった。
勤め始めてしばらくが過ぎると、何故父親が自分に地元の小さな会社への就職を希望したのかが分かった。
“世話をして欲しかったのか”
老いた母親は既にかなり衰えており、いつ体調を大きく崩してもおかしくないような状態だったのだ。
家事の一切を母親に任せきりにしていた父親には生活力がない。もし母親に倒られでもしたら生活がままらなくなってしまう。だからその為に娘を呼び寄せ、生活の世話をさせたかったのだろう。
これは彼女の父親に限った話ではないのだが、高度経済成長期という専業主婦が一般になった時代を経て、こうした生活力のない男性が増えてしまった。その所為か、妻に先立たれると直ぐに後を追うようにして死んでしまう高齢男性はかなり多いのだという。
父親は自分の都合に合わせて娘を使っている。
彼女はそのように感じたが、それでも何故か父親を恨む気持ちは生まれなかった。それよりも自身をふがいなく思う気持ちの方が強かった。
自分は自分の人生を能動的に生きて来なかった。だからこそ、こうして人生を父親にいいように使われてしまうのだ、と。
父親の嗅覚が鋭かったと言うべきか、間もなく母親は急逝して、彼女は父親の生活全般の世話をするようになり、地元の事務職は拘束時間が短かったが、彼女は仕事以外の時間を自分の為には使えなくなった。そして彼女はそうして十年ほどの間、ただただ父親の生活の世話をする為だけにあるような生活をし続けたのだった。
つまらないとも思っていたし、不満だって抱えていたのだが、他にやりたい事がある訳でもなかったから、彼女はそこから逃げ出そうとも考えなかった。
自分を無機物だとでも思えば、そんな暮らしでも大して辛くはない。大切なのは、多くを望まない事だ。そのような後ろ向きの人生を彼女は歩んでいた。
父親はその間で定年を迎えて仕事を辞め、それからは一日中、家でテレビを観続けるようになった。何もする事がないと人間は急速に衰えるものなのか、それで一気に父親の老化は進行したように思え、実際、その数年後には死んでしまった。悲しみはあまり感じなかった。悲しみを感じるには、暮らしがあまりに無味乾燥過ぎたのかもしれない。
“これでやっと自由なのか”
そしてその時、そう彼女は思った。ただ、解放感は感じなかった。刑務所から出られたと思ったら、目の前には砂漠が広がっていた。例えるのなら、そんな気分だったから。これからは砂漠を旅しなくてはならない。
ところが、その砂漠の旅には彼女自身が予想もしなかったある“足枷”がついていたのだった。それは父親の死から数か月後の事だった。突然、家に督促状が届いたのだ。それは父親宛てで、中を見てみると買った絵の代金が振り込まれていないという事だった。しかもその額は数十万円を超えていた。
絵?
訳が分からなかったので、電話で問い合わせてみると、父親は一枚百万円もするような絵を全部で十枚ほども買っており、その支払いの為に毎月振り込みをしていたらしかった。自動振り込みにはしておらず、だから彼女は気が付かなかったのだ。
確かに父親は絵を買っていた。しかも、何枚も。それは定年後に始めた趣味で、働いていた頃には芸術に興味などなかったのにと彼女は不思議に感じていたのだが、まさかそんな高額な絵を買っていたとは夢にも思っていなかった。月々の分割払いなのに、全部で毎月十万円近くも払っている。はっきり言って高過ぎる買い物だ。
父親にどんな意図があるのかは分からなかったが、彼女にはそんな絵の代金を支払う気はまるでなかった。そして、絵には資産価値があるはずだから、全て売れば支払いを済ませられるだろうと考えた。
ところが、全ての絵を売っても、いや、それどころか父親の残した貯金を全て使っても、まだ六百万円もの借金が残ってしまったのだった。つまり、絵は父親が買ってから大きく値崩れしてしまっており、父親が買った値段では売れなかったのだ。
“父は騙されていたのかもしれない”
彼女はそう思ったが、証拠は何もなかった。
彼女の勤め先の給与は安い。借金を返し続けて生活するのは非常に苦しかった。それで彼女は転職する事に決めたのだ。学歴は良いからそれほど苦労しないだろうと、その時は彼女はまだ楽観的に考えていた。
だが現実はそう甘くはなかった。
何社受けても上手くいかず、学生時代に友達から誘われて数か月間アルバイトでやったプログラミングの経験を頼りにダメ元で受けてみた大手システム会社に何とか入社する事ができたのだが、それも幸運であるとは言い難かった。
彼女は自分の経験もスキルのレベルも伝えていたのだが、どうも会社の方で何か手違いがあったらしく、高スキルを期待されてしまっていたからだ。技術者不足の所為で、入社の為の審査が杜撰になっていたという事もあったのかもしれない。
思うように仕事ができなかった彼女は、結果的に辛い境遇に立たされ、半ば追い出されるような形でその職場を辞める事になった。
彼女が卜部サチに出逢ったのは、その彼女の送別会での事だった。あまりの悔しさでどうせ奢りだと珍しくヤケ酒を飲んで潰れ、終電を逃した彼女は、そこで卜部に無理矢理タクシーの相乗りを誘われたのだ。
正直に言えば、久しぶりに人から優しくされたと彼女は感じていた。
「任せて!」
そして、如月音の身の上を知った卜部サチは、彼女に協力を申し出たのだった。
卜部がまず初めにした事は如月のコーディネートだった。彼女の外見をいかにも仕事ができそうなスタイルに仕立て上げたのだ。
彼女のスレンダーな体型を活かす為、身体の線が出るか出ないかといった絶妙な細さのスーツを用意し、それに合わせて髪型も堅めに整える。如月音は元々真面目そうな顔をしているから、それはとても良く似合っていた。後は眼鏡をセンスの良い物に変えてできあがり。
その姿を見た時、彼女は「まるで仮装でもしているみたい」とそう思った。自分でありながら、自分ではないものを見るような。
「どう? 凄いでしょう?」
彼女をその姿にさせた卜部サチは、その時自信満々にそう言った。
確かに卜部の腕前は凄かった。ちょっと変えるだけで人間はここまで印象が変わるものなのかと感心した。
「これで随分と就職し易くなるわよ」
始め自信のなかった如月は、それで少し期待を抱いた。
「なら、後はどんな業種に就職するかよね」
それでそう言ってみた。
ところがそれを聞いた卜部は不思議そうな表情で「何を言っているの?」と疑問符を伴った声を上げるのだった。
「前の会社がシステム会社だってんなら、次もシステム会社に決まっているでしょうよ。その歳で全く違う業種なんて無謀よ」
彼女はその言葉に驚く。
「私の話を聞いていなかったの? 私、ほとんどスキルなんてないのよ?」
もしまたシステム会社に入社なんてしたら同じような酷い目に遭うのは目に見えていた。彼女はそれだけは絶対に嫌だったのだ。
ところがそれに卜部は「大丈夫、大丈夫」と澄ました顔で応える。
「あなたが前に働いていたシステム会社は、情報技術が商品のガチのシステム会社でしょう? でも、今度就職を目指すのは、主力産業が他にあるガチじゃないシステム会社なの。だから、多分、誤魔化せるわ」
彼女には卜部の言う意味がよく分からなかった。するとその表情を読み取ったのか、卜部は更に口を開いた。
「分からない?
例えば車とか医薬品とか発電所とか、そういう会社のシステムを担当する為に作られたシステム会社って事よ。
そういう所の場合、技術力がなくても意外にやっていけたりするのよ。外注社員に頼れたりね。なんとか入り込んじゃえば、どうとでもなるもんなのよ」
彼女はその言葉に目を丸くした。
本当だろうか?
俄かには信じられない。
実は卜部サチのように“現場に放り込めばなんとかなる”と考えている営業職の人間は意外に多い。
確かに勤務態度が真面目なら、スキルが低くても表面上は大きな問題にはならず、スルーしてもらえるケースも多い。だが、それは周囲がカバーしてくれているだけに過ぎない。つまり、職場では確り問題になっているのだ。人数の多い職場なら、負担が分散されるのでそれでも何とかなるかもしれないが、少人数の場合はそうはいかない。
卜部サチはそれを知らなかった。
もっとも知っていたとしても、強行するかもしれないが。
そして如月音は、それから半信半疑ながら、再びシステム会社への就職を目指したのだった。それは或いは彼女の為を思って力になってくれる卜部に気を遣ったからでもあるのかもしれなかった。




