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18.それなら結婚してください

 『技術・研究関連情報共有掲示板』の打ち上げの一次会は思いの外早く終わった。コース料理が終わってしまったなら、後は別料金で頼むしかなく、そこはいつもよりも高い店だったので、飲み足りないのなら二次会で別のもっと安い店で飲もうという流れになったからだ。

 浦田は二次会には普段からあまり参加しないが、その日は特に気乗りがしていなかった。早く眠って色々な事を忘れてしまいたい気分だったのだ。

 だから一次会が終わると早々に立ち去った。そんな彼の様子を察していたからか、いつもなら一応誘いはする社員達も彼を引き止めたりはしなかった。

 そのまま真っすぐ家に帰った彼は、自宅の玄関の前で、家の中に誰かの気配があるのに気が付いた。

 “介護ヘルパーの人かな?”

 既に帰っている時間帯だと彼は思っていたのだが、予想外に時間がかかってしまったのかもしれない。携帯電話には何の連絡もなかったから、何も問題は起こっていないはずだと思いながら、彼は玄関のドアを開けた。そこで“変だな”と思う。玄関に置かれてあった靴はどう見ても介護ヘルパーが履くようなものではなかったからだ。

 そして、“まさか”と思った。

 彼は急いで靴を脱ぎ、母親の部屋のドアを開けようとドアノブに手をかけようとした。ところがそのタイミングでドアノブが勝手にくるりと回り、彼が開けるより先に開いてしまった。そしてそこには見覚えのある女性の姿が。

 「如月さん……」

 そう呟いた彼の視界には、狼狽した様子の如月音の姿が映っていた。怯えているようにも見えるが、それでいて少しばかり照れているような不思議な顔を彼女はしていた。

 「すいません。私、ちょっと、浦田さんのお母さんに用があって。もう帰るところですから!」

 そう言いながら、彼女は浦田を躱して外へ出ようとする。しかし、その瞬間、浦田はほぼ反射的に彼女の腕を掴んでいた。

 何故、掴んでしまったのか、自分でもよく分かっていなかったが、次いで自然と彼はこう言っていた。

 「ちょっと待ってくれ。送っていく。もう夜も遅いし、それに君と話したい事もあるんだ」

 それが掴んでしまった後付けの言い訳として出た理由だったのか、それとも本当にそんな理由があったから腕を掴んでしまったのかは彼自身にも分からなかった。

 「母さん、帰ったばかりだけど、ちょっと出かけて来るよ」

 そう言う彼に浦田の母親はなんとものんびりとした口調で「はいよ」と返した。その場の雰囲気にその口調はまったく合っていなかったが、だからこそとても相応しいようにも思えた。

 浦田はいつになく強引で、如月に有無を言わせなかった。彼女の腕を掴んだまま、半ば引っ張るように外へと連れて行く。彼女はそれに逆らわなかった。もっとも、元より彼女は家を出るつもりだったのだが。

 

 夜の街はすっかりと冷えていて、人の姿はほとんどなかった。まるで二人の為だけに用意された別世界のようだった。

 夜の空はよく晴れていて、星がとても綺麗だった。街の灯りや月の光に負けずに届く、星の光。

 二人とも、その中でなら素直な気持ちで話せそうな気がしていた。

 「どうして、母さんを訪ねたんだ?」

 歩き出してしばらくが経つと、浦田は言い難そうにしながらそう彼女に訊いた。それはいかにも本当はもっと他に言いたい事がありそうな切り出し方だった。

 「はい。ちょっと会いたくなりまして。私、友達が少ないんで、こういう時に甘えられる相手があまりいないんです」

 浦田は全ての事情を知っている。隠しても意味がないし隠す必要もない。それで正直に如月はそう答えた。

 それから幾ばくかの間が生まれた。やがて黙っていても仕方ないと決心を固めたのか、浦田が口を開いた。

 「今日はすまなかった。君の立場も忘れて、大人げなかったと思っている」

 それに如月は少しだけ驚く。

 「どうして、浦田さんが謝るのです? あなたは何も悪くありません。悪かったのは全て私なんですから」

 そう彼女から言われて、彼は困ってしまった。謝罪する必要がないと言われるとは思っていなかったのだ。

 「いや、俺にとっては城之内はそれほど怖くないんだが、君にとっては違うだろうと、あれから村上に言われて気が付いたんだ。本当にすまなかったと思っている」

 それで仕方なく村上から言われたことを話した。

 それに彼女は「なんだ、そんな事ですか」と返した。

 「それなら気にしないで良いですよ。私が城之内さんの指示に従ってしまったのは単なる“甘え”ですから。多分、私、自分を不幸だと思っていて、それで知らず知らずの内に、他の人がそんな自分に優しくしてくれるのは当り前だなんていう馬鹿げた気持ちになってしまっていたんです。

 ……きっと、何にもなかったら、私、城之内さんに逆らっていたと思います」

 その言葉に浦田は反応する。

 “何にもなかったら?”

 「君には何かあるのか?」

 それでほぼ反射的にそう質問をしていた。

 “あ、この流れは卑怯だな”

 その質問を受けて、如月音はそう思った。

 “泣き落としに弱い”浦田は、果たして彼女の家の事を知ったなら、どんな反応をするのだろう?

 「私、借金があるんです。父が残した借金で、500万くらい。だから、スキル不足なのを承知で浦田さんの会社に就職したんですよ。何とかして借金を返さないといけなかったから」

 “言っちゃった……”と、そう言った後で彼女は思った。そして、だからなのかそれからこう続ける。

 「浦田さん。どうか同情なんてしないでください。だからって皆さんに迷惑をかけて良い理由にはならないし、開発チームの皆さんの…… 叶さんの手柄を横取りするような真似が許されるはずもないんですから」

 そう言った後で彼女は顔を下に向けた。冷たいセメントの灰色の地面がそこにはあって、きっと自分にはこんな地面が似合っているのだろうと、そんな事を彼女は思った。

 「実は借金がある事を、私は叶さんにも伝えてあったんです。開発チームが何も文句を言って来ないという話を城之内さんから聞いた時、私はだからじゃないかと思いました。叶さんは私に同情をしてくれているんだって。それで黙っていてくれるんだって。だから、そのままその厚意に甘えてしまっても良いと思ってしまったんです」

 そう言い終えた彼女はこれで自分は浦田から軽蔑されると思っていた。否、軽蔑されたいと思っていた。

 これで本当に泣き落せてしまったなら、自分はいよいよ卑怯者だから。こんな自分には罰こそが相応しいのだから。

 暗い夜道の暗がりにいる所為で、浦田の表情は隠れてしまっていた。その先にある顔がどんなものなのか。如月は半分は嫌悪を期待し、もう半分では同情を期待していた。そしてそのどちらをも期待したまま、彼女は次にこう言っていた。

 「でも、もう終わりです。上司に逆らって、部長の期待を裏切って、いえ、騙していた事をばらしてしまって、それもあんな大舞台であんな不器用な方法で。もう私の居場所なんてないと思いますから。私、会社を辞めます」

 そこまでを聞いて、ようやく浦田は口を開いた。

 「君に借金がある事は知らなかった」

 「それはそうでしょう。話していませんでしたから」

 「分かっている。しかし、そんな状態で辞めてどうするつもりなんだ? 借金を返さなくてはいけないのだろう?」

 それに軽く如月は首を横に振った。

 「自暴自棄になっている訳ではありませんよ。浦田さんのお母さんの介護をやって気が付いたんです。私、意外に介護の仕事が向いているのじゃないかって」

 「現実的じゃない」とそれに浦田は言った。

 「詳しくは知らないが、君の歳で介護職を目指してもパートくらいしかないのじゃないか?

 資格だって取らないといけない。だとするのなら、それにだって金がかかる。

 それに介護職というのは、給与が抑えられる傾向にあるんだよ。そうじゃないと、介護にかかる費用が膨らんで、サービスを受けられないお年寄りがたくさん出て来てしまうからな。それが万年人手不足の状態を招いてすらいるんだ。どうやって、借金を返すつもりでいるんだ?」

 浦田は淡々とそんな理屈を語った。努めてそうしているように思えた。多分、それは……

 「なんで、そんな意地悪を言うんです?」

 気が付くと、如月はそう言っていた。そして言ってしまった後で“ああ、また甘えてしまった”とそう思った。

 「心配しているからだよ!」

 彼女の質問を受けると、それまでとは打って変わって、そんな感情的な声を浦田は上げてしまった。

 ……やはり、淡々と理屈を語っていたのは、無理矢理に感情を抑えていたからだったようだ。

 「心配しているからだ」と、彼はもう一度同じ事を言った。

 「君は悪い人間じゃない。そんな君が理不尽な理由で苦しむなんて間違っている。そんなのは俺は嫌だ」

 それを聞くと「ふふふ」と如月は笑った。

 「本当。お母さんの言う通りですね」

 そして、そう続ける。

 浦田には何の事は分からず、困惑しているようだった。如月はそんな顔に向けて、種明かしをすように説明をした。

 「浦田さんは泣き落としに弱いそうですよ。だから、簡単だってお母さんは言っていました。私は別に泣き落すつもりはなかったんですけどね」

 「なんだそりゃ?」

 「――でも」と、間を空けずに彼女は続けた。

 「浦田さんのお母さんの方がもっと泣き落としに弱いのかもしれませんね。浦田さんはお母さんに似たのかもしれません」

 「何を言っているんだ?」

 「私の事情を話したら、ですね。お母さんは私の借金を代わりに払ってくれるって言うんです。ちょっとびっくりしました」

 浦田はそれだけを聞いただけで、自分の母親が彼女にどんな提案をしたか察したようだった。

 「だから、俺は“泣き落としに弱いから簡単”だと?」

 「はい」

 彼女は目を瞑る。

 「こんな三十路の地味で不幸ぶった女なんか、浦田さんが受け入れてくれるはずもないのに」

 「どうしてそう思う?」

 言葉を少し強くして、浦田は言った。

 「俺なんか介護が必要な母親を抱えたむさい中年男だぞ? 我儘を言える立場じゃない。君こそ、俺なんか嫌だろう?」

 「嫌じゃありませんよ」

 「どうして?」

 「あなたは自分で思っているよりも、もっとずっと素敵な方ですよ。自信を持つべきだと思います」

 それを聞くとため息を漏らすように浦田は「それは君も同じだよ」と言った。

 「嫌がらずに介護をやってくれて、性格も良い。少なくとも俺にとってはとても付き合い易い。気を遣わなくて良いからな。そんな女性は滅多にいるものじゃない」

 「借金を抱えていても?」

 「それは君の所為じゃないだろう?」

 「なら、浦田さんも同じです。介護が必要な親がいるのは、浦田さんの所為じゃありません」

 「それはそういう問題じゃないんだよ」

 「だからそれは私も同じなんです。そういう問題じゃないんです」

 「が、少なくとも俺は君の借金なんか何とも思っていないんだ」

 「それも同じです。私だって浦田さんのお母さんの事を負担だなんて思っていません。むしろ、大好きなくらいですから」

 その言い合いが終わると、二人は互いの顔を見合わせた。ちょうど街灯の下で、表情がよく分かった。

 二人とも笑っていた。

 冷たい夜の空気が二人をさらい、その興奮を少しだけ覚ましてくれた。

 

 「それなら結婚してください」

 

 そして、気が付くと如月はそう言っていたのだった。

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