17.泣き落としに弱いから
『技術・研究関連情報共有掲示板』の打ち上げ。
賞金が会社から入った為、少なからず普段行われる打ち上げよりも豪華な店で開かれていた。その所為か、まるでプレゼントを貰った時のような心地良い浮かれた雰囲気が店内には漂っている。次々と運ばれてくる名前の知らない食べた事もない料理に舌鼓を打ち、美味しいお酒を味わいながらゆっくりと飲み込む。
もっともその味を本当に理解している者はあまりいなかったかもしれないが。
しかし、そんな和やかな会場の中で、一部の席にいるメンバーだけは、ぎこちない空気で食を進めていた。不自然に喋ったり、妙な沈黙があったり。普段はあまり飲まない浦田の酒を飲むスピードが速い気がする。気まずいからか、城之内は浦田達とは離れた席に座っていて、遠目から様子を窺っている。その原因は明らかだった。如月音だ。もっとも、その席に如月音の姿はなかったのだが。
開発チームのメンバーと同じ席にいた叶瞳は、半分は心配から、もう半分は興味本位で運行チームの席を見やった。
“お通夜ってほどでもないけど、テンション低いわね”
そんな事を思う。
そしてそれから酒を一口飲み込むと、“どうして、そんなことになっちゃったのかしら?”と心の中で呟いた。
如月音が何をしたのかは、噂では聞いていたのだが、その詳しい経緯までは知らなかったからだ。彼女はまさか自分がその一因になっているとは夢にも思っていなかった。
「出て来られるはずはないですよね。あんな事をやらかしちゃったんだから」
酒が入ってきたからか、不意に村上がそんな事を言った。その言葉に、浦田はピクリと反応する。
村上に浦田を責めるつもりはなかったのだが、浦田はそう感じた。
「ま、自業自得みたいなもんだがな」
珍しく彼はそう言い訳のような事を言う。言った後で自分でも子供っぽかったかと少し反省をした。
「自業自得は自業自得かもしれませんが、それでも彼女を責めるのは酷だと僕は思いますよ」
と、それに村上は返す。
「どうして?」
さっきしたばかりの反省も忘れて浦田はそれにそんな反発をした。
「そりゃ、浦田さんにとっては、城之内さんはそんなに怖くないのかもしれませんよ? 上司といったって同期だし、技術力で頼られているから、もし本気で浦田さんが怒ったら、城之内さんは頭が上がらない訳だし。
でも、如月さんは違うでしょう? 城之内さんは上司で、ま、言っちゃなんですが、人格者とは言い難い。だから、もし逆らったらどうなるか分からないって恐怖は僕らにだってあるんですよ。それが新人でしかも気の弱い如月さんなら尚更だと思うんです。
なら、命令されたら、反抗なんてできませんよ」
それを受けて浦田は思い出していた。
如月音のあの怯えたような目で周囲を見る態度を。
それからこんな疑問を覚えた。
何故、忘れていたのだろう?と。
直ぐに気が付いた。自分の前では、彼女はここしばらくそんな顔を見せてはいなかったからだ。
つまり、信頼され安心されていたということだろう。
それから浦田は更に思い出した。自分が彼女を怒った時に見せた彼女のまるで絶望したかのような表情を。
とても悪い事をしてしまった気になる。
そして浦田は持っていたグラスに入っていた何かの酒をゴクリと飲み干した。何の酒を飲んでいたのかは覚えていなかった。ただ、まったく美味しく感じなかった。もっともそれはその酒の所為ではなかったのだろうが。
「あの…… すいません」
浦田家の玄関ドアのチャイムが鳴って、そんな声が響いた。
ドアフォンから「どなたですか?」という聞き覚えのない声が聞こえて来て、チャイムを鳴らした訪問者は緊張していた所為もあって少し慌てた。
「あの、私は浦田さんの会社の同僚で、如月という者ですが」
まるで釈明するようにそう言う。
「はぁ」
ドアフォンの向こう側の相手はそんな訝しげな声を出した。勧誘かセールスマンの類ではないかと疑われているようだ。
しかし、彼女がどう誤解を解こうとかと悩んでいる間で、「いいのよ。知り合いの人だから」と浦田の母親の声がした。そして、それから直ぐにドアが開いた。
そこにはエプロンを付けた中年の女性がいて、訝しげに如月音を見ていた。恐らく介護ヘルパーだろう。今日は飲み会で遅くなるから、浦田が雇ったのだ。
「入ってもらってください」
少しの間の後で、そんな浦田の母親の声が部屋の奥の方から聞こえて来た。「どうぞ」と介護ヘルパーが言う。なんだか変な具合だったが、軽くお辞儀をすると如月は家の中に入っていった。
「今日はどうしたのですか? 息子からは飲み会だって聞かされていたのだけど、あなたは出なかったのね」
浦田の母親の部屋に入ると、如月はそう尋ねられた。
「はい。私はちょっとあって欠席させてもらいました」
言い難そうに喋る如月の姿で、浦田の母親は何かを察したようだった。
「そう」とだけ応える。
それから如月を安心させるようにほんの少しだけ微笑んだ。
「それで、もし良かったら、今日もお世話をさせてもらえたらと思いまして」
その微笑みを見て勇気を出せたのか、それから如月はそう続ける。それを受けて、ほんの少しだけ何かを考えるような仕草をした後で浦田の母親は、
「分かったわ。それじゃ、お願いしましょうかしらね」
と、そう言った。
それから部屋の入口の方で様子を窺っていた介護ヘルパーに向けて「そんな訳だから、折角来てもらって申し訳ないけど、今日はもう大丈夫です」とそう告げる。
介護ヘルパーの女性はどう返せば良いのか分からないといった表情を浮かべていたが、続けて浦田の母親が「お金はちゃんと払いますから、安心してください」と言うと、不思議そうにしつつも直ぐに帰っていった。
それから、介護ヘルパーが途中まで行っていたお風呂の用意を引き継ぐようにして如月は浦田の母親の入浴補助を行った。いつも通りに淡々と。浦田の母親は何も聞かなかった。ただ、「ありがとうね」とお礼を言っただけだった。それが如月には心地良かった。
お風呂が終わると、いつも通りに一緒に料理を作り、一緒にそれを食べ、ベッドにまで浦田の母親を連れて行き、そのまま寝かせる。いつもならそこで別れを告げて帰っているはずだった。ところが如月は中々帰ろうとしない。寝ている浦田の母親の隣に座り、暗い表情で黙っていた。
「何があったのですか?」
そして、そこで初めて浦田の母親はそう尋ねて来たのだった。
とても優しい口調で。
「あの…… 私…」
それで彼女の中の張り詰めていた気持ちが切れてしまった。涙が一筋二筋頬を零れ落ちていく。
「会社を辞めなくてはならないかもしれなくて、だからこうして浦田さんのお母さんのお世話をするのも最後になるのかもしれなくて」
涙を溢しながら、聞き取り難い声で彼女はそれだけを語った。
それを聞き「ふぅ」と息を漏らすと、浦田の母親は「何があったのかもっと詳しく話してみてください」とそう言った。
それから彼女は諸々の事情を、浦田の母親に告白していったのだった。
自分には父親の残した借金がある事、借金を返す為にスキル不足を隠したまま騙すようにして浦田の会社に就職した事、スキルが足りない所為で浦田や他の皆に迷惑をかけてしまった事、上司からの指示だったとはいえ、ズルをして他の人の業績を自分のものにしようとしてしまった事、それを浦田に咎められた事、そして、今日、上司に逆らって自分のズル全てを暴露してしまった事。
自分でも驚く程、次から次へと言葉が出て来た。きっと、ずっと誰かに聞いて欲しかったのだろう。
浦田の母親は静かに何度も相槌を打ち、「そう。それは辛かったわね」と優しい言葉を彼女にかけた。
語り終えた時、如月音は随分と楽になっていた。そしてそれでようやく気持ちの整理がついたようでもあった。
「だから、もうお母さんのお世話をするのもこれで最後になると思うんです。あんな事をしてしまっては、もう会社には残れないと思いますから」
ところがそれを聞くと、「それはちょっと認めたくないわね」と、そう浦田の母親は言うのだった。
「だって、私、あなたをとっても気に入っているのだもの」
それは今まで一番優しい口調だった。
その言葉に感動を覚えつつも、如月はそれに「でも……」と返した。
どうにもならない。
流石に、会社を辞めてもまだここに通う訳にはいかないだろう。
しかし、それから浦田の母親は彼女に向ってこう告げるのだった。
「あなたが抱えているというそのお父様が作ってしまったという借金。私が払います。私、こう見えても、実はけっこう小金持ちなのよ」
その予想外の提案に、如月は目を大きくした。
「え?」
「……なーんてね、本当はただ単に主人の年金の使い道がなくて、貯め続けていただけなのだけどね。おじいちゃん、おばあちゃんにはありがちなパターンのやつよ。一千万ほどあるわ。本当はあの子に全部上げちゃうつもりだったのだけど、あの子も私と同じでそんなに物欲ないし」
その言葉に如月は慌てた。
「ちょっと待ってください。そんな大金、貰う訳にはいきません!」
「あら? どうして?」
「どうしてって……」
それからくすりと浦田の母親は可笑しそうに笑う。
「安心して。なにもタダであげようだなんて言っていないわ。ちゃんとそれなりの対価をあなたには支払ってもらいます」
「対価って……」
それを聞くと、浦田の母親は何故か深々と頭を下げ、こう述べた。
「どうか、あの子と一緒になってあげてください」
そのお願いに、如月はさっきよりも更に目を大きくした。
「いえ、ちょっと待ってください。どうして、そうなるのか……」
「あの子のことは嫌い?」
「いえ、嫌いではありませんが」
「なら、何も問題ないじゃない」
「そういう話ではなくて……」
それから静かに浦田の母親はこう言った。
「私があなたの事を気に入って、だから借金を払う代わりに息子の嫁に来て欲しいと頼んでいるのよ。何も難しい話はしていないわ。
あら? でも、これだと人身売買になってしまうのかしらね?」
その時、如月は泣いているような喜んでいるような夢を見ているようななんとも言えない表情を浮かべていた。
「でも、浦田さんが…… 一さんが、私と結婚したがるとは思えません」
それに浦田の母親はにっこりと笑う。
「あら? そんな事はないわよ。あの子はあなたを気に入っているわ。じゃなかったら、家にまで連れて来るものですか。あの子、人間関係は不器用だし」
「でも、浦田さんは怒っていて……」
「それなら、心配いらないと思うわよ」
イタズラっ子のような顔で嬉しそうにそう言うと、浦田の母親はこう続けた。
「あの子は、泣き落としに弱いから簡単に落とせるわ」




