13.私にはこれくらいしか出来なかったから
「ちょっと、如月さん! 何をやっているのよ!」
そう言って風呂場の戸を開けた叶瞳は、その瞬間に固まってしまった。何故なら、裸で体を洗っているものだとばかり思っていた如月音は、下はジャージ上はTシャツを着て、片手にシャワーを持ち、もう片方の手にはスポンジを握っているという全く予想外の姿でそこにいたからだ。
如月は驚いた表情で叶を凝視しながら「え? どうしたのですか? 叶さん? どうして、浦田さんの家にいるのです?」とそう言った。
そして、
「どなたがいらっしゃったのですか? 音さん」
と、続けてそんな声が。
風呂の奥にいて、叶のいる位置から確認できなかったが、高齢の女性の声に聞こえる。
「同じ会社の方です。いつもとてもお世話になっているのですが」
如月は高齢の女性だろう声の主にそう説明した。
叶瞳はその予想外の光景に混乱していた。ただし、その混乱が治まっていくのと同時に理性的な判断力を急速に取り戻していき、その奥にいる高齢の女性が誰で、如月音が何をしているのかを直ぐに察した。
“あ、そうだ。忘れていた。浦田さんは介護が必要な高齢の母親と一緒に暮らしているのだったわ……”
二人が自宅を目指している時点で本来なら気付いているべきだったのだ。肉体労働で返すというのが、浦田の代わりに介護をするという意味だということを。
「どうしたんだ? 誰か来たのか?」
状況を理解した叶の耳にそんな聞き慣れた声が入って来た。浦田一だ。二階から降りて来ているようだ。
一気に顔の表面温度を上げた彼女は思わずそこから逃げ出してしまいたくなったが、何を勘違いしていたかを説明しないままでは下手すれば犯罪者になってしまう。
「すいません。ちょっと勘違いをしてしまっていまして!」
気付くと、再びパニックに陥りかけた彼女は、不自然に大きな声でそう言っていた。
何故か、叶は夕食を浦田達と一緒に食べていた。
本当は何を勘違いしていたのかの説明と謝罪とを済ませたら、さっさと退散するつもりだったのだが、
「叶さんにも随分とお世話になりましたから、何かお礼がしたいんです。是非、夕食を食べていってください」
などと如月からまるで懇願されるように誘われ、しかも、浦田まで「俺もお礼がしたいな」などとそれに賛成してしまったものだから、勘違いしていた負い目のある彼女には断り切れなかったのだ。
浦田の母親は介護が必要と言っても食事に不自由はないようで、席に付くまで肩を貸す程度の補助のみで後は自分で食べていた。如月と一緒に料理を作っていたから、悪いのは本当に足腰だけなのだろう。
何故か、“お客様扱い”になっていた叶は見ていただけだったが、如月と浦田の母親は慣れた様子で夕食を作っていた。恐らく、もう何度も一緒に料理をしているのだ。
「音さん」
浦田の母親は如月のことをそう下の名前で呼んでいた。或いはこの母親は、如月を浦田の結婚相手候補だと思っているのかもしれない。そんな想像を叶はしてしまう。そして、だとするのなら、自分は一体どのように浦田の母親の目に映っているのか?とも。その所為か、浦田の母親は自分に対してどう接して良いのか分からないでいるように彼女は感じていた。
簡単なものだったが、如月(と浦田の母親)の料理はとても美味しかった。とてもじゃないが、自分には作れそうにない。
きっと、浦田の母親は如月を気に入っているのだろう。
そう叶は思った。
帰り道。
叶は如月と一緒に帰っていた。
二人きり。
叶は今しかないと思い、こう如月に話しかけた。
「如月さん。勘違いしていた立場でちょっと言い辛いのだけど、ちょっとやり過ぎじゃない? どうして、浦田さんのお母さんの介護までしようと思ったの?」
如月はそれにどう返そうか迷っているようだった。しばらく無言だったが、やがて「私も実は少しやり過ぎだとは思っていたんです」とそう口を開いた。
そして、こう続ける。
「もしかしたら、私に何の罪悪感もなかったのなら、こんな事はしなかったかもしれません」
そのセリフに叶は反応する。
「罪悪感?」
「叶さんももう気付いていると思いますけど、私、情報技術のスキルなんてあまりないんです。それを隠したまま働いて、皆さんに…… 特に浦田さんにはとても迷惑をかけてしまって、それでどうしてもお返しをしたいと思って悩んだのですが、私にはこれくらいしか出来なかったから……」
その如月の説明に叶は怒りを覚えた。
「これくらいしか出来ない? 出来る事ならあるじゃない。正直に、自分のスキルがどれくらいかを上に報告するのよ。そうすれば、あなたのスキルに見合った仕事を振ってくれるんだから。
それで、少なくともあなたが個人的に浦田さんに迷惑をかける事はないわ」
そうなったのなら、運行部署で今回のプロジェクトを引き取ってしまえばいい。それなら浦田の労働負担は増えない。
叶はそのように考えていた。
ところがそれに対して、如月はこんな事を言うのだった。
「それが出来ないんです」
「どうして?」
「私、借金を抱えているんです。父が残した借金で、何とか少しずつ返しているのですが、まだ五百万円ほど残っています。だから、どうしてもこのまま働いて、給料を貰わないといけなくて……」
それを聞いて叶は黙る。
社員は法律や労働組合に守られている。正直に告白しても、ふてぶてしく会社に残る手段くらいいくらでもありそうだが、彼女はそんな器用な性格をしてはいないのだろう。
「今はまだ皆さんの足を引っ張ってばかりいますが、必死に勉強している最中です。もう少しできっと役に立つようになると思いますから、どうか許していただけたら、と……」
そう許しを請う如月に対し、叶は「そう……」と返す事しかできなかった。
しかし、叶の反応が思いの外暗かったから、それから如月は口調を明るくするとこんな事を言うのだった。
「でも、それだけじゃないんです。私、浦田さんのお母さんのお世話をするのが嫌じゃないんですよ。
いえ、それどころか、むしろ、楽しいような……」
「楽しいの?」
「はい。多分、浦田さんのお母さんがとても温かく私に接してくれるからだと思います。とても感謝してくれて……
ここ最近、自分は誰の役に立っていないってずっと思っていたから、それが嬉しくて……」
それは浦田の母親が、如月を自分の息子の結婚相手候補だと勘違いしているからではないか?と叶は思ったが、それは言わなかった。言えば却って不幸を招きそうに思えたからだ。
「分かったわよ」
と、それから叶は口を開いた。
軽くため息を漏らす。
「私も協力してあげる」
そして、そう続けた。
彼女はこの如月という女性の性格や態度から、不幸な人生を送って来ただろう気配を如実に感じ取っていた。何だか、責めるのは酷に思えたのだ。
それを聞いた途端、如月は目を丸くして「ありがとうございます」とそう言って頭を下げた。
顔を上げると、目に涙まで浮かべているのが分かる。
素直な反応。
ただし、どことなく、如月がその叶からの協力を約束する言葉を居心地悪く感じているようにも彼女には思えたのだった。根拠はほとんどないのだが。
もしかしたら、恵まれた状況というものに、如月は慣れていないのかもしれない。
そう叶は思う。
そして、それから、或いは浦田は、こういった如月のようなタイプの女性を放ってはおけないのではないか?とも少し思ったのだった。
“……もし、そうなら、この人はどんな風にそれを受け止めるのだろう?”
叶はそんな疑問を抱いたが、それを確かめてみる気にはなれなかった。その理由は自分にも分からなかったのだが。




