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12.“肉体労働で返す”の意味って

 如月音は最近少しばかり気が楽になっていた。作業の段階がテストへと移り、彼女でもできる仕事が増えていたからだ。だからこれまで周囲に頼って来た分だけ、彼女は自分が担当するテストケースを増やしていた。これで自分だけ楽をしているという罪悪感から解放されるだろう。

 ただ、困った点が一つ。

 「もう、俺の件は別に良いんだぞ? 如月さんにだって普通に作業があるんだから」

 浦田がそんな事を言い始めてしまったのだ。

 浦田には今回の件ばかりでなく、前回のプロジェクトでも世話になっている。自分の代わりに残業してもらった所為で、介護ヘルパー代がそれだけ多くかかってしまっているのだから。自分の作業が増えたという理由だけで、お返しを止める訳にはいかない。

 「いえ、私はまだ充分にお返しができていません。まだ、続けます。それに浦田さんにだって作業が残っているはずです」

 「まぁ、それはそうなんだが」

 強い視線で如月音は浦田を見る。浦田はその視線を受けて、“意外に強情なところもあるんだな”とそう思っていた。

 「じゃ、そこまで言うのならお願いするよ。実を言うと君の厚意はかなり有難かったんだ。助かっている。ありがとう」

 浦田からお礼を言われて、如月は頬を赤く染めた。

 「いえ、そんなお礼を言われるようなことは何も…… お返しをしているだけですから…」

 彼女は照れつつ喜んでいた。自分は役に立っていないと思っていたにもかかわらず、彼から感謝の言葉を貰えたからだ。

 それに、仕事の出来る浦田がこういった点では不器用に思えるのも、なんだか嬉しかった。

 「お返しって言っても、自分の仕事の役割を果たしているだけだぜ、俺は」

 不器用な彼は誤魔化すようにそう言った。

 「浦田さん、何も役職ないじゃないですか。城之内さんが言うのならまだ分かりますが」

 そう如月が返すと、浦田は恥ずかしそうにしながら頭を掻いた。

 「いや、ま、そうだけど……」

 照れている。

 “本当に不器用”

 それを見て、彼女は思わず少し笑ってしまった。すると、浦田はバツの悪そうな表情で、再び頭を掻く。

 その時だった。

 不意に如月は視線を感じた。周囲の人間達。向かいの席に座っている村上や霧島、いや、麻倉や木戸にまで見られているような気が。

 “私…… いや、私達が見られている? どうして?”

 そう思って浦田を見てみたのだが、こういった事には鈍感な性質の彼は特に気にしていないようだった。

 “なんだろう?”

 如月は首を傾げる。

 ただ、多少は変に思ったが、気にしても仕方ないと彼女はそれを忘れる事にした。懸命に仕事をしなければ終わらない。彼女の分のテストケースはまだまだある。今回のシステムは画面数は少なかったが、機能は複雑で、テストケースはそれなりに多かったのだ。

 仕事に集中すると、やがて先の視線も気にならなくなっていった。

 

 「――あなたに仕事の依頼をし来たのよ」

 

 叶瞳はそう言った。相手はいかにも緊張感のない、間延びしているような顔の男で、白衣を身に纏っていた

 そこは会社が抱える研究室の一つだった。

 彼女の話している男の名前は野崎という。研究室に所属している社員の一人で、問題児として有名な男だった。

 もっとも、例えばパワハラをするとか、反抗的だとか、勤務態度が悪いとか、そういった一般の人が“問題児”と聞いて思い浮かべるような単語は彼には何一つ当て嵌らない。研究員としても並み以上の実力があり、そういう意味ではむしろ優良社員と評価できた。

 「それによっては、あなたの罰を軽減してくれるようこちら側から働きかける事だって考えてあげるわ。

 悪くない話でしょう?」

 その叶の脅迫のような言葉に、「はあ」と野崎は気の抜けた返事をした。

 「罰も何も、僕は何も悪い事はしちゃいませんがね」

 それを聞いて叶は頭に手をやった。

 問題意識も危機意識もまるでない。この野崎という男は自分がした事の意味を理解していないのだ。

 「あのね、会社で研究している内容を分かり易くまとめて世間に向けてエッセイとして発表するなんて、絶対にやってはいけない事なのよ? 分かっているの? 完全な守秘義務違反じゃない!!」

 だから、多少の怒気を込めて、彼女は野崎に向ってそう言った。

 しかし、それでも野崎は相変わらず飄々とした態度を崩さなかった。暖簾に腕押し。糠に釘。まるで気にしていないようだ。

 眼鏡の位置を直しながら彼は言う。

 「でも、僕、書いちゃいけない研究成果とか、まったく書かなかったんですよ? 核心部分を避けてエッセイを書くのには、随分と苦労したんですから」

 「それでも駄目なのよ! ライバル企業にヒントを与えちゃうでしょう?」

 「そうですかねぇ? 考えすぎだと思うんですが。ま、確かに完全には可能性は否定できません。けどね」

 “けどね?”

 その反抗的な意志を孕んだ接続詞を聞いていよいよ本格的に叶は怒りを覚え始めた。この男はまるで子供だ。浦田とは全然違う。

 「けど、何よ?」

 それで、何か真っ当な理屈を言えるのなら言ってみろと言わんばかりの口調で彼女はそう追及した。

 「そもそも、僕のエッセイ、ほとんど読者はいないのですよ? 自分でも驚く程の低アクセス数なんです。ま、世間の一般の人は、素材の化学的特性なんぞには興味がないって事なのでしょう。

 何を書いたって誰も読んでいないのなら、同じでしょう? ライバル企業にバレたりしないと思います」

 そうなのだ。

 彼がネット上に投稿したエッセイは非常に低アクセスで、彼のその悪行を会社が見つけた事すら奇跡的と言っても良かった。

 ただし。

 叶自身は読んだ事はなかったのだが、彼の書いたエッセイの質は良かったらしい。素人にも分かるように上手く工夫してあって、語り口調は軽妙、かつ表現が面白く、文にリズムがあったから、すいすいと読めたのだとか。

 だからこそ、会社側も問題にしたという側面もある。

 彼のそのエッセイは会社の命令によって直ぐにネット上から削除されてしまったのだが、「読んでみたかった」という社員は多かった。特に新システムを考えている社員や、新製品のアイデアに行き詰っているだろう社員達は何らかのヒントになったかもしれないと削除されてしまった事を惜しんでいた。

 「ああ、もういい!」

 彼の返答を聞くと、苛立ちながら叶はそう言った。

 何の罪悪感もなく守秘義務違反を犯すような人間の感覚は、やはりどこかずれているらしい。

 議論の無駄だ。

 そう判断した彼女は、さっさと要件だけを伝える事にした。

 「今度、“技術・研究関連情報共有掲示板”ってシステムが立ち上がるわ。あなたにお願いしたいのは、ネット上に投稿したエッセイみたいな記事を、この掲示板にも投稿してもらいたいってことなの!

 得意でしょう?

 きっと、たくさんの社員達が、あなたの記事を読みたがるわ」

 その彼女の言葉に「え?」と言って、彼は驚きの表情を見せた。眼鏡の所為で拡大されているのじゃないかと思えるほどに、目を大きく広げている。

 「依頼したい仕事ってそれですか?」

 「そうよ」

 なんだか目を輝かせている。

 「なら、やりたい。やりたいです。是非、やらせてください。滅茶苦茶面白そうじゃないですか!

 僕、文章を書くのが趣味なんですがね、仕事で趣味と同じ事ができるなんて、まるで夢見たいです!」

 そのあまりの豹変振りに、彼女は戸惑ってしまった。

 「そう……。喜んでもらえて良かったわ」

 それでそう返したのだが、なんだか間抜けになってしまったと自分でも思う。

 ――彼女としては、まさかこんなに簡単に彼がこの仕事を引き受けてくれるとは思っていなかったのだが、とにかく、何にせよ、これで彼女の計画は問題なく進みそうだった。

 

 『技術・研究関連情報共有掲示板』

 このシステムを会社に充分に活用してもらう為には、それなりの数の利用者を獲得する必要がある。しかしそれは優れたシステムを開発するだけでは無理なのだ。

 彼女はそう考えていた。

 ――宣伝。

 それこそが重要。

 どんなに素晴らしい漫画や小説であったとしても、広く宣伝して客を集めなくては評価されない場合が多い。

 システムでもそれは同じ。

 とにかく、宣伝しなければ利用者は呼び込めない。

 そして、野崎という社員が起こした事件は社内でかなり有名になっている。その彼が記事を書くのであれば、宣伝効果は充分なはずだった。

 「浦田さん。待っていてください。絶対に今回のプロジェクトを成功させてみせますからね」

 野崎との交渉が上手くいった叶は、社への道を戻りながら、小さくそう呟いた。

 

 野崎の研究室から戻った叶瞳は、少し悩みながらも真っすぐに浦田のいるフロアに向った。急いで伝える必要のある内容ではない。本当は今日は直帰でも良かったのだが、彼女は自分の計画と、それが上手くいきそうだという話を早く浦田に聞かせたかったのだ。

 ところが、席に浦田の姿がない。時刻は定時を少し回ったという辺りだから、まだいてもおかしくはなかったのだが。

 そして、浦田だけではなく、如月音の姿もフロアにはなかった。

 「浦田さんなら帰りましたよ、さっき」

 浦田を探す叶の様子に気付いたのか、村上がそう教えてくれた。

 「如月さんも?」

 違和感を覚えた彼女はそう尋ねる。すると、村上は「ええ」と言い、多少、呆れたような顔で、

 「二人仲良く一緒に」

 と、そう付け足した。

 その言葉に、叶は自分でも分からないショックを受けた。

 「ちょっと、村上さん……」

 下世話な邪推に話が進みそうになのを見越してか、隣の霧島がそれを諫めた。

 しかし、

 「でも、事実だろう?」

 と、それに村上。

 「如月さん。普段から、浦田さんに対して“お返ししなくちゃ”みたいな事を言っているじゃない。しかも、なんだか仕合せそうにしながら」

 「そうと決まった訳じゃないじゃないですか」

 「気にし過ぎだよ、霧島さん。別に社内恋愛は禁止されていないんだから、悪口って訳でもないって。

 ま、如月さんがピンチの状態を浦田さんはずっと助けて来たのだし、そういう感情が芽生えても不思議じゃない。それに浦田さんの方も、ずっと女性関係には縁がなったしねぇ…… そういう相手が現れたら、一気になびいちゃっても無理はないでしょう」

 その村上の説明を聞きながら、叶は顔を青くしていた。

 ただ、浦田が如月に対して恋愛感情を抱いているとは何故か彼女は考えていなかった。或いはそれには彼女の願望が含まれてあったのかもしれない。

 彼女はショックを受けたままの頭で、変な想像をしてしまう。

 

 まさか、“肉体労働で返す”の意味って……

 如月さんは、浦田さんにそういう事をしていたの?

 私が仕事を引き受けようと言ったのを、浦田さんが断ったのは、それをし続けて欲しかったから?

 

 しばらく後、彼女は自分の中に言い知れぬ怒りがこみ上げて来るのを感じていた。

 そして、クワッと目を見開く。

 

 定時で帰ったというのなら、まだ近くにいるはず!

 

 そしてそれから彼女は直ぐに会社を飛び出すと、浦田と如月の後を追ったのだった。彼女の暴走癖が出てしまったのかもしれない。

 しかも、とても悪い形で。

 会社の最寄り駅のホームで、彼女は浦田と如月の二人を見つけた。確かに一緒に帰っている。具体的な住所までは知らなかったが、浦田の住んでいる大よその地域ならば彼女は知っていた。二人とも浦田の家のある方向に向おうとしているように思える。如月の帰る方面が偶然同じでないのなら、二人の行き先は浦田の自宅であるのかもしれない。

 電車が来ると二人は同じ車両に乗った。

 叶はそれを見て後を追う。別車両から覗いてみると二人は特に会話もなくただ電車に揺られていた。

 “恋人同士には見えないわね”

 それを見て彼女はそう思った。無言の間も気にしないでいられる熟年夫婦であるなら別だが、恋人同士ならもっと仲睦まじい様子を見せているはずだ。

 もっとも、浦田と如月の性格で、いかにも恋人同士といった態度を執るとも彼女には思えなかったのだが。

 二人は途中で行き先を変えることもなく、真っすぐに浦田の自宅を目指した。駅に着くとそのまま徒歩で住宅街に入っていく。二人が民泊を選択するとは思えない。どうやら本当に浦田の自宅を目指しているらしい。

 やがてある一軒家に辿り着くと、二人とも慣れた様子でその家に入っていった。叶は近づいて表札を確認してみたのだが、やはり“浦田”と書かれてある。予想通り、浦田の自宅であるらしかった。

 “まさか、自分の家でするって事?”

 ただの会社の同僚同士が、会社帰りに真っすぐ相手の自宅に寄ったりはしないだろう。しかも、男と女なのだ。

 叶はしばらく迷って浦田の自宅の周囲を行ったり来たりしていた。が、ある時、彼女の耳は微かな水音を拾ってしまう。

 “風呂だ”

 と、彼女は思う。

 探すと恐らくは風呂場からのものだろうオレンジ色の光がこぼれている窓をがあった。玄関の近くだ。

 これは、もう間違いない。

 そう叶瞳は判断する。

 行為に及ぶ前に、風呂に入って体を洗っているのだ。

 “仕事を頼む代わりに、そんな事をするだなんて絶対に認められない! 売春も同じじゃないの!”

 激昂した彼女は怒りに任せて、玄関のドアを開けた。幸い、鍵はかかっていなかった。そのまま風呂場に駆け込む。

 

 「ちょっと、如月さん! 何をやっているのよ!」

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