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10.私にだってできる事

 如月音は大きな不安を抱え、焦っていた。

 “技術革命の為のインターフェース”

 今では『技術・研究関連情報共有掲示板』という硬い正式名称が付けられているのだが、この掲示板の肝となるアクセス権限制御の仕様の凡そが決まり、それを実現する為の設計段階に入って、彼女はそれが自分の実力では遠く及ばない難しい仕事である事を痛感していたからだ。

 「他のシステムのアクセス権限制御の仕組みを参考に教えておくよ。この設計書を見ておいてくれ」

 浦田からそう言われて、比較的分かり易いと言われているアクセス権限制御の設計書を渡されたのだが、その内容がまったく彼女には分からなかった。

 浦田に質問すると、彼はそれについて事細かに教えてくれるのだが、一応は理解できるもののどうしてそんな仕組みになっているのかと問われるとその理由までは説明できず、しかもほぼ丸写しで今回のシステムにそれが活かせるのかと言えば、それも無理そうだったのである。

 「参考にはできるが、良い所を取って、変えないと使えないぞ」

 彼女の浅はかな考えは初めから見抜かれていたのか、予め浦田からそう釘を刺されてしまった。

 「取り敢えず、現段階で決まっている部分だけでも実装しておいてください」

 そう村上と霧島の二人には指示を出しているから、今のところは二人の手が空くようなことにはならないが、タイムリミットがいつ来るかは分からなかった。もしかしたら、二人は困っている自分に気を遣って、他の仕事を優先させているのかもしれない。

 もし、このままズルズルと設計書の作成が終わらなければ、プロジェクト全体のスケジュール進捗にも影響が出るのは確実だった。しかし、彼女がいくら焦っても少しも設計は進まず、結果として彼女は深夜まで残業する事が多くなった。しかも、残業しても相談相手の浦田がほぼ定時で帰ってしまっているので効率は著しく悪かった。次の日に浦田に設計案を見てもらうと、必ず問題点が見つかって直さざるを得なくなるのだ。

 「浦田さんが決めてしまった事なのに、薄情すぎる」

 追い詰められている彼女は、早く帰ってしまう彼を少し恨めしく思っていた。もっとも、その恨みが理不尽である点も充分に彼女は分かっていたのだが。

 “開発チームに難しい仕事は押し付けてしまおう”という城之内の策略を浦田には伝えいなかった上に、そもそも卑怯な策略で、普通は認められるはずがないのだ。多分、言ったら反対されるから城之内は浦田には伝えなかったのだろう。

 「でも、早く帰る余裕があるのなら、手伝ってくれても良いじゃないの。私が困っているのは分かっているんだから」

 ただ、それでも感情では納得いかない。早く帰宅してしまう浦田に対し、彼女はそんな不満を募らせていた。

 そんなある日、彼女はわざと深夜十時過ぎに彼に向けてメールを送った。ただそれは別に急ぎの内容でもなかったし、そもそも隣の席の彼に向けてわざわざメールで伝えるような内容でもなかったのだが。

 彼女はメールを送った遅い時刻を見せる事で、彼に向けて“自分はこんなに遅くまで残って仕事をやっているんだぞ”とアピールしたかったのだ。

 次の日の朝、如月は緊張しながら、やって来た浦田がパソコンを立ち上げ、メール内容を確認する様を横目で見守っていた。その自分のささやかな反抗に気付くかどうか。もし気付くのであれば、どんな反応を見せるのか。

 「ん」

 と、不意に彼は言った。

 メールを開きながら、横にいる彼女の方に顔を向ける。変な状況だが、それで横目で彼を見ていた彼女は目が合ってしまった。

 「如月さん。これ、わざわざメールで送るような内容でもないのじゃないか? 口で言えば良いじゃない」

 感情の伴わない平たい声で彼は彼女に向けてそう言った。

 「もし、私が出社しなかったらと思いまして」

 ほんの少しだけ苛立った気持ちを込めて彼女がそう返すと彼は「ん」と言い、

 「別にそんなに重要な内容でもないよね」

 そう続ける。

 「そうかもしれませんね」

 ムッとしながら、彼女は応えた。

 “多分、浦田さんは私の意図を理解していながら、すっとぼけているのだわ”

 そして、心の中でそう文句を言う。

 その彼女の態度を受けると、浦田はふうっとため息を漏らし、それから「ちょっと、打合せコーナーに行こうか?」とそう言って、彼女の答えを待たずに席を立ってしまった。

 仕方なく、彼女はは後を追う。無言のまま歩いて行く彼の後姿を見ながら、彼女は徐々に不安になっていった。もしかしたら、彼を怒らせてしまったのではないかと考えたからだ。

 彼女の知る浦田一という人物は、その程度のことで怒るような性格ではない。ただ、少々やり方が陰湿ではなかったかと彼女は反省をし始めていた。不満があるのなら、堂々と言えば良かったのだ。彼ならきっとそれに真面目に答えてくれるだろう。

 打合せコーナーのブースの一つに辿り着くと、彼は「遅くまで残っているみたいだね、如月さん」とそう言った。

 その時、如月からは既に怒りが消え、かわりに恐怖に囚われていた。その所為か説教を受けているような気分になってしまい、「はい。アクセス権限制御の設計ができなくて、仕方なく」とまるで言い訳をするようにそう返した。

 「ん」

 と、それに浦田。

 「どうして、設計が進まないのかはちゃんと分かっている?」

 その質問を受け、如月はしばらく迷っていたが、やがて「自分の実力が不足しているからだと思います」と、小さな声で返した。

 すると浦田は彼女が怯えていると判断したのか、優しい声になるとこう言った。

 「今回のシステムのアクセス制御のポイントは分かるよね?」

 そして、紙を取り出して、そこに簡単な図を描き始める。

 「まず、強い権限と弱い権限がある。強い権限は弱い権限のデータを全て見る事が可能だ。つまり、権限の強さを俺らはプログラムで表現してやる必要があるのだな。

 これに加えて所属というカテゴリがある。例えば、営業部署と研究室。普通は研究室の記事を営業部署からは見る事ができない。ただし、研究室が公開設定にチェックを入れ、営業部署でも見られるようにしていたなら別だ」

 その説明と共に、彼は権限を縦軸と所属を横軸としたマトリクスを描き上げた。それから今度はラフな検索画面を描き、そこにあるチェックボックスと先ほどのマトリクスのマスの一つに矢印を引いていく。そこはどうやら営業部署のマスであるらしい。

 恐らくは、その画面上のチェックボックスと営業部署のマスが結びつくという事を示しているのだろう。

 「この関係はちゃんと理解しているよね?」

 「はい」と如月は頷く。

 「何度も説明してもらいましたから」

 「よし」と、それに浦田。続けてこんな質問をする。

 「では、どうして設計書を書けないのだろう?」

 「それは……」

 その質問に彼女は言い淀む。それが分かっていれば苦労はしないのだ。

 「ん」

 と、そんな彼女の様子に彼はそう言った。

 「君は基本的なDBデータベースの構造を理解していないのじゃないかな?

 今回のこのシステムの仕様は、多少は複雑に思えるかもしれないが、それほど高度な事をやっている訳ではない。基本的な処理の組み合わせでいけるはずだ。

 つまり、君が順調に設計を進めたいと思ったのなら、まずはDBをもっと理解しないといけないんだ」

 その説明に如月は「はぁ」と曖昧に返事をした。

 多分、浦田の言う事は正しい。しかし、“DBをもっと理解しろ”と言われてもどうすれば良いのか分からない。無茶振りであるようにしか彼女には思えなかった。

 「ま、楽に設計できるくらいDBを理解しろと言われても、そんなに直ぐには無理だろうけどな」

 ところが、彼女の心中を察したのか、そこで彼はそう言ったのだった。そして、こう続ける。

 「――だから、今回のアクセス権限制御の設計と主な共通部品の実装に関しては、俺が担当しよう。君はサポートに回ってくれ」

 その言葉に如月は驚く。

 「え?」

 驚いている彼女に向けて、彼は更にこんな事を言った。

 「実を言うと、初めから無理じゃないかとは思っていたんだ。ただ、だからって簡単に俺がやってしまうと君がまったく成長しない。それでしばらくは苦労してもらった。多少は勉強になったのじゃないか?」

 それを聞いた途端、安心と喜びと騙されていた事へのほんの少しの怒りとが彼女の胸の奥底から一気に溢れ出て来た。

 思わず、彼女は立ち上がる。

 そして、

 「ありがとうございます!」

 気付くと涙目になりながら、彼女は彼に向ってそうお礼を言っていたのだった。彼の行為の何に対してお礼を言ったのか、彼女自身にもよく分かっていなかったのだが。

 「ん」

 とだけ、彼はそれに返した。

 

 それから浦田が如月の仕事を引き継ぐと、プロジェクトは順調に進み始めた。彼はアクセス権限の設計を軽々と終わらせると(もっとも彼はそれほど手の込んだ設計書は用意しなかったのだが)、城之内と開発チームのレビューを終わらせ、実装に取り掛かり、それに合わせて村上と霧島も実装を進める。如月は浦田の指示通りサポートに回り(表向きは今でもリーダーだったが)、お陰で随分と残業時間も減った。

 もちろん、その代わり、浦田の残業時間が増えたのだが。

 如月は多少はその事を悪く思っていたが、それが彼の役割でもあると自分を納得させていた。

 “……会社から、残業代だって払われているのだし”

 しかし、そんな彼女に向けて、ある日、霧島郁美がこんな事を言って来たのだった。

 

 「――あんまり、浦田さんに仕事を任せ過ぎるのはどうかと思います」

 

 如月はその忠告を“浦田に頼り過ぎると、実力が伸びない”といった意味だと捉えた。

 「ごめんなさい。今はまだ私の技術力は不足しているかもしれないけど、必死に勉強している最中だから……」

 それでそう返す。

 しかし、そう言う如月に対して霧島はこう返して来るのだった。

 「浦田さん。家に介護が必要なお母さんがいるんですよ? 残業する度に、臨時の介護ヘルパー代がかかって赤字になるらしいです」

 

 ――え?

 

 その言葉に如月はショックを受けた。

 「……だって、浦田さんはそんな事は一言も」

 思わずそう漏らす。すると、それに霧島はこう言った。

 「多分、如月さんに気を遣って黙っていたのじゃないですか?」

 “……そんな”

 如月は急速に罪悪感がこみ上げてくるのを感じていた。

 自分の所為で、浦田に仕事の負担だけじゃなく、金銭的な負担も与えていたなどと彼女は夢にも思っていなかったのだ。家にいる彼の母親にも悪い事をしている。

 “しかも、そんな事情があるのに、早く帰っていた彼に対し私は子供のように怒っていた……”

 彼女はそれで猛省した。

 “このままじゃ、いけない”

 そして、彼女はこう決心したのだった。

 

 ――私にだってできる事が、必ずあるはずだ。それで必ず彼にお返ししよう。

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