第9話 砕ける正体
嘆願書の審査は五日後に行われると通知された。
その五日間、わたしは記録の整理に没頭した。
暖房魔道具の改良データ。王妃の音楽小箱の修理報告。日々の修理記録と、宮廷使用人からの評価。
すべてを書面にまとめ、通し番号を振り、一覧にした。夜が更けても手を止めなかった。コンラートが差し入れてくれた温かい飲み物が、いつの間にか冷めていた。指先がかじかんでも、ペンを握り続けた。
「これだけあれば、実績は明白です」
コンラートが束ねた書類を抱えて言った。
「ありがとう、コンラート。でも、相手は実績ではなく『風紀』を問題にしている。論点をずらしてくる可能性がある」
「どう対処するんですか」
「待つわ。相手の手を見てから動く」
それがわたしの九年間で学んだやり方だ。先に動いた方が、足元をすくわれる。グスタフがいつもそうだった。先に怒った方が負ける。先に泣いた方が弱者になる。だからわたしは泣かなくなった。
審査の前日、リュシエンヌに呼ばれた。
「ノエルさん。ひとつ、あなたに知らせておくべきことがあります」
リュシエンヌの声は、いつもより低い。窓の外に目を向けたまま、わたしに背を見せている。
「イルマ・ハイリゲンの嘆願書には、アルヴィン侯爵の署名がある」
「……予想はしていました」
「でも、もうひとつの署名は予想していないでしょう」
リュシエンヌが振り向き、紙を差し出した。嘆願書の写し。二つ目の署名──。
ヨハン。
わたしの──あの屋敷の使用人のヨハンだ。
「ヨハンが証言しています。『元伯爵夫人は屋敷の道具を無断で使用し、夫の財産を損壊した』と」
頭が真っ白になった。
ヨハンが。あの、門の前で見送ってくれたヨハンが。あの屋敷に来た初日から、わたしの味方でいてくれたはずのヨハンが。
「……嘘です。わたしが壊したものなど何もない」
「わかっています。でも証言として提出されている以上、反論が必要です」
リュシエンヌがわたしの手を見た。震えている。
「ノエルさん。裏切りは痛い。でも、痛みに飲まれないで」
わたしは唇を噛んだ。
なぜヨハンが。
答えはすぐに浮かんだ。グスタフに脅されたのだ。ヨハンはあの屋敷の使用人。雇い主に逆らえば、職を失う。あの年齢で職を失えば、路頭に迷う。家族もいたはずだ。選択肢はなかったのかもしれない。
憎めない。でも──許すこともできない。信じていた人間に裏切られるのは、見知らぬ敵に攻撃されるよりずっと深く刺さる。
「反論します」
わたしは声を絞り出した。
「あの時計──屋敷で直した置き時計は、半年間壊れたままだった。つまり、それまでわたしは魔道具に触れてもいない。壊すことなど不可能です」
「証明できますか」
「ダリオが時計を診ています。わたしの修理が最初の介入だったことは、魔力の痕跡で判断できるはずです」
リュシエンヌが小さくうなずいた。
「ダリオに確認を取ります。それともうひとつ──アンナは?」
「アンナは嘆願書に署名していないのですか」
「していない。アンナの名前はどこにもありません」
アンナは──裏切らなかった。
胸の奥で、小さな温もりが灯った。あの料理番は、署名を拒んだのだ。グスタフの圧力がかかったはずなのに。丸い顔の、穏やかな笑みの、あの女性が──わたしのために立ち上がった。
審査当日。技術委員会の部屋。五人の委員。そしてアルヴィン侯爵。
部屋に入った瞬間、空気の重さが変わった。前回の審査とは違う。あのときはわたしの技術を評価する場だった。今日は──わたしの存在を消すかどうかを決める場だ。
傍聴席にイルマがいた。深紅のドレス。完璧な微笑。勝利を確信した顔。その隣には見知らぬ貴婦人が二人、扇で口元を隠しながら何事か囁き合っている。
「ノエル・カペルの見習い資格取り消しについて審議する」
アルヴィン侯爵が開廷を告げた。
イルマ側の主張は三つ。
一つ、離縁された女性が宮廷で働くのは前例がなく風紀に反する。
二つ、元使用人の証言により、財産損壊の疑いがある。
三つ、見習い資格の審査過程に主任技師の恣意的な推薦があった。
ダリオへの攻撃も含まれている。周到だ。
わたしは立ち上がった。
「反論いたします」
まず一つ目。前例がないことは、禁止の根拠にならない。宮廷の規定を確認したが、離縁者の就労を禁じる条文は存在しない。前例がないのは、これまで誰もやらなかっただけだ。禁止されていたわけではない。
委員の一人がうなずいた。規定は事前に調べてある。リュシエンヌの部屋で、三晩かけて読み込んだ。一条一条、丹念に。
二つ目。財産損壊の疑いについて。わたしが屋敷の魔道具に初めて触れたのは離縁通告後であり、それ以前に魔道具を扱った事実はない。証拠として、ダリオによる魔力痕跡の鑑定書を提出する。
ダリオの鑑定書を委員に回す。アルヴィン侯爵が眉を寄せた。目を通さざるを得ない。
三つ目。審査過程の公正性について。わたしの改良案は計測データに基づいて審査され、技術委員会自身が承認したもの。恣意的と言うなら、委員会の判断そのものを否定することになる。
この三つ目で、委員たちの顔色が変わった。イルマの主張は、委員会の権威を傷つけている。それに気づいたのだ。自分たちの判断を「恣意的」と呼ばれて、心地よいはずがない。
わたしは委員たちの表情を読み取った。四人は明らかに不快感を示している。残る一人──アルヴィン侯爵だけが、無表情のままだった。
アルヴィン侯爵が沈黙した。長い沈黙の後、侯爵が口を開いた。
「……嘆願書を却下する」
イルマの顔から微笑が消えた。ほんの一瞬。でもわたしは見逃さなかった。仮面がずれた瞬間を。
「ただし──ノエル・カペルの正式技師への昇格は、さらなる実績を見てから判断する。現状は見習いのまま据え置く」
完全な勝利ではない。でも──負けなかった。
部屋を出た廊下で、わたしは静かに息を吐いた。指先がまだ微かに痺れている。
「よくやった」
ダリオが隣に立った。壁に背を預けて、腕を組んでいる。
「でも、完全勝利ではありません」
「最初から完全勝利を狙う必要はない。今日の目標は、ここに残ることだ。残れた。それでいい」
ダリオの声は静かだった。穏やかだが、揺るがない。この人はいつもこうだ。大きな言葉は使わない。でも言ったことは必ずそうなる。
「それに──ヨハンの証言が崩れたことで、イルマの手札がひとつ減った。次からは別の手を使わなければならない。手札が減るほど、嘘は綻びやすくなる」
工房に戻ると、コンラートが泣きそうな顔で待っていた。
「ノエルさん……! 結果は……」
「残れたわ」
コンラートが声を上げて泣いた。十五歳の少年が、大人のわたしのために泣いてくれている。
わたしは微笑んで、コンラートの頭をぽんと叩いた。
「泣かないの。まだ始まったばかりよ」
その夜、工房の片隅で──ダリオが残した書類に目が留まった。リュシエンヌ宛の報告書。封が開いている。目に入ってしまった一文。
『アルヴィン侯爵の背後にいるのは、グスタフではない。第二王子ヴェンツェルだ』
第二王子。
わたしの敵は──想像より、はるかに大きかった。




