第10話 偽りの夫人と本物の技師
第二王子ヴェンツェル。
名前は知っている。王位継承権第二位。だがそれ以上のことは知らない。宮廷の政治に、わたしは無縁だった。
翌日、リュシエンヌを訪ねた。
「あの報告書を見ましたね」
リュシエンヌは開口一番そう言った。隠しても無駄だと悟った。
「はい。申し訳ありません」
「謝らなくていい。見せるつもりでダリオの机に置いたのよ」
──わざと?
「あなたには知っておいてもらう必要がある。ヴェンツェル殿下は、宮廷の魔道具利権に手を伸ばしています。アルヴィン侯爵はその窓口。そしてイルマ・ハイリゲンは──殿下の社交上の駒」
「イルマがヴェンツェル殿下と……」
「グスタフは知らない。彼はただ、アルヴィン侯爵に取り入っているだけ。イルマの方がよほど野心家です」
なるほど。イルマは単なる愛人ではなかった。グスタフすら利用している。あの完璧な微笑の下に、これだけの野心を隠していたのか。九年間同じ空気を吸っていたのに──いや、だからこそ気づかなかった。わたしは彼女を「夫を奪った女」としか見ていなかった。
「魔道具利権とは、具体的に?」
「王立工房が開発した魔道具の技術を、特定の商会に独占的に売却する──そういう仕組みを作ろうとしています。ヴェンツェル殿下の資金源にするために」
工房の技術を私物化する。それが成功すれば、魔道具は一部の権力者の道具になる。暖房の改良も、音楽の小箱も、すべて特定の人間の利益のために使われる。
「ダリオさんが邪魔なんですね」
「ええ。ダリオは工房の技術は公共のものだと主張している。だから排除したい。そしてあなたは──ダリオが見つけた才能だから、ついでに排除対象」
ついで。わたしはただ技師として働きたかっただけなのに、権力闘争に巻き込まれている。
でも──逃げない。ここで逃げたら、また九年前に戻る。
「わたしに何ができますか」
「今は──技師として実績を積みなさい。あなたの技術が認められるほど、排除は難しくなる。正面から潰せないものは、相手も手を出せない」
「ひとつ聞いてもいいですか。リュシエンヌ様は、なぜわたしに味方してくださるのですか」
リュシエンヌが窓の外を見た。視線が遠くなる。
「昔、わたしにも似たような時期があった。宮廷で居場所をなくしかけた頃、技術で道を切り開いた女性がいた。その人がいなければ、今のわたしはいない」
「その方は──」
「もう亡くなったわ。去年の冬に」
リュシエンヌの声がかすかに揺れた。
「だから──次の世代に返すの。受けた恩は」
リュシエンヌの目が、わたしを射抜いた。
「あなたにはその才能がある。技術で道を切り開ける。わたしはそれを見届けたい」
わたしは深く頭を下げた。声が出なかった。代わりに、頭を下げたまま何度も瞬きをした。
◇
一週間後、転機が来た。
宮廷の大広間で、魔道具の展覧会が開催される。各工房の技師が新作や改良品を披露し、王族や貴族に評価される場だ。
ダリオがわたしの名前を出品者に加えた。
「暖房魔道具の改良品を展示しろ。それと──もうひとつ、何か新作を」
新作。一週間で。わたしは考えた。目を引くもの。実用的で、かつ人の心に触れるもの。
エーファの顔が浮かんだ。あの子が寒い夜、わたしの部屋に来て「怖い夢を見た」と泣いたとき。わたしは何もできなかった。ただ抱きしめるだけで。
──夜、安心して眠れる道具。
小さな魔道具のランプ。暖かい光を灯し、子どもが触っても熱くない。光の強さを呼吸のリズムに合わせてゆっくり変化させ、安眠を促す設計。
設計に三日、試作に二日。最後の二日で調整を重ねた。光の変化が自然に見えるよう、歯車の回転を微調整する。速すぎれば落ち着かない。遅すぎれば単調になる。何度も何度も試して、ようやく──息をするようなリズムに辿り着いた。
展覧会の当日。大広間には華やかな人々が集まっている。貴族、官吏、各工房の技師、そして王族の姿も見える。胸が早鳴りしたが、作業台に触れた瞬間、指先がすっと静まった。ここは戦場ではない。わたしの作ったものを見せる場だ。
わたしのテーブルには、暖房魔道具の改良品と、小さなランプ。
多くの人が暖房の方に興味を示した。実用性は高い。でも──王妃様が足を止めたのは、ランプの前だった。
「これは?」
「安眠のためのランプです。光が呼吸のリズムに合わせてゆっくり変化します」
王妃がランプを手に取った。柔らかな光が、王妃の手の中でゆっくりと明滅する。
「……素敵ね。これ、子ども部屋に置きたいわ」
王妃が微笑んだ。その一言で、周囲の空気が変わった。近くにいた貴族たちが、わたしのテーブルに目を向ける。さきほどまで素通りしていた人々が、足を止め始めた。
王妃のお墨付き。それは政治的な後ろ盾であると同時に──純粋な、一人の母としての共感だった。わたしが作ったものが、人の心に届いた。技術ではなく、想いが。
展覧会が終わった後、アルヴィン侯爵がわたしのテーブルに来た。
「ノエル・カペル」
「はい」
侯爵の表情は硬かった。でも──敵意とは少し違う何かが混じっている。葛藤だ。技術者としての良心と、政治的な立場との。
「見事な品だった。認めよう」
短い言葉だった。でもその一言に、込められた重みをわたしは感じ取った。この人は──認めたくなかったのに、認めざるを得なかった。事実の前に、しがらみが一歩退いた瞬間だった。
それだけ言って、侯爵は去った。
ダリオが近づいてきた。
「アルヴィン侯爵が褒めるのは珍しい。あの人は──根は悪い人間じゃないんだ。ただ、しがらみが多い」
「しがらみ」
「ヴェンツェル殿下に逆らえない事情がある。でも今日、お前の技術を認めた。それは小さいが、確実な亀裂だ」
敵の中にも、亀裂は生まれる。完璧な敵などいない──嘘で固めた城には、必ず隙間がある。あの侯爵の目には、今日たしかに迷いがあった。技術を認める心と、しがらみに縛られる立場と。その板挟みが、いずれ亀裂を広げる。
帰り道、ダリオが隣を歩いていた。いつの間にか、歩幅が揃っている。
「ダリオさん」
「何だ」
「あのランプ……本当は、エーファのために作りたかったんです」
ダリオは何も言わなかった。ただ──ほんの一瞬、わたしの肩に手を置いた。
その手の温かさに、わたしは目を伏せた。泣かない。ここでは泣かない。でも──温かかった。手のひらひとつ分の温もりが。九年間、誰にも触れてもらえなかった肩に、人の体温が伝わる。それだけで、胸の奥が震えた。
工房に戻ると、机の上に一通の手紙が置かれていた。封蝋はハイリゲン家の紋章。開封する。
──ノエルへ。エーファが熱を出して寝込んでいる。助けてほしい。アンナより。
わたしは手紙を握りしめた。エーファ。あの子が。
迷っている暇はなかった。宮廷の政治も、イルマとの対立も、ヴェンツェル殿下の陰謀も──今は全部、後回しだ。あの子がわたしを必要としている。それだけで十分だ。
わたしは外套を掴み、工房を飛び出した──振り返ると、ダリオが黙って馬の手配をしている姿が見えた。
第1章完結となります!
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