第11話 熱と涙の夜明け前
エーファの額は、火のように熱かった。
ハイリゲン家の屋敷に着いたのは、深夜を過ぎた頃だった。ダリオが手配してくれた馬を飛ばし、三日かかる道のりを一日半で駆け抜けた。背中は汗で冷え切り、馬を降りたとき膝が崩れそうになった。
手綱を握りしめていた指が開かなかった。一本ずつ、ゆっくり剥がすようにして革紐を手放す。鞄の中の工具と応急用の魔道具を確かめ、肩にかけ直した。
裏口でアンナが待っていた。丸い顔がやつれ、目の下に隈が浮かんでいる。手にした灯りの炎が揺れていた。わたしを見た瞬間、その目に水の膜が張ったが──泣かなかった。
「ノエルさま、来てくださった」
かすれた声だった。アンナはわたしが屋敷を出た後も、料理番の身でありながらエーファの看病を続けてくれていた。他の使用人はイルマの目を気にして近づかない。この人だけが、エーファのそばにいてくれた。
「エーファは」
「二階のお部屋です。三日前から熱が下がりません。お医者様は来てくださったのですが、原因がわからないと。喉も胸も異常なし、流行りの病でもない。ただ熱だけが上がり続けて。わたし、どうしたらいいか……」
原因不明の高熱が三日間。アンナの手紙にそう書かれていた時点で、わたしの体はもう動いていた。荷物をまとめる前に馬の手配をダリオに頼むと、ダリオは何も聞かず馬を用意し、鞄に予備の食料と水筒を入れてくれた。「気をつけろ」とだけ言って。
階段を駆け上がる。薄暗い廊下には、以前と変わらない重苦しい空気が漂っていた。磨かれていない燭台、冷え切った壁。暖炉に火は入っていない。
春先の夜はまだ冷えるのに、子どもの部屋に暖房がないまま。わたしがいた頃から訴え続けて、結局何も変わらなかった場所だ。
エーファの部屋の扉を開けた。
小さなベッドにエーファが横たわっている。赤い顔、額に浮く汗、荒い呼吸。毛布がずり落ちかけていたのをまずかけ直した。枕元にはわたしが縫ったうさぎのぬいぐるみがある。片耳が長いあの子。綿がはみ出し、耳の付け根の縫い目がほつれかけていた。何度も抱きしめたのだろう。
「エーファ」
名前を呼ぶと、閉じていた瞼がかすかに動いた。琥珀の瞳が薄く開くが、焦点が合わない。それでも──わたしの声は届いたらしい。乾いた唇が、かすかに動く。
「……おかあ、さま?」
胸の奥で何かが決壊した。泣くまいと決めていたのに、目が熱くなり、視界がにじむ。でも歯を食いしばった。この子が必要としているのは、わたしの涙ではなく、わたしの手だ。
「ここにいるわ。大丈夫よ」
エーファの手を握った。小さな指は乾いて熱く、脈が速い。九年間毎日握っていた手──爪を切り、傷に包帯を巻き、冬には手袋をはめてやった手。離れて数ヶ月の間に、指が少しだけ伸びていた。わたしの知らない日々を、この子は一人で過ごしている。
アンナが後ろに立ち、声を落として言った。
「イルマさまは……お見えになっていないの?」
アンナが首を横に振った。
「一度もです。グスタフさまも。お医者様が来たときだけ、侍女が様子を見に来ます。でもそれも長くはいないんです。部屋を覗いて、すぐに帰る。まるで──義務を果たすだけのように」
九年間、わたしが育てた子だ。夜泣きのたびに起き上がり、熱を出せば一晩中そばにいた。自分の子ではないと知りながら、一度も手を抜かなかった。それなのに、本当の母を名乗るイルマは──この子が苦しんでいるときにそばにすらいない。
怒りが腹の底から湧いた。拳を握りしめそうになる。だが今はそれを使う場面ではない。怒りは後で使う。正しい場所で、正しい形で。
エーファの額に手を当てた。指先に魔力を灯し、銀色の光で体の状態を探る。工房で学んだ技術──魔道具の不具合を見つけるように、体の中の異変をたどっていく。
微弱だが不自然な魔力の残滓があった。体の外側からじわじわと染み込んだような痕跡。自然に発生するものではない。何かが外部から、継続的にこの子の体に干渉している。
──ただの風邪ではない。
「アンナ。この部屋に何か新しいものは置かれた? エーファがこの部屋に移ってから」
「新しいもの……」
アンナが部屋を見回した。
「ああ、あの飾りですね。イルマさまがお部屋に飾りなさいと持たせた陶器の飾りが。エーファさまがこちらに移ってすぐに」
窓際の棚に、小さな花瓶のような陶器の飾りがあった。白い陶器に青い模様。手に取ると、指先にちりちりとした感覚が走る。粗雑な魔力の流れだ。遮蔽もなく微弱な魔力が漏れ続けていて、底面には小さな蓋──内部に魔石が仕込まれている。
大人であれば気にならない程度の微弱さだが、魔力に耐性のない幼い子どもが長期間これに晒されれば、免疫が落ちて体調を崩す。医者が原因不明と診断するのも無理はなかった。魔力の干渉による体調不良は、通常の診察では判別できない。
わたしは飾りを布で何重にも包み、鞄に入れた。
「これを遠ざければ、熱は二日ほどで引くはずです」
「まあ……でも、それはイルマさまが──」
「わたしが預かります。エーファには触れさせないで。同じようなものが持ち込まれたら、すぐに知らせてください」
アンナがうなずいた。その目に安堵と、同時に怒りが見えた。
エーファのそばに座り、額の汗を拭く。手ぬぐいを水で絞って額に乗せ、こめかみを優しくさすると、呼吸が少しずつ穏やかになっていった。こわばっていた指が緩み、眉間のしわが消えていく。
「おかあさま……いかないで」
「いかないわ。ここにいる」
嘘だ。わたしはもうこの屋敷の人間ではない。でも今夜だけは嘘をつく。この子が安心して眠れるように。
夜が白み始める頃、エーファの熱が少し下がった。呼吸が安定し、寝顔が穏やかになる。わたしはエーファの手を握ったまま椅子で夜を明かした。背中は痛いし目も乾いている。でもこの椅子に座る時間は苦痛ではなかった。九年間何度もこうしてきた、失われた日常が一晩だけ戻ってきたのだ。
枕元のうさぎのぬいぐるみ。片耳が長いまま、綿がはみ出したまま。わたしの代わりに、ずっとこの子のそばにいてくれた。
窓の外が明るくなり始めたとき、階下で馬車の音がした。車輪が砂利を踏み、御者の声、馬のいななき。
──こんな早い時間に。
アンナが慌てて降りていく足音。そして聞こえてきたのは──グスタフの声だった。




