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夫の愛人の隠し子を九年育てましたが、そろそろ自分のために生きます  作者: 渚月(なづき)
第2章

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第12話 戻れない場所

グスタフは外套を着たまま階段を上がってきた。頬が赤く、息が荒い。馬を飛ばしてきたのだろう。革の手袋を片方だけつけたまま、靴には泥が跳ねている。


この屋敷にわたしがいると知れば、来ない方がおかしい。夜中に元妻が裏口から入ったとなれば、イルマが黙っているはずがなかった。


「なぜお前がここにいる」


エーファの部屋の前で、グスタフは声を低く抑えた。壁の向こうのエーファを起こさないためか、使用人に聞かれたくないのか。おそらく後者だ。


わたしは寝室の扉を静かに閉め、廊下に出た。数ヶ月ぶりに見るグスタフの顔はやつれていた。目の下に隈があり、頬がこけ、あごに無精髭が残っている。身だしなみに気を遣うこの人にしては珍しい。


「エーファが熱を出していると聞いたので」


「誰から」


「アンナです」


グスタフの顔が歪んだ。怒りだ。だが誰に向けた怒りなのか──わたしにか、アンナにか、自分の知らないところで物事が動いていたことにか。


不都合なことが起きると、この人は怒ることで処理する。かつてはそれが怖かった。怒鳴り声が響くたびに体が縮こまった。今は──哀れだと思う。そう思えるようになったのは、わたしが変わったからだ。


「離縁した女が勝手に入ってくるな。この屋敷はもうお前の場所ではない」


「ええ、そうね。でもエーファが苦しんでいるのに、誰も来ないのなら──来る人間がいてもいいでしょう」


「イルマが面倒を見ている」


「イルマは一度も来ていないとアンナから聞きました」


グスタフの視線が一瞬だけ右に泳いだ。知らなかったのだ。あるいは、知りたくなかったのか。イルマが母親をしてくれるという幻想で、罪悪感を埋めていた──その幻想が崩れかけている顔だった。


「……それは」


「グスタフ。わたしはもうあなたの妻ではないし、エーファの母でもない。あなたがそう決めた。でも──あの子の体調が戻るまでは、ここにいさせてください」


声は平坦にした。胸の奥では嵐が吹いているが、この人に感情を見せても何も変わらないことを九年間で学んだ。泣いても怒ってもグスタフは変わらない。だから事実だけを、テーブルの上に物を置くように差し出す。


グスタフは何か言いかけて、口を閉じた。唇が動き、声にならない。以前と違う何かをわたしの中に感じ取っているのかもしれない。恐れと従順さの代わりにある、静けさを。


踵を返し、階段を降りていった。許可とも拒否とも言わなかった。言葉にすると責任が生じるから黙る──ずっとそうだった。


玄関の扉が閉まり、馬車が動き出す。グスタフはエーファの顔を見ることもなく行ってしまった。


その日の昼、エーファが目を覚ました。


「おかあさま」


寝ぼけた声。額に張りついた髪を払い、水を含ませた布で拭いてやる。


「おはよう。気分はどう?」


「……あたまが、すこし、ふわふわする」


「もう少し寝ていなさい。よくなるから」


エーファがわたしの手を握った。小さな指に、少しだけ力が戻っている。飾りを遠ざけた効果が出始めていた。


「ねえ、おかあさま。イルマおかあさまは、どこにいるの?」


その呼び方が胸に刺さった。教えられた言葉をそのまま繰り返しているような、感情のこもっていない響き。


「お忙しいのよ」


九年間、何度繰り返したかわからない言い訳をまた口にした。グスタフが帰ってこない夜に「おとうさまは?」と聞かれるたび、同じ言葉で答えてきた。今度はイルマの代わりに。同じ台詞が、別の人間の不在を埋めている。口の中に苦味が広がった。


エーファは「そう」と小さく言って、目を閉じた。


夕方、陶器の飾りを改めて調べた。底面の小さな蓋を工具で慎重に開けると、内部に親指の先ほどの安価な魔石が嵌め込まれている。


装飾品としての体裁は整っていた。陶器の質も模様の描き込みも、職人の仕事だとわかる。にもかかわらず遮蔽だけが省かれている。外見は丁寧なのに核心部分だけ手を抜いた、この不均衡は偶然ではない。意図して作られた品だ。


誰が作ったのか。なぜエーファの部屋に置いたのか。イルマが「持たせた」とアンナは言った。どちらにせよ──証拠が必要だ。この飾りは持ち帰り、ダリオに鑑定してもらう。


翌日にはエーファの熱がさらに下がった。頬に色が戻り、アンナが作った温かいスープを小さなさじで一口ずつ食べている。さじを口に運ぶたびに「ふうふう」と息を吹きかけるのは、わたしが教えた癖だ。


「おかあさま、うさぎさん持ってきてくれたの?」


「あれはずっとあなたの枕元にあったわよ」


「うん。でもね、おかあさまが縫ってくれたやつだから、おかあさまが来てくれたみたいで嬉しかった」


笑顔が自然に出た。血の繋がりがなくても、積み重ねた時間が繋がりになる。



三日目。エーファの熱が完全に引いた日に、わたしは屋敷を出た。


「おかあさま、またくる?」


門の前で膝をつき、エーファと目線を合わせた。琥珀の瞳がまっすぐにわたしを見ている。唇を噛んで、我慢している。


「すぐには来られないかもしれない。でもね、エーファ。何かあったら、アンナに言いなさい。アンナがわたしに知らせてくれるから」


エーファがこくりとうなずいた。


アンナに向き直る。


「エーファの部屋に、新しいものを置かないで。特にイルマからの贈り物は、どんなに小さなものでもわたしに知らせて」


アンナの目が鋭くなった。


「わかりました。必ず」


馬に乗り、屋敷を後にした。振り返ると門の前にエーファとアンナが立っていて、小さな手が振られていた。


鞄の中には魔力を漏らす陶器の飾り。涙ではなく、この手で掴んだ証拠で戦う。


ヴァイスブルクへの道中、風が冷たかった。でも背筋は伸びている。あの屋敷はもうわたしの居場所ではない。でも──守りたいものは、まだあそこにいる。


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