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夫の愛人の隠し子を九年育てましたが、そろそろ自分のために生きます  作者: 渚月(なづき)
第1章

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第6話 愛人の微笑が待つ廊下

宮廷での初日は、工房の隅の小さな作業台から始まった。

ダリオが準備してくれた道具一式と、仮配属の腕章。白い布に歯車の紋が刺繍されている。


「研修生の腕章です。これをつけていれば、工房エリアと一般廊下は自由に通れます」


先日の少年──名をコンラートという──が丁寧に説明してくれた。十五歳。ダリオの一番弟子だという。そばかすの頬にまだ幼さが残るが、工具を扱う手つきは確かだった。


「ダリオ先生は普段どちらに?」


「先生は王室専用の工房にいらっしゃることが多いです。こちらの一般工房には、わたしと他に三人の技師がいます」


つまり、ダリオとは離れた場所で働くことになる。少し心細いが、それは甘えだ。九年間、頼れる人がいない環境で生きてきたのだから。


わたしは腕章をつけ、最初の仕事に取りかかった。


一か月以内に、宮廷の魔道具をひとつ改良する。まずは宮廷で使われている魔道具を把握しなければならない。


コンラートに案内されて、宮廷内の魔道具倉庫を見て回った。照明用、暖房用、通信用──さまざまな種類がある。天井まで届く棚に、修理待ちの品が積まれていた。埃を被ったものも少なくない。壊れたまま放置されている道具が、こんなにあるのか。


「修理が追いつかないんですか?」


「人手が足りなくて。ダリオ先生がお一人でこなしていた仕事が多いので……」


なるほど。技師の数が絶対的に不足している。


その中でわたしの目を引いたのは、廊下に設置された暖房用の魔道具だった。


「これ、効率が悪くないですか」


コンラートが首を傾げた。


「そうなんですか?」


「熱を出す魔石に対して、放熱の方向が一方向にしか設計されていない。壁側に半分の熱が逃げている」


手をかざすと、たしかに壁に向かって温風が流れている。廊下を歩く人には半分しか届いていない。こんな単純な問題が放置されているのは、誰も気にしていないからだろう。あるいは、気づいても変更する手間を惜しんでいるか。


「改良案を考えてみます」


ノートを取り出し、構造を書き写す。放熱板の角度を変え、反射板を追加すれば、効率は格段に上がるはずだ。


そのとき、廊下の奥から足音が聞こえた。複数の人の気配。華やかな香水の匂いが、鼻先に届いた。


「あら、工房の方?」


声に振り向くと──そこにいた。


イルマ・ハイリゲン。

元は夫の愛人。今は正式な伯爵夫人。


亜麻色の髪を高く結い上げ、深紅のドレスに宝石を光らせている。美しい人だ。それは認めざるを得ない。白い肌に映える紅い唇。完璧に整えられた容姿。その美しさで、グスタフを奪い、エーファを産み、わたしの人生を書き換えた。


「ご機嫌よう。新入りの技師さん?」


イルマはわたしを見た。一瞬──ほんの一瞬、目が細くなった。気づいたのだ。でもすぐに、完璧な微笑を取り戻した。五年前、グスタフが「取引先の夫人」と嘘をついてこの人を屋敷に連れてきた日。あのとき一度だけ、顔を合わせている。


「まあ、よく見ればどこかでお会いしたような」


白々しい。


「ノエル・カペルと申します。王立工房の仮配属です」


わたしは淡々と名乗った。旧姓を使った。ハイリゲンの名はもう、わたしのものではない。


「カペル? ……ああ」


イルマの微笑が深くなった。理解と、優越が入り混じった表情。


「大変ね。伯爵夫人から技師の見習いだなんて」


「仕事があるのはありがたいことです」


わたしは視線をそらさなかった。イルマも視線をそらさない。廊下に、見えない刃がぶつかるような静寂が流れた。


「ねえ、ノエルさん」


イルマが一歩近づいた。香水の匂いが強くなる。甘ったるい、重い香り。


「エーファは元気にしていてよ。あの子ったら、初めて会う母に緊張していたけれど──じきに慣れるでしょう」


初めて会う母。


その言葉が、鉤爪のように胸を引っ掻いた。わたしが九年間育てた子どもに、「初めて会う母」。九年分の夜泣きも、看病も、裁縫も、すべてなかったことになる。


指先が震えた。でもわたしは腕を後ろに組んだ。震えを見せるわけにはいかない。


「そうですか。元気なら何よりです」


平坦な声で答えた。


イルマが微笑んだまま去っていく。取り巻きの令嬢たちがひそひそと囁き合いながら続く。足音が消えるまで、わたしはその場に立っていた。


「……ノエルさん」


コンラートが心配そうに言った。


「大丈夫。何でもないわ」


何でもない。何でもないはずだ。


わたしは工房に戻り、作業台に向かった。暖房魔道具の設計図に、ペンを走らせる。


線を引くたびに、呼吸が落ち着いていく。怒りも悲しみも、手を動かすことで昇華する。九年間で学んだ、たったひとつの技術だ。ペン先が紙の上を滑る音だけが、工房に響いた。


コンラートが遠慮がちに近づいてきた。


「ノエルさん。あの人、いつもああなんですか」


「ああ、とは?」


「あんなに綺麗に笑いながら、あんなにひどいことを言う人」


コンラートの声は怒っていた。十五歳の真っ直ぐな怒り。わたしは少しだけ救われた気がした。


「慣れてるわ。大丈夫」


嘘だ。慣れてなどいない。でも、この子の前で崩れるわけにはいかない。



その夜、ダリオが一般工房に顔を出した。


「イルマ・ハイリゲンに会ったと聞いた」


「コンラートが話しましたか」


「心配していた。あの子は気が優しいからな」


ダリオが作業台の向かいに座った。


「大丈夫ですか──と聞くのは野暮だな。大丈夫じゃなくても作業を続けていたでしょう」


「ええ。おかげで設計が進みました」


わたしはノートを広げた。暖房魔道具の改良案。放熱板の角度修正と反射板の追加に加え、魔石の出力を段階的に調整する制御機構を組み込んだ。


ダリオがノートを覗き込んだ。


「……面白い。出力の段階制御は、わたしも考えていたが実現できなかった部分だ」


「歯車の回転速度で魔石への魔力供給量を変えれば、温度を三段階に切り替えられると思います」


「理論上はそうだ。問題は歯車の耐久性だが──」


「五層目の軸を三度ずらす技法を応用すれば、摩耗を軽減できます」


ダリオが黙った。それから、ゆっくりとうなずいた。


「あの球体の修理で使った技法か」


「はい」


「なるほど。あの修理が偶然ではなかったというわけだ」


ダリオが立ち上がった。


「試作の許可を出します。材料は工房のものを使って構いません」


「ありがとうございます」


ダリオが扉に向かいかけ、足を止めた。


「ノエルさん」


「はい」


「イルマ・ハイリゲンは、宮廷で急速に影響力を広げている。あの人の背後にいるのは夫のグスタフだけじゃない」


「……どういう意味ですか」


「今は言えません。ただ──気をつけてください」


その声には、いつもの飄々とした調子がなかった。真剣だ。ダリオが真剣な声を出すのは、あの歯車の鑑定をしたとき以来だ。


ダリオは去った。


わたしは一人、ノートを見つめた。設計図の線が、魔道具灯のわずかな光に照らされている。


イルマの背後にいる人物。グスタフ以外の誰か。それが誰であれ──わたしがやることは変わらない。技術を磨き、実績を積む。それだけだ。


宮廷の暗がりが、少しだけ深くなった気がした。でも──暗がりの中でこそ、光は見える。


わたしは指先に小さな魔力を灯して、設計図の続きを描き始めた。


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