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夫の愛人の隠し子を九年育てましたが、そろそろ自分のために生きます  作者: 渚月(なづき)
第1章

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第5話 王宮の石畳を踏む日

三日目の昼、わたしは工房の扉を叩いた。

手の中には、三つの魔道具。すべて動いている。


ダリオが扉を開けた。わたしの手元を見て、一瞬だけ息を止めたのがわかった。


「三つとも?」


「三つとも」


ダリオは黙って火起こし器を取り上げ、点火した。小さな炎が安定して灯る。問題ない。羅針盤を回す。針がぴたりと北を指す。やはり問題ない。


最後に、球体。ダリオは球体を開き、中の機構をじっと見つめた。長い沈黙。工房の中で、弟子のコンラートが息を殺しているのがわかった。


「……直しただけではないな。五層目の歯車配列、元の設計と違う」


見抜かれた。


「はい。元の設計だと三層目と五層目の回転が干渉して、長期間使うとまた壊れます。五層目の軸を三度ずらしました」


「改良したのか」


「いいえ。元の設計者の意図を汲んだだけです。たぶん最初はこうしたかったけれど、素材の制約で妥協したんだと思います」


ダリオが球体を閉じた。コンラートが息を呑む音が聞こえた。少年は扉の陰から、固唾を飲んで見守っていたらしい。


「三つとも直した人間は、これまでいなかった。いや──改良まで加えた人間は」


ダリオの声が低くなった。


そして、わたしに向き直った。その目には、旅先で初めて会ったときとは明らかに違う光があった。確信に変わった信頼の色。


「ノエル・カペル。あなたを研修生として受け入れます──と言いたいところだが」


「だが?」


「正直に言う。研修生では、あなたの腕がもったいない。だが正式な技師にするには、宮廷への推薦が必要だ」


「宮廷」


「王立工房は宮廷直轄だ。技師は全員、宮廷の認可を受けている。わたしの推薦状だけでは不十分で、もう一人──宮廷内の有力者の推薦がいる」


ダリオが前掛けを外した。


「今から宮廷に行く。ついてきてください」


王宮は、工房から歩いて半刻の距離にあった。白い石壁。高い尖塔。旗がたなびいている。城壁が近づくにつれ、道を行き交う人々の装いが変わっていく。商人や職人から、仕立てのいい服を着た貴族や官吏へ。すれ違うたびに、自分の質素な身なりが目に刺さった。


わたしは石畳の上に立ち、足がすくんだ。胸が締めつけられる。こんな場所に、わたしが入っていいのだろうか。旅の汚れが残った靴で、この石畳を踏んでいいのか。周囲を行き交う人々は、みな仕立てのいい服を着て、背筋をまっすぐに伸ばしている。わたしだけが場違いだった。


「入れるのですか、わたしのような者が」


「工房の主任技師の同行者なら、通行証は不要だ」


衛兵に挨拶をして、正門をくぐる。広い中庭。噴水。手入れの行き届いた植え込み。足元の石畳は磨かれていて、自分の靴の汚れが目についた。水を受ける白い噴水の音が、規則的に響いている。どこか、時計の秒針に似ていた。


ここが、権力の中心。グスタフもイルマも、ここに出入りしているはずだ。


足が止まりそうになる。でも、止まらなかった。隣をダリオが歩いている。その歩幅が乱れないから、わたしも歩ける。不思議なものだ。一人では動けない足が、隣に人がいるだけで前に出る。あの屋敷にいた九年間、隣を歩いてくれる人は誰もいなかった。


長い廊下を進み、ある一室の前で立ち止まった。ダリオが扉を叩く。


「どうぞ」


中にいたのは、白髪の女性だった。六十代か。端正な顔立ちに、深い皺が刻まれている。目には知性と、穏やかさと──ほんのわずかな疲労があった。


「リュシエンヌ様。お時間をいただきありがとうございます」


ダリオが一礼した。わたしも慌てて倣う。


「ダリオ。また拾い物かしら」


「はい。今回は大物です」


リュシエンヌと呼ばれた女性がわたしを見た。観察する目だった。ダリオとは違う──もっと深く、もっと冷静に。人を測る目。宮廷で長年生きてきた人間の目だ。


「名前は」


「ノエル・カペルです」


「カペル? 子爵家の?」


「はい。ですが今は──」


「ハイリゲン伯爵家に嫁いでいた方ね。離縁の話は聞いている」


驚いた。どこまで知っているのだろう。


「リュシエンヌ様は宮廷の記録を管理されている方です」


ダリオが補足した。記録の管理。それは単なる事務仕事ではない。誰が何をしたか、誰と誰がつながっているか──すべてを把握しているということだ。


「記録だけではなくてよ。人も、管理しているの」


リュシエンヌが微笑んだ。柔らかい笑みだが、眼差しの鋭さは変わらない。


「ノエルさん。あなたが魔道具を直せることは、ダリオから聞いています。ですが、宮廷で働くということは、技術だけでは足りません」


「はい」


「ここには──敵もいます。特にあなたの場合、ハイリゲン伯爵の元妻という立場は、面倒な注目を集めるでしょう」


その通りだ。逃げてきたつもりが、同じ場所に辿り着いた。


「それでも、ここで働きたいですか?」


リュシエンヌの問いは、穏やかだが容赦がない。


わたしは自分の手を見た。すすと魔力の痕で、少し荒れている。九年間、何もできなかった手。三日前から、ようやく動き始めた手。


「はい。働きたいです」


自分の声が、思ったよりまっすぐ出たことに驚いた。


リュシエンヌが書類を一枚取り出した。


「仮配属の許可を出しましょう。正式な認可は、一か月の試用期間の後に判断します」


ダリオが小さく息を吐いた。安堵の音。わたしの肩からも、知らず知らずのうちに入っていた力が抜けた。


「ただし条件があります。一か月以内に、宮廷の魔道具をひとつ改良すること。改良した道具が実用に値すると認められれば、正式な技師として登録します。ただ直すだけでは駄目よ。今あるものを、より良くすること」


「わかりました」


「もうひとつ。宮廷内での問題は、すべてわたしを通してください。勝手な行動は──あなた自身を守るためにも、控えてちょうだい」


その言葉の裏に、何か意味がある。具体的な脅威を知っている口ぶりだ。でも今は深追いしない。まずは一か月、ここで結果を出す。それだけに集中する。


「はい」


部屋を出た廊下で、ダリオが言った。


「リュシエンヌ様はこの宮廷で最も信頼できる方の一人です。敵も多いが、敵にすると一番恐ろしい人でもある」


「味方でいてくださるのですか」


「味方というか──リュシエンヌ様は常に中立です。でも、才能には手を差し伸べる方だ」


廊下の向こうから、華やかな笑い声が聞こえた。女性の声。甲高く、よく響く笑い方。


「あの声は?」


ダリオが一瞬だけ眉を寄せた。


「新任のハイリゲン伯爵夫人だ。最近、宮廷の社交に出入りしている」


──イルマ。


わたしの足が止まった。心臓が跳ねる。呼吸を整える。拳を握りしめた手を、意識して開いた。


ダリオがわたしの横に立った。何も言わない。ただ、歩幅を落として待っている。


「……大丈夫です。行きましょう」


わたしは歩き出した。足は震えていたが、止まらなかった。さっき覚えたばかりだ──ひとりじゃないと、足は動くのだと。


でも脳裏にはリュシエンヌの言葉が残っている。──ここには、敵もいます。


その敵の笑い声は、廊下の先で絶えなかった。


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