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夫の愛人の隠し子を九年育てましたが、そろそろ自分のために生きます  作者: 渚月(なづき)
第1章

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第4話 名もなき技師の扉

ヴァイスブルクまでの道のりは、乗合馬車で三日だった。

窓から見える景色が変わるたびに、わたしは小さく息を呑んだ。


丘陵地帯の枯野が続き、やがて凍った川に架かる石橋を渡る。小さな教会の尖塔が遠くに見え、通り過ぎる村々では煙突から白い煙が上がっていた。こんなに広い世界があったのに、わたしは九年間、あの屋敷の中だけで生きていた。窓枠の中の風景しか知らなかった。


隣の席の老婦人が、わたしの手元を見て言った。


「若いお嬢さんが一人旅? 物騒ねえ」


「大丈夫です。行く当てはありますから」


半分は嘘だ。行く当ては、名前ひとつ。ダリオ。旅の修理屋を名乗った男。荷物は小さな革鞄ひとつだけ。着替えと、わずかな路銀と、あの歯車。それがわたしの全財産だった。


馬車の揺れに身を任せながら、考える。歯車を三つ直した。それだけだ。魔力があることはわかった。でも、それが職業になるかどうかは別の話だ。期待しすぎてはいけない。でも──期待しなければ、ここにいる意味がない。


二日目の宿場町で、宿代を払おうとして財布の中身に青ざめた。あと一泊分しかない。ヴァイスブルクに着いたら、すぐに仕事を見つけなければ路頭に迷う。


三日目の夕暮れに、ヴァイスブルクに着いた。


城壁に囲まれた王都は、想像していたよりずっと大きい。石畳の道を人々が行き交い、魔道具の灯りが通りを照らしている。あちこちに商店が並び、威勢のいい声が飛び交っていた。人の密度が、あの屋敷とは比べものにならない。すれ違う人の肩がぶつかりそうになるたびに、体が強張った。誰もわたしのことなど見ていないのに、視線が刺さるような気がする。九年間の閉塞が、知らないうちにわたしを臆病にしていた。


わたしは通りがかりの果物売りに道を尋ねた。


「王立工房はどちらですか?」


「あの塔だよ、城の東側の。煙突が目印だ」


指差された方向に、煙突のある高い建物が見えた。夕暮れの空を背景に、まっすぐ立つ煙突。白い煙が上がっている。なぜだか目が離せなかった。


工房の門は質素だった。看板もない。重い木の扉が一つあるだけ。取っ手は真鍮で、何年も使い込まれた光沢がある。


ノッカーを鳴らす。三回。手が震えた。


扉を開けたのは、そばかす顔の少年だった。十代半ば。作業着にすすがついている。丸い目でわたしを見上げた。


「何か御用ですか」


「ダリオという方に会いたいのですが」


少年の目がさらに丸くなった。


「ダリオ先生に? ……えっと、あなたは?」


「ノエル・カペルです。先日、わたしの修理を見ていただいて……」


少年は奥に引っ込んだ。ぱたぱたと走る足音。しばらくして戻ってくると、扉を大きく開いた。


「どうぞ。先生がお待ちです」


通された先は、広い作業場だった。天井が高い。壁一面に工具が整然と並び、作業台の上には大小さまざまな歯車、管、水晶の欠片が散らばっている。空気に油と金属の匂いが混じっている。不思議と不快ではなかった。むしろ──落ち着く。あの屋敷の重苦しい空気とは、まるで違う匂いだった。


奥のテーブルに、ダリオが座っていた。旅のときと同じ鋭い目。でも外套ではなく、革の前掛けをしている。テーブルには工具と設計図が広がっていた。


「来ましたね」


「……来ました」


「早かったな。三日か」


「三日です」


迷う余裕もなかったとは言わなかった。ダリオは立ち上がった。


「紹介が遅れましたが、わたしは王立魔道具工房の主任技師です」


……主任技師。あの旅の修理屋は、工房のトップだったのか。辺境の屋敷を一軒一軒回っていた男が。


「なぜあんな旅を?」


「才能のある人間は、辺境に埋もれていることが多い。年に一度、自分の目で探すんです。工房に座って待っていても、来るのは貴族の紹介状を持った凡庸な技師の卵ばかりだ」


「わたしを探しに来たわけではないでしょう」


「完全な偶然です。でも偶然を拾うために旅に出ている」


旅の途中で出会った才能を、拾って帰る。そのために毎年、この人は辺境を歩いている。地位のある人間が、泥にまみれた道を。

わたしは少しだけ、この人のことが分かった気がした。


ダリオが棚から小さな箱を取り出した。蓋を開けると、中には三つの壊れた魔道具が入っている。


「テストです。この三つを直してください。期限は三日。直せた数で処遇が決まる」


「処遇?」


「一つなら見習い。二つなら正式な研修生。三つなら──まあ、三つ直す人間はまだいませんが」


ダリオが少しだけ口の端を上げた。挑発だとわかった。でも──胸の奥が熱くなった。


「やらせてください」


わたしは箱を受け取った。


小さな宿を見つけ、部屋に入る。狭いが清潔な部屋だった。ベッドと机と椅子だけ。窓から夕日が差し込んでいる。宿代を払ったら、残りの所持金は数枚の銅貨だけになった。三日以内に結果を出さなければ──その先のことは、考えないことにした。


ベッドの上に三つの魔道具を並べた。


一つ目は小さな火起こし器。構造は単純だ。内部の魔石が熱を生み、それを制御する歯車機構の歯が一つ欠けていた。欠けた部分に魔力を流し、形を整える。三十分で直った。


二つ目は方位を示す羅針盤。方位を感知する水晶に不純物が混入している。魔力で不純物だけを分離する。繊細な作業だった。指先が汗ばむ。水晶が澄むのを見届けたとき、ほっと息が漏れた。


三つ目の球体を手に取る。表面に細かな紋様が刻まれているが、魔力を流しても反応がない。何に使う道具なのかもわからない。


紋様を丹念に観察した。どこかあの時計の歯車配列に似ている。紋様の一箇所だけ、模様の流れが途切れていた。そこに魔力を注ぐ。


かちり。球体が二つに割れた。


内部には見たこともない複雑な機構が広がっていた。歯車が五層に重なり、それぞれが別々の軸で回る構造。何かの計算装置だと直感した。壊れている箇所は──数えきれない。全体の調整が狂っている。


わたしは深呼吸をして、机に向かった。


明け方まで球体と向き合った。壊れた箇所を一つずつ特定し、修復の順序を組み立てる。指先が震える。魔力の消耗。でも頭は冴えている。


五層目の歯車を直しているとき、気づいた。元の設計では三層目と五層目の回転が微妙に干渉している。このまま直しても、長期間使えばまた壊れる。

五層目の軸を三度だけずらせば──干渉を避けつつ、全体の精度は維持できる。設計者の意図を汲む。たぶん最初はこうしたかったけれど、素材の制約で妥協したのだろう。


わたしは軸をずらして接合した。


かちり。五層すべての歯車が連動して、滑らかに回り始めた。元の設計よりも静かな動作音。これでいい。直しただけではなく、良くした。


九年間、わたしには何もなかった。でも今、手の中に──直すべきものがある。それだけで、呼吸が楽になる。


二日目の夜が更ける頃、球体の修復は七割まで進んでいた。窓の外では、王都の魔道具灯がひとつ、またひとつと消えていく。


三日目の期限まで、あと一日──わたしの手が止まることは、なかった。


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