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夫の愛人の隠し子を九年育てましたが、そろそろ自分のために生きます  作者: 渚月(なづき)
第1章

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第3話 指先に灯る光

明け方に目が覚めた。

枕元に置いた歯車は、まだかすかに銀色の光を帯びている。夢ではなかった。


身支度を整え、階下に降りる。使用人のヨハンと、料理番のアンナはすでに動いていた。

この屋敷の使用人はこの二人だけだ。伯爵家にしては少ない──いや、名ばかりの伯爵家には十分すぎるほどだった。グスタフが生活費を削り続けた結果、他の使用人はみな暇を出された。残ったのは、行き場のないこの二人だけ。


「奥様、お早うございます。今朝はずいぶん早いですね」


アンナが湯気の立つ杯を差し出してくれる。丸い顔に、いつもの穏やかな笑み。アンナはわたしがこの屋敷に来た初日から、毎朝こうして温かい飲み物を用意してくれた。九年間、一日も欠かさず。


「少し、考えることがあって」


「……離縁のことですか」


アンナの声が低くなった。ヨハンもこちらを見る。二人は知っている。この屋敷の事情を、最初からずっと。エーファが誰の子であるかも、グスタフが何をしてきたかも。


「ええ。でも、暗い話じゃないの」


わたしは笑った。自分でも驚くほど、自然な笑みだった。口の端が上がるのに、力がいらない。


「あの旅の修理屋さんに、仕事を紹介してもらえるかもしれない」


アンナとヨハンが顔を見合わせた。


「奥様が……お仕事を?」


「伯爵夫人でなくなるのだから、働かないと食べていけないわ」


冗談めかしていたが、事実だった。慰謝料が出るとグスタフは言ったが、あの人の言う「十分」は、わたしにとっての「十分」とは違うだろう。そもそも書面もない口約束だ。守られる保証はどこにもない。


ヨハンが咳払いをした。


「奥様。差し出がましいのですが……もし王都に行かれるなら、ご実家のお兄様に一報されてはいかがでしょう」


「兄に?」


「何かあったとき、頼れる方がいた方がよろしいかと」


ヨハンの言葉は丁寧だったが、目に不安が見える。わたしは頷いた。この老使用人は、わたしのことを案じてくれている──と、そのときは思った。


午後、エーファと庭に出た。雪が消えたばかりの地面は柔らかく、エーファは小さな靴で泥をはねながら歩いている。水たまりを見つけるたびに、わざと踏んで笑う。スカートの裾が泥だらけになっていた。


「おかあさま、春になったらお花が咲く?」


「咲くわよ。たぶんね」


たぶん、わたしはその花を見ないけれど。


エーファがわたしの手を引いた。小さな指は温かい。九年間、この手を握ってきた。最初は義務だった。眠れない夜、泣きやまないこの子をあやしながら、なぜわたしがと唇を噛んだ。

でも──いつからか、この手が離れるのが怖くなった。


「ねえ、エーファ」


「なあに?」


言いかけて、やめた。まだ何も決まっていない。この子に余計な不安を与えたくない。


「なんでもないわ。お花、たくさん咲くといいね」


エーファがにっこり笑う。その笑顔を、目に焼きつけた。



翌日。ダリオが去ると言っていた日だった。


夜明け前に起きた。荷造りはしていない。ただ歯車を懐に入れて、門の前に出た。息が白い。まだ冬の名残だ。東の空がうっすらと白んでいる。


門の向こうの街道に、ダリオが立っていた。旅支度の黒い外套。背に革の鞄を負っている。こちらを見ていた。待っていたのだ。


「おはようございます」


ダリオが歩み寄ってきた。わたしは歯車を差し出した。


「直りました」


ダリオは歯車を受け取り、指の上で回した。銀光がさっと走る。ダリオの表情が変わった。眉が上がり、口元が引き締まる。


「三箇所すべて直してある。しかもこの接合──金属疲労のひび割れを魔力で橋渡しする技法は、工房でも上級の技師しかやらない」


「たまたまです」


「たまたまでここまで綺麗にはできません」


ダリオが歯車をポケットにしまった。それから、まっすぐにわたしの目を見た。


「決めましたか」


「……まだ迷っています。エーファが……あの子のことが気がかりで。わたしがいなくなったら、あの子はどうなるのか」


ダリオは何も言わなかった。ただ待っていた。街道を吹く風が、外套の裾を揺らしている。


「でも──もう、あの子の母ではいられない。グスタフがそう決めた。わたしの意志とは関係なく」


声は震えなかった。事実を言っただけだから。


「なら、あなた自身のことを決めてください。今日でなくてもいい。ヴァイスブルクの王立工房にわたしの名前を出せば、話は通ります」


それだけ言って、ダリオは街道を歩き出した。黒い外套が、冬枯れの風景に溶けていく。振り返らなかった。


わたしは門の前に立ったまま、その背中を見送った。冷たい空気が肺を満たす。


屋敷に戻ると、ヨハンが青ざめた顔で待っていた。


「奥様。今しがた、グスタフ様のお屋敷から使いが参りました」


「何か?」


「エーファお嬢様を本日中にお引き渡しいただきたいと。予定を早めるそうです」


──本日中。


一週間と言ったのに。約束を平然と破る。それがグスタフだ。都合が変われば、こちらの事情など顧みない。いつだってそうだった。結婚式の日取りも、屋敷の生活費も、エーファの養育の取り決めも──すべてあの人の都合で決まり、あの人の都合で変わった。


わたしは拳を握った。爪が掌に食い込む。痛い。でもその痛みが、感情の波を留めてくれた。


エーファの部屋の扉を開ける。エーファはベッドの上で、わたしが縫ったうさぎのぬいぐるみを抱いていた。三歳のときに作った。片方の耳が長すぎるのだが、エーファはそれがいいと言って、ずっと手放さなかった。


「おかあさま、どうしたの? 顔が怖い」


「──怖い顔してた? ごめんなさい」


わたしはエーファの隣に座った。ベッドがきしむ。


「エーファ。今日ね、おとうさまのお屋敷に行くことになったの」


「おかあさまも一緒?」


「……ううん。エーファだけよ」


エーファの顔が曇った。大きな琥珀の瞳に、不安が浮かぶ。唇がわずかに震えている。


「いやだ。おかあさまと一緒がいい」


その言葉が、胸を突き刺す。わたしは黙ってエーファを抱きしめた。小さな体は温かかった。この温もりを手放さなければならない。


昼過ぎに馬車が来た。グスタフの屋敷から遣わされた御者と侍女。エーファは泣きながら馬車に乗せられた。わたしは門の前に立って手を振った。笑顔で。それだけが最後にできることだった。


馬車が見えなくなるまで、手を下ろさなかった。


見えなくなった瞬間、膝が折れた。冷たい地面に手をつく。指の間に泥が入り込む。


涙は──出なかった。代わりに、腹の底から怒りが湧いた。


「……もういい」


わたしは立ち上がった。泥のついた手を、スカートで拭った。


「ヨハン。ヴァイスブルクまでの街道を教えて」


ヨハンが息を呑んだ。


「──奥様、まさか」


「伯爵夫人はもう終わり。これからは、ノエル・カペルとして生きます」


アンナが泣き笑いの顔でうなずいた。


「行ってらっしゃいませ、ノエルさま」


その言葉を胸に、わたしは旅支度を始めた。懐には、銀色に光る歯車がひとつ。


門を出たとき、背後で小さな音がした。振り向くと、屋敷の壁にかけてあった古い振り子時計が──九年間止まっていたそれが、ゆっくりと振り子を揺らし始めていた。


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