第2話 白紙の未来と壊れた歯車
門の前に立っていたのは、黒い外套の男だった。
使用人のヨハンが応対しているのが窓から見える。何やら身振り手振りを交えて話している。
わたしは階段を降りた。離縁まであと六日。この屋敷の女主人として対応するのも、これが最後に近い。スカートの裾を捌きながら、背筋を正す。
「奥様、旅の方がお見えです」
ヨハンがこちらを向いた。白髪混じりの髪を撫でつけた、もう六十に近い使用人。この屋敷に来たときからずっと、わたしの味方でいてくれた──と、少なくとも思っていた。
「道具の修理を生業にしている方だそうで、近隣の屋敷を回っているとか」
玄関先に出る。男は三十代半ばに見えた。日に焼けた肌、やや長めの黒髪を後ろで無造作に束ねている。目つきは鋭いが、どこか飄々とした空気をまとっていた。外套は黒く、あちこちにすすや油の染みがある。職人の装いだ。
「失礼。壊れた道具の修理を承っております。魔道具も対応できますが、何かお困りのものは」
声は落ち着いている。抑揚が少なく、余計なことを言わない話し方。身なりは質素だが、背筋がまっすぐだ。
ただの職人ではない──そんな直感があった。根拠はない。九年間、限られた人間だけと暮らしてきたわたしに人を見る目があるとも思えないが、背筋の伸ばし方が違う。重心が安定している。自分の技術に自信がある人間の立ち方だと感じた。
「……あいにく、修理を頼むような余裕はないのです」
正直に答えた。離縁後の生活費を考えれば、一銭でも惜しい。グスタフの言う「慰謝料」がいくらなのか、額すら聞かされていない。
「では、こちらはいかがですか。壊れた魔道具があれば、無料で診断だけでもいたします。腕試しと思っていただければ」
不思議な申し出だった。わざわざ辺境の屋敷を訪ねてくる修理屋が、腕試しをする必要があるだろうか。
わたしは少し迷って、昨夜直した置き時計を思い出した。
「ひとつ、お聞きしたいことがあります」
「なんでしょう」
「壊れた時計を……素人が直すことは、可能ですか?」
男の目がわずかに細くなった。観察されている。そう感じた。視線がわたしの指先に一瞬だけ向けられた。
「ものによります。ただし、魔道具の時計を魔力なしに直すのは不可能です」
「……魔力がある者なら?」
「修理に魔力を使ったなら、それは立派な魔道具技師の素養ですよ」
軽い口調だった。世間話のように。でも目は笑っていない。真剣だ。
「見せていただけますか。その時計を」
わたしは迷った。母の言葉がよぎる。──その力は見せてはいけません。
二十六年間守ってきた約束。でも──もう隠して何になるのだろう。母はもういない。父も、いない。守るべき約束の相手が、もうどこにもいない。
わたしはうなずいて、時計を取りに戻った。
居間のテーブルに時計を置く。男はじっとそれを見つめた。裏蓋を開け、中の歯車に指を近づける。指先から淡い光が漏れた。──この人も魔力を持っている。
「……驚きました」
男が顔を上げた。表情はほとんど変わらないが、目の奥に光るものがあった。
「この修理、魔力の流し方が正確です。力任せではなく、歯車の噛み合わせに沿って最小限の魔力で接合している。しかも痕跡が綺麗だ。荒っぽさがまるでない。独学ですか?」
「独学というか……昨夜初めて触っただけです」
沈黙があった。暖炉の薪がはぜる音だけが響いた。
男はゆっくりと時計の裏蓋を閉じ、テーブルに戻した。
「申し遅れました。わたしはダリオと申します。肩書は──まあ、今は旅の修理屋ということで」
曖昧な自己紹介だった。でも嘘をついている空気ではない。隠しているだけだ。全部は言わない、という選択。それくらいは、九年も嘘の中で暮らしていればわかる。嘘と沈黙は似ているようで違う。
「ノエルです。この屋敷の……いえ、もうすぐ元伯爵夫人になる者です」
なぜそんなことまで言ったのか、自分でもわからない。
ダリオは特に驚いた顔をしなかった。ただ、聞いていた。
「ノエルさん。ひとつ提案があります」
「はい」
「わたしは明後日、ヴァイスブルクに戻ります。王都の魔道具工房に知り合いがいる。あなたの腕を見せれば、仕事が見つかるかもしれません」
王都。ヴァイスブルク。名前は聞いたことがある。遠い場所だと思っていた。この屋敷からは乗合馬車で三日。わたしにとっては、地図の上の文字でしかなかった場所だ。
「なぜ、見ず知らずのわたしにそんな」
「才能を放置するのが嫌いなだけです」
即答だった。迷いがない。この人は見つけたものを見つけたままにしておけない──そういう性分なのだろう。
ダリオは外套の内ポケットから小さな歯車を取り出した。銀色に光る、精巧な細工の部品。手のひらに乗る大きさだが、五つの歯が複雑に噛み合う構造をしている。
「これは壊れた魔道具の核です。もし直せたら、明後日の朝までに門の前に来てください。直せなければ、縁がなかったということで」
テーブルの上に、歯車が置かれた。ダリオは一礼して去っていった。
◇
夜、エーファが眠った後。わたしはテーブルに向かい、歯車と向き合った。
壊れている箇所は三つある。
一つ目は歯車の軸のずれ。これは昨夜の時計と同じ要領で直せた。魔力を細く流し、軸をそっと本来の位置に戻す。指先が温かくなる感覚がある。
二つ目は魔力の流れる溝に詰まった異物。細い針で丁寧に取り除いた。集中すると周囲の音が消え、歯車と自分だけの世界になる。心地よかった。孤独とは違う。没頭する静けさだ。
問題は三つ目だ。歯車の裏側、肉眼では見えない場所に、ひび割れがある。金属疲労だ。長年使い込まれた痕跡。
直すには、ひび割れを魔力で接合するしかない。でもわたしの魔力は微弱だ。力任せにやれば、歯車ごと砕ける。
深呼吸をした。肩の力を抜く。ゆっくりと、髪の毛一本分の太さで魔力を流し込む。
指先が震える。額に汗がにじむ。ひびの端と端を、橋をかけるように──慎重に、慎重に。
どれだけの時間が経ったかわからない。寝室の壁掛けの時計が深夜を知らせる音を鳴らしたが、わたしは気づかなかった。歯車の中に、意識のすべてを注いでいたから。
かちり。手応えがあった。
歯車を持ち上げると、淡い銀光が全体を走った。五つの歯が、滑らかに噛み合い始める。
直った。
わたしは息を吐いた。指先がじんじんと痺れている。背中が汗で冷たい。
でも──嬉しかった。
誰かに命じられたのではない。誰かの母として、妻としてではない。わたし自身の手で、わたし自身の力で、ひとつのものを直した。
それがどれほどの救いになるか──たぶん、今のわたしにしかわからない。
歯車をテーブルに置いて、窓を開けた。冷たい夜風が頬に触れる。雪はほとんど消えていた。
離縁まであと五日。でも不思議なことに、恐怖は薄れていた。代わりに、胸の奥で何かが回り始めている。時計の秒針のように。
明後日。わたしは門の前に立つだろうか。
答えはもう、手のひらの中にあった──直った歯車が、静かに銀色の光を放っている。




