第1話 九年目の冬が終わる
あの人に「母になれ」と言われた日から、九年が経った。
わたしはまだ、自分の名前で生きたことがない。
窓の外では雪が融けかけている。
北向きの居間には日差しが届かず、暖炉の薪だけがぱちぱちと音を立てていた。わたしは針仕事の手を動かしながら、その音を聞いている。
もっとも、ここに来た頃のような必死さはもうない。
九年前は、針が指に刺さるたびに涙がにじんだ。慣れない手つきでエーファの産着を縫いながら、なぜわたしがこんなことをしているのだろうと思った。何度も指を刺し、白い布に赤い点がにじんで、それを見て余計に泣いた。
今は手が勝手に動く。心はどこか遠くに置き忘れたままだ。
「おかあさま」
エーファが入ってきた。九歳。
栗色の巻き毛に、琥珀の瞳。わたしには似ていない──当然だ。この子はわたしの娘ではない。
夫グスタフの愛人の子。
それをわたしの子として届け出ろ、と命じられたのが九年前のことだ。逆らえば実家の子爵家は取り潰す、と。父は青ざめ、母は泣いた。わたしだけが泣けなかった。涙を流す余裕すらなかったのだ。
「ドレスのボタンが取れちゃった」
エーファは小さなドレスを胸に抱えて、わたしの前に立った。裾を引きずっている。最近また背が伸びたのだ。半年前に縫い直したばかりなのに、もう丈が足りない。
「見せてごらん」
わたしはドレスを受け取り、ボタンを縫い直す。
小さな指が、わたしの手元をじっと見ていた。真剣な顔で、針の動きを追っている。この子はいつもそうだ。わたしの手仕事を、飽きずに眺めている。
「おかあさまは、お裁縫じょうずだね」
「ありがとう」
そう答えながら、胸の奥がきしむ。
この子を憎んだことは一度もない。罪はないのだから。エーファがわたしに向ける瞳には、純粋な信頼がある。母だと信じている。疑いもなく。それがときどき、刃物のように痛い。
ただ──この役割を、いつまで続けるのだろうと思うだけだ。
縫い終えたドレスを返すと、エーファはにっこり笑って部屋を出ていった。
廊下を走る小さな足音が遠ざかる。わたしは窓の外の雪を見つめた。融けかけの雪は汚い。白くもなく、透明でもなく、ただぐずぐずと形を失っていく。わたしの九年間のようだと思った。
午後、屋敷に馬車の音がした。
月に一度あるかないかの訪問。夫が来る合図だった。
使用人のヨハンが慌ただしく玄関に向かうのが聞こえる。わたしは針を箱にしまい、髪を手で整え、背筋を伸ばして居間で待った。出迎えはしない。かつてはしていたが、三年前にやめた。出迎えてもグスタフはわたしの顔を見なかったから。
グスタフは居間に入ると、外套も脱がずに口を開いた。
頬が赤い。外の寒さのせいか、それとも何か別の高揚か。目はわたしの頭上あたりを見ている。わたしではなく、わたしの後ろの壁を。
「話がある。座れ」
わたしはすでに座っている。でもそれを指摘する気にはならなかった。この人は、わたしの居場所を見ていない。九年前からずっとそうだ。
「離縁する」
一拍、間があった。
暖炉の薪が崩れる音。ぱちん、と小さな火の粉が散った。
予想していなかったと言えば嘘になる。
ここ数年、グスタフの足はますます遠のいていた。屋敷に来ても用件だけを告げて帰る。わたしを見もしない。食事を共にしたのはいつが最後だっただろう。二年前の冬至の晩餐。それきりだ。
でも、こんなにあっさり言うのだと──不思議な冷たさが胸を満たした。悲しみでも怒りでもない。ただ、冷たい。凍った湖の底に沈むような。
「エーファはイルマの元に引き取る。正式に認知する手続きに入った」
イルマ。愛人の名前。
九年間、わたしはその名前を声に出したことがない。聞くたびに喉が詰まるので、意識の外に追いやっていた。
「……わたしには」
「慰謝料は出す。実家には迷惑をかけない。それで十分だろう」
十分。
九年の人生を「十分」のひと言で片づける。三千日以上の時間を、たった一語で。他人の子を育て、名前を偽り、母を演じた日々を。
わたしの指先が震えた。膝の上で拳を握る。爪が掌に食い込むのがわかった。
でも声は出さなかった。出さない訓練を、九年かけてしてきたから。
グスタフはわたしの顔を見なかった。一度も。
返事を待たず、踵を返す。足音が廊下に消え、玄関の扉が開き、馬車が動き出す音。
それだけだった。九年の結婚が、五分で終わった。
夕食の後、エーファがわたしの部屋に来た。
「おかあさま、おとうさまが来てたの?」
「ええ。少しだけ」
「わたしには会わなかったの?」
会わなかった。この子にも、用がなかったのだ。今日の用事は、わたしを切り捨てることだけ。
「おとうさまはお忙しいのよ」
九年間、何度この言い訳を口にしただろう。もう数えてもいない。
エーファはこくりとうなずいて、自分の部屋に戻っていった。疑わない。わたしの言葉を、いつも信じる。
その小さな背中を見送りながら、わたしは初めて思った。
──これで、終わるのか。
夜、ひとりきりの寝室で、天井を見上げる。
涙は出なかった。九年前はあんなに泣いたのに。枕が乾く暇もないほどに。もう涙も枯れたのか、あるいは──悲しみの形が変わったのか。
わたしの名前はノエル。ノエル・ハイリゲン。旧姓はカペル。子爵家の末娘。
家を守るために、伯爵家へ嫁いだ。十七歳の春だった。
父は三年前に亡くなった。兄は領地でなんとかやっていると風の噂で聞くだけだ。わたしが犠牲になった意味があったのか。その答えは、きっと出ない。
離縁の書類は一週間後に届くと、グスタフは言っていた。一週間。あと一週間だけ「伯爵夫人」という名がある。それが消えたとき、わたしには何が残るのだろう。
ベッドの脇に、壊れた小さな置き時計がある。半年前にテーブルから落として以来、針が動かなくなった。修理を頼む余裕もなくそのままにしていた。
なんとなく手に取る。裏蓋を外すと、細かな歯車が見えた。精巧な作り。魔力で動く仕掛け時計だ。
──ここが、ずれている。
理由はわからないけれど、そう思った。小さな歯車がひとつ、軸からわずかに外れている。ほんの髪の毛一本分のずれ。でもわたしの指先は、そのずれを正確に感じ取っていた。
爪の先でそっと部品を押す。
かちり、と何かが噛み合う感触。
こつ、こつ、こつ。
時計が動き出した。
わたしは目を見張った。指先がうっすらと光っている。淡い、銀色の光。薄暗い寝室に、小さな星が灯ったようだった。
──魔力?
幼い頃、母に止められた記憶がよみがえる。「その力は見せてはいけません。女の子が持つものではないの」
母の声は優しかったけれど、有無を言わさぬ強さがあった。理由は教えてもらえなかった。ただ、怖い顔をしていたことだけ覚えている。
だからずっと隠してきた。忘れたふりをしていた。でも今、指先はたしかに光っている。
こつ、こつ、こつ。止まっていた時計が、正確に時を刻む。部屋の静寂に、小さなリズムが生まれた。
わたしは時計を胸に抱いた。動き出した秒針のように、何かが心の奥で回り始める。
──そうだ。もう、誰のためでもなく生きていい。
九年分の涙は枯れた。けれど、指先にはまだ、光がある。その光が何の役に立つのかは、まだわからない。でも。
翌朝、わたしは初めて自分の荷物を整理し始めた──そのとき、屋敷の門を叩く見知らぬ男の姿が、窓の向こうに見えた。
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