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夫の愛人の隠し子を九年育てましたが、そろそろ自分のために生きます  作者: 渚月(なづき)
第4章

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第40話 鎖を断つ者たち

エーファの養育権が確定した翌日、アルヴィン侯爵が工房を訪ねてきた。


侯爵がこちらから来るのは初めてだった。いつもは技術委員会の廊下か、王妃様の私室で会っていた。工房に足を運ぶということは──よほどの用件だ。大柄な体を揺らしながら、工房の入り口で足を止めた。鷹のような目が、作業台の上の歯車や工具を見回している。


「狭いな。──だが、いい工房だ。シャルロッテの頃より、温かい空気がある」


シャルロッテ先生を知っているのだ。この人もまた、宮廷の技術の歴史を見てきた一人だ。


「侯爵。どうされたのですか」


「渡すものがある」


侯爵が懐から一冊の小さな手帳を取り出した。革表紙で、使い込まれた痕跡がある。角が丸くなり、表紙に染みがついている。


「リュシエンヌが──亡くなる前の月に、わたしに託したものだ。『いつか必要になる人に渡してください』と」


手帳を受け取った。革の手触りが温かい。何度も手に持たれてきた痕跡だ。リュシエンヌ様が毎日触れていたものかもしれない。革のすり減り方が均一で、左手で持つ癖のある人の持ち方だとわかった。


リュシエンヌ様は左利きだった。


そんな些細なことまで、この手帳は教えてくれる。開くと──リュシエンヌ様の筆跡。技術と記録と公正さについての覚書。宮廷で技術を守るために必要なこと。


記録の残し方、証拠の整理法、人の観察の仕方。三十年の知恵が、この小さな手帳に凝縮されている。


ページの端が折られた箇所がある。リュシエンヌ様が特に重要だと考えた部分だろう。そこには──「公正さは制度で守れ。人の善意に頼るな」と書かれていた。


目頭が熱くなった。あの方の声が聞こえるようだった。穏やかで、でも芯のある声。記録室で初めて会ったときの声。──記録を守りなさい。嘘は必ず、どこかに痕跡を残す。あの言葉が、今もわたしの中で響いている。


リュシエンヌ様。あなたは──最初から、この手帳がわたしに届くことを見越していたのですか。


「侯爵。──なぜ今、これを」


「明日、お前が陛下の前に立つだろう。王太子の件で」


「──はい」


「これを持っていけ。リュシエンヌの記録が、最初から最後まで、お前を導いてきた。最後の場面でも、あの人の力を借りろ」


侯爵の目が潤んでいた。白い髭が震えている。


「それから──もう一つ。わたしが保管していた書簡を正式に提出する。王太子府からの非公式な鉱山データ照会の記録。わたしの署名入りだ。これで──三つの証拠が揃う」


侯爵が懐から書簡の束を取り出した。紐で綴じられた数枚の便箋。侯爵自身の筆跡で、王太子府からの照会内容と、それへの回答が記されている。日付は二年前。殿下の不正が本格化した時期と一致する。


フランツの証言。マティアスの閲覧記録。そして侯爵の書簡。三つの点が、一本の線になる。殿下のときは証拠が足りずに苦労した。今回は──三方向から包囲できる。どれか一つなら言い逃れができる。二つでも苦しい。三つは──不可能だ。


「侯爵。あなたは──自分の過去も暴くことになります。殿下の圧力に屈していたことが」


「承知の上だ。過ちを認めることは──恥ではない。認めないことのほうが、よほど恥だ。リュシエンヌに──顔向けができるようにしたい」


リュシエンヌ様の名を口にしたとき、侯爵の声がかすかに震えた。あの方への想いが、この人を動かしている。


侯爵が背筋を伸ばした。あの鋭い瞳に──もう迷いはなかった。


侯爵が背筋を伸ばした。鋭い瞳に──もう迷いはなかった。殿下の件で真実を選んだあの日から、この人は別人のように変わった。


「カペル。わたしは長い間、鎖に繋がれていた。お前がその鎖を断ち切ってくれた。今度は──わたしがお前を支える番だ」



工房でダリオと最終確認をした。テーブルの上に証拠を並べる。三つの書類。リュシエンヌ様の手帳。そして──わたし自身の観察記録。


ダリオとわたし。向かい合って座る。いつかの夜と同じように。でもあの夜は温かい飲み物と告白だった。今夜は──証拠と覚悟だ。


「足りるか」


「足ります。フランツの証言で動機と計画を立証。マティアスの閲覧記録で三年前からの関与を立証。侯爵の書簡で具体的な行動を立証。三方向から包囲する形です」


「王太子は──どう動くと思う」


「穏やかに否定するでしょう。あの人は最後まで笑みを崩さない。でも──証拠が三つ揃えば、否定しきれない。どれか一つなら言い逃れができる。二つでも苦しい。三つは──不可能です」


ダリオがうなずいた。


「明日、俺も行く」


「はい。──隣にいてください」


「当然だ」


短い言葉。でもその二文字に、すべてが詰まっている。指輪の内側に刻まれた「隣に」と同じ重さの、二文字。


コンラートが温かい飲み物を用意してくれた。ちゃんと全員分揃っている。この子は、いつの間にか自分の分も忘れなくなった。エルザも手を止めてテーブルに加わった。


「ノエルさん。わたしも何かできることは」


「エルザ。あなたには──エーファをお願いしたい。明日、わたしとダリオが王の間にいる間」


「もちろん。アンナさんと一緒に見ています」


コンラートが拳を握った。


「ぼくは──工房を守ります」


「助かるよ、コンラート」


四つの杯が並んだテーブル。湯気が立ち上る。明日、わたしは二度目の──そして最後の──直訴をする。王太子の仮面を、すべての証拠で剥がす。


エルザが静かにうなずいた。コンラートが拳を握って「頑張ってください」と言った。この工房の全員が、同じ方向を向いている。


リュシエンヌ様の手帳を胸に抱いた。あの方の知恵が、わたしの中にある。記録は嘘をつかない。事実は、必ず光の下に出る。


その夜、エーファを寝かしつけた後、わたしは手帳の最後のページを読んだ。リュシエンヌ様の、最後の書き込み。


『記録を守ることは、真実を守ること。真実を守ることは、人を守ること。あなたがこれを読んでいるなら──あなたは、もうそれができる人です』


涙が手帳の上に落ちた。丸い染みを作って、すぐにインクに吸い込まれた。


ページを閉じた。手帳を胸元にしまう。あの方の言葉を、明日の王の間に持っていく。三十年分の記録と、わたしの一年分の証拠。二人分の意志を束ねて──王の前に立つ。


リュシエンヌ様が三十年かけて守った記録と、わたしが一年で集めた証拠。時間の長さは違うが、込めた想いの重さは同じだ。嘘を許さない。事実を守る。


その一点で、わたしたちは繋がっている。生きている者と、もういない者が。歯車は──回り続ける。止まった歯車の分まで。リュシエンヌ様の分まで。グスタフの分まで。回り続ける。


明日──すべてを終わらせる。


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