第39話 エーファの勇気
筆跡鑑定の結果をイルマに突きつけても、あの女は引き下がらなかった。
「鑑定は一方的なものです。別の鑑定人に依頼すれば、異なる結論が出る可能性があります」
王妃様の前で、イルマはそう主張した。深紅のドレス。完璧に整えた金の髪。あの完璧な微笑み。追い詰められているはずなのに、表面上は崩れない。この女の強さは──認めざるを得ない。九年間一緒にいたからわかる。イルマは折れない女だ。最後の一瞬まで、自分の武器を手放さない。この女の仮面は──最後まで剥がれないのかもしれない。
だが王妃様は毅然としていた。
「イルマ。鑑定は宮廷の正式な書記官によるものよ。別の鑑定人を立てたいなら、正式な手続きを踏みなさい。ただし──」
王妃様の目が鋭くなった。
「エーファ本人の意思を確認する機会を設けます。養育権の判断において、子ども自身の意思は重要な要素よ」
イルマの微笑みが──一瞬だけ、揺らいだ。エーファの意思。イルマが計算に入れていなかったカード。九歳の子どもの言葉が、法的な判断に影響する。
工房に戻り、ダリオに報告した。ダリオは黙って聞いていた。それから一言だけ言った。
「エーファの意思が一番強い証拠になる。あの子自身の言葉が」
その通りだった。法律や書類よりも──九歳の子どもの真っ直ぐな言葉が、何よりも重い。
エーファに話した。王妃様の前で、自分の気持ちを伝えてほしいと。
「おかあさまのまえで、いうの?」
「ううん。王妃様というとても偉い方の前で。エーファが誰と暮らしたいか、聞かれるの」
エーファが不安そうな顔をした。でも──うさぎのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて、顔を上げた。
「エーファ、おかあさまといたい。それをいえばいい?」
「思っていることを、そのまま言えばいいのよ。嘘はいらないわ」
「うそは、だめだもんね。おかあさまがいってた」
胸が締めつけられた。この子は──わたしの言葉を覚えている。三歳のときから、わたしが教えたことを。
◇
王妃の私室。王妃様が椅子に座り、イルマが向かいに立っている。わたしはエーファの手を握って、部屋の中央に立った。
エーファの手が震えている。小さな指が、わたしの掌にしがみついている。その震えが──わたしの腕を通って胸に伝わってくる。大丈夫。おかあさまがいるから。九歳の子が、こんな場に立たされることは本来あってはならない。大人の都合で、子どもが矢面に立つ。それをさせたのはイルマだ。あの女の執着が、この子をここに立たせている。でも──イルマがそうさせた。
「エーファ」
王妃様の声が穏やかだった。この方は──子どもへの話し方を知っている。
「怖がらなくていいわ。聞きたいことは一つだけ。あなたは──誰と一緒にいたい?」
エーファがわたしを見上げた。わたしはうなずいた。何も言わなかった。この子が自分で決めることだ。
エーファが前を向いた。小さな背筋が──まっすぐに伸びた。
エーファが深呼吸をした。わたしが教えた深呼吸。緊張したときは息を吐いてから吸う。三歳の頃から教えてきたこと。
「エーファは、おかあさまといたいです」
王妃様がうなずいた。
「おかあさまは──ノエルさんのこと?」
「はい。ノエルおかあさまです。エーファが赤ちゃんのときから、ずっといっしょだったおかあさまです」
イルマが口を開きかけた。反論しようとしている。でも王妃様が視線で制した。子どもが話している間は、遮らせない。
エーファが続けた。
「イルマおばさまは──エーファのこと、みてくれなかった。おかあさまは、まいにち、おはようっていってくれた。ねるまえに、おはなししてくれた。あついとき、おでこ、ひやしてくれた。うさぎさんも、おかあさまがぬってくれた」
エーファの声は震えていたが──止まらなかった。
「おとうさまが──さいごに、エーファのこと、おかあさまにたのむっていった。アンナおばちゃんがおしえてくれた」
アンナが伝えてくれていた。グスタフの最後の言葉を。
「エーファは──おかあさまがいい。おかあさまは、はぐるまのおしごとで、みんなをあたたかくしてくれるひと。エーファも──あたたかくしてくれる」
九歳の子どもの言葉だった。飾りもなく、計算もなく、ただ真実だけがあった。イルマの完璧な論理よりも、この子のたどたどしい言葉のほうが──何倍も強い。真実とはそういうものだ。
王妃様の目に涙が光った。
イルマの顔から──仮面が剥がれた。完璧な微笑みではなく、恐怖と怒りが混じった素顔。自分の実の娘に──選ばれなかった。九年間育てた女を、血の繋がった母親より選んだ。イルマにとって、それは──すべての計算を超えた敗北だった。血が繋がっている子に、血の繋がらない女を選ばれた。
「エーファ──わたしがあなたの本当の──」
「イルマ」
王妃様が静かに、しかし有無を言わせない声で遮った。
「エーファの意思は明確よ。筆跡鑑定の結果も出ている。グスタフの署名は有効。養育権はノエル・カペルに認められる。異議は棄却します」
イルマの唇が震えた。何か言おうとして──言葉が出なかった。深紅のドレスの裾を踏み、よろめきながら部屋を出ていった。
エーファがわたしに抱きついた。
「おかあさま──エーファ、ちゃんといえた?」
「ちゃんと言えたわ。──ありがとう、エーファ。あなたは勇敢だった」
わたしはこの子を抱きしめた。この腕の中に、わたしのすべてがある。九ヶ月間の戦いが、この瞬間のためにあった。技術を磨き、証拠を集め、殿下と王太子に立ち向かった。すべては──この子を守るために。
王妃様が微笑んだ。銀の小箱に手を置いて、静かにうなずいた。
王妃様が目元を拭った。この方も母だ。自分の息子たちとは違う──まっすぐな親子の絆を、ここで目にしたのだ。
「ノエルさん。あなたの娘は──立派な子ね」
わたしの娘。王妃様がそう呼んでくれた。血ではなく、九年間の日々で結ばれた──わたしの娘。その言葉が、胸の奥で静かに光った。血ではなく、絆で結ばれた──わたしの娘。
工房に戻ると、ダリオとコンラートとエルザが待っていた。わたしの顔を見て──三人とも、何も聞かずに笑った。結果がわかったのだろう。わたしの目が赤くないこと。背筋がまっすぐなこと。それだけで──勝ったとわかる。
「おかえり」
ダリオが言った。初めて聞く言葉だった。工房で「おかえり」と言われたのは。
「ただいま」
返事をした瞬間、涙がこぼれた。嬉しい涙だ。エーファが教えてくれた──嬉しい涙は、あるのだと。この工房が、わたしの帰る場所だ。ここにいる人たちが、わたしの家族だ。血ではなく、時間と信頼で結ばれた、かけがえのない家族。




