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夫の愛人の隠し子を九年育てましたが、そろそろ自分のために生きます  作者: 渚月(なづき)
第4章

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第37話 イルマの最後の手

エルザが青い顔で工房に飛び込んできた。


「ノエルさん──イルマ様が、王太子殿下のもとに身を寄せています」


手に持っていたやすりを、作業台に置いた。指先から力が抜ける。行方不明だったイルマが──王太子のもとに。最悪の組み合わせだ。権力と計算高さを持つ王太子と、わたしの弱点を知り尽くしたイルマ。九年間同じ屋敷にいたのだ。わたしの怒り方も、泣き方も、怯え方も──すべて見ている。二人が手を組めば、わたしを追い詰める手段はいくらでもある。でも──わたしにも仲間がいる。ダリオ、エルザ、コンラート。一人では勝てない相手でも、四人なら戦える。


エルザの手が震えている。イルマの名前を聞くだけで体が反応するのだ。長年の恐怖は簡単には消えない。


「どこから得た情報?」


「弟です。弟がベルント商会の元同僚から聞きました。イルマ様が王太子府に出入りしていると」


ダリオが作業台から顔を上げた。


「イルマが王太子についたか。残った手札を全部あの男に渡すつもりだな」


「イルマにはまだ使える情報がある。わたしたちの弱点を知っている。九年間、同じ屋敷にいたのだから」


イルマはわたしをよく知っている。エーファがわたしの弱点であること。グスタフとの九年間でどれだけ傷ついたか。どこを突けば動揺するか。その情報を王太子に渡せば──王太子はわたしを揺さぶるカードを得る。


コンラートが拳を握りしめた。


「あの人、まだ諦めてないんですか」


「追い詰められた人間は二つに分かれる。諦める人と、最後の賭けに出る人。イルマは──後者よ。あの女は何もかも失っても最後の一枚だけは手放さない」



翌日、王妃様から呼び出しがあった。北棟への道を歩きながら、頭の中で対策を組み立てる。イルマの手を予測し、それぞれに対抗策を用意する。技術委員会で殿下と対峙したときと同じだ。事実を武器にする。


「イルマ・ハイリゲンが、王太子を通じて宮廷に嘆願書を提出したわ」


「嘆願書──」


嫌な予感が的中した。イルマは法的な手続きを使ってきた。力ではなく制度を利用する。王太子と同じ手法だ。


「内容は二つ。一つ目は、ハイリゲン家の管理権の正式な継承。グスタフが亡くなった以上、正式な伯爵夫人であるイルマに家の管理権があるという主張。二つ目は──」


王妃様の声が一瞬途切れた。


「エーファの養育権について、グスタフの署名が強制されたものであるという異議申し立て。グスタフは病の中で正常な判断ができない状態だったと主張している」


血が凍った。胸の奥が冷たくなる。あの手紙はグスタフの最後の意志だ。それを──病人の錯乱として退けようとしている。


グスタフの手紙は本物だ。あの筆跡、あの署名、あの印。正常な判断の上で書かれたものだ。でもイルマは──それを「病人の錯乱」と主張するつもりだ。


「それだけではないわ。イルマは──ノエルさんがエーファの養育に不適切であるという証言も用意している。ノエルさんが宮廷の仕事に没頭し、子どもの世話をしていないと」


「嘘です」


声が震えなかったことに、自分で驚いた。以前のわたしならイルマの名前を聞いただけで指先が冷えていた。今は違う。怒りはあるが、恐怖はない。


「もちろんそう思う。でも──形式的には、イルマの主張にも法的根拠がある。グスタフの署名時の精神状態を医師が証明できなければ、書類の有効性が問われる可能性がある」


工房に戻り、ダリオに報告した。ダリオは工具を置いて、こちらに向き直った。この人が手を止めるのは、よほど深刻なときだけだ。


「イルマが養育権に異議を申し立てた。グスタフの署名が無効だと」


ダリオの目が鋭くなった。手元の工具をゆっくり置いた。


「医師の証言が鍵だな。グスタフが署名したときの精神状態を証明できる人間は」


「アンナ。アンナがグスタフのそばにいた。手紙を書いたときの様子を証言できる」


「アンナの証言だけでは弱い。身内と見なされる」


「では──グスタフの担当医師は」


「ハイリゲン家の領地の医師だ。イルマの影響下にある可能性がある」


八方塞がりに見えた。でも──わたしは技師だ。魔道具が壊れたとき、一つの道が塞がれたら別の道を探す。歯車が一つ壊れたら別の歯車で補う。一つの道が塞がれたら、別の道を探す。歯車が一つ壊れたら、別の歯車で補う。


「ダリオさん。グスタフの手紙そのものが証拠です。筆跡の安定性、文章の論理性、署名の力強さ。あの手紙は──正常な判断力のある人間が書いたものです。震えもなく、誤字もなく、論旨が一貫している。病の中で錯乱した人間には書けない手紙です」


「筆跡鑑定か」


「はい。宮廷の書記官に正式な鑑定を依頼すれば、グスタフの精神状態を文書から立証できます。グスタフが以前に書いた公的な書類との比較で」


ダリオがうなずいた。


ダリオの目が光った。技術を見るときの目──鋭くて、でも信頼に満ちた目。


「やれ。──時間はあまりないぞ。イルマの嘆願書が受理されれば、エーファの養育権は凍結される」


その夜、エーファを寝かしつけた後、わたしは工房に戻った。


アンナが紅茶を淹れてくれた。丸い顔が心配で曇っている。


「ノエルさん。イルマ様が──また何かしているのですか」


「大丈夫よ。わたしが何とかするわ」


「エーファちゃんは──毎晩、おかあさまのお話をしてから眠るんですよ。おかあさまが歯車でみんなを温かくしてるんだって、お友だちにもお手紙に書いていましたよ。おかあさまは歯車のお仕事をしていて、すごいんだって」


目頭が熱くなった。でも──泣いている場合ではない。この涙は、あとで流す。すべてが終わったときに。エーファを抱きしめながら流す涙は、きっと温かいものになる。


エーファを守る。どんな手を使ってきても、あの子をイルマに渡さない。


翌日、宮廷の書記官に筆跡鑑定を正式に依頼した。グスタフの過去の公文書──宮廷への報告書や領地の管理文書と、あの手紙を並べて比較する。筆圧、文字の大きさ、行間の揃い方。すべてを数値化して判断する。技術者として、わたしはこの手法を信頼している。結果が出るまで三日。グスタフの過去の公文書と、あの手紙を並べて比較する。結果が出るまで三日。


三日。たった三日。でも──殿下の養女計画を阻止したときも三日だった。あのときもダリオが隣にいた。今回も同じだ。三日あれば、できる。


三日間の猶予の中で、わたしにはもう一つ、やらなければならないことがあった。


リュシエンヌ様の記録の中に、王太子関与の痕跡がないか──探すことだ。あの方の記録は嘘をつかない。必ず何かが残っているはずだ。三十年分の記録の中に、王太子の影が潜んでいる。それを見つけ出すのが──わたしの仕事だ。


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