第36話 二つめの裏切り
エルザの記憶を丁寧に辿った。
工房の事務机で、エルザは目を閉じて当時を思い出していた。コンラートが静かに紅茶を置いた。ダリオは作業台で手を動かしながら、聞き耳を立てている。この工房の四人全員が、同じ方向を向いている。イルマの侍女だった頃──聞こえてきた会話、目にした書類、すれ違った人物。すべてを、一つずつ掘り起こしていく。魔道具の内部を調べるように、丁寧に。急げば見落とす。
「イルマ様が──一度だけ、王太子殿下の名を口にしたことがあります。殿下との密談の後でした。『クリストフ殿下は利口だ。ヴェンツェル殿下より先を見ている』と」
「先を見ている──」
「はい。それから──ベルント商会のフランツが、王太子殿下の執務室に入っていくのを見たことがあります。殿下の蟄居よりずっと前です。三ヶ月ほど前のこと」
フランツが王太子と接触していた。殿下の蟄居よりも前に。評定で書簡を出す数ヶ月も前から、準備をしていたことになる。つまり──殿下が失脚する前から、王太子はフランツと繋がっていた。フランツは殿下を裏切って証拠の書簡を提出した。あれは──単なる保身ではなく、別の後ろ盾に乗り換えたのではないか。殿下から王太子へ。
「エルザ。フランツが殿下を裏切ったとき──あの書簡は、どこから出てきた?」
「フランツの懐から。評定の場で、自ら取り出しました」
「あれだけの量の書簡を、常に携帯していた。つまり──いつでも出せるように準備していた。殿下が追い詰められる瞬間を、待っていた」
ダリオが作業台から顔を上げた。
「フランツは──殿下の味方のふりをしながら、王太子のために動いていた可能性があるということか」
「はい。殿下を潰すことで、王太子の邪魔者を排除する。ベルント商会の営業停止も──一時的なものにすぎないかもしれない。王太子が直轄で工房を管理すれば、商会を再開させることもできる」
パズルの断片が繋がっていく。魔道具の不具合を追うときと同じだ。一つの異常が見つかれば、関連する異常が芋づる式に出てくる。殿下の不正を暴いたのは正しかった。でも──その裏で、もう一つの不正が動いていた。
フランツに会う必要があった。あの男は現在、宮廷の管理下に置かれている。面会には許可が要る。
王妃様に面会を申し込んだ。銀の小箱が窓辺で静かに光っている。事情を説明すると、王妃様の顔が険しくなった。小箱に手を伸ばし──止めた。今は形見に縋っている場合ではないと判断したのだろう。この方もまた、強い人だ。
「クリストフが──ヴェンツェルと通じていた?」
「まだ確証はありません。推測の段階です。でも──状況証拠が集まりつつあります。フランツに確認したいことがあります」
王妃様は長い沈黙の後、うなずいた。
長い沈黙の後、王妃様はうなずいた。
「面会を許可するわ。──ノエルさん。もしクリストフまでが関わっていたなら──この国の王族は、何を信じればいいのかしら」
王妃様の声が揺れていた。一人の息子は蟄居。もう一人の息子にも疑惑。母として──どれほどの痛みだろう。
◇
フランツとの面会は、宮廷の一室で行われた。衛兵が扉の外に立っている。
フランツは──変わっていなかった。拘束されているにもかかわらず、穏やかな笑みを浮かべている。商人の笑顔。どんな状況でもこの表情を崩さない。
「ノエル・カペルさん。お会いできて光栄です」
「フランツさん。単刀直入に聞きます。評定でヴェンツェル殿下を裏切ったのは、王太子殿下の指示ですか」
フランツの笑みが──消えた。一瞬だけ。すぐに戻ったが、目の奥に動揺が走ったのをわたしは見逃さなかった。
「何をおっしゃっているのか──」
「あなたが王太子殿下の執務室に出入りしていたことは、証人がいます。殿下の書簡をいつでも取り出せるよう準備していたこと。殿下が追い詰められるタイミングを待っていたこと。すべて──王太子殿下との事前の打ち合わせがあったからではないですか」
フランツの目が泳いだ。計算している。今ここで何を言えば最善か。商人の頭脳が高速で回転している。この男は常に、最も得になる選択をする。利益のある側につく。それが商人だ。そして今──どちらの側が利益になるか、計算している。わたしは待った。焦らない。魔道具の歯車を調整するとき、急いで回せば壊れる。今、どちらの側につくべきか──それを計算している。
「──仮にそうだとして。わたしに何のメリットがあります? すでに拘束されている身ですが」
「あなたにメリットがあるかどうかは、あなたが決めることです。でも──事実を話さなければ、殿下だけでなく王太子殿下が落ちるとき、あなたも巻き込まれる。二度目の裏切りは、誰も庇ってくれません」
フランツの笑みが完全に消えた。商人の仮面が剥がれ、下から出てきたのは──疲弊した男の顔だった。
「……王太子殿下は──ヴェンツェル殿下の計画を、最初から知っていました。知った上で放置し、殿下が十分に罪を重ねてから──わたしに指示を出しました。殿下を潰すように、と」
「つまり──兄が弟を利用した」
フランツが目を伏せた。疲れた顔だ。二つの主人に仕え、二度裏切った男の顔。
「利用し、潰し、その後に利権を引き継ぐ。殿下の分の取り分を、王太子殿下がそっくり受け取る計画です」
フランツの告白を、わたしは一字一句ノートに書き留めた。自分の目で確かめ、自分の手で記録する。リュシエンヌ様に教わった方法で。事実は事実として。嘘は嘘として。あの方が三十年かけて守った記録の技法が、今もわたしの中で生きている。
工房に戻り、ダリオに報告した。
「証拠が揃いました。──国王陛下に、もう一度報告する必要があります」
ダリオがうなずいた。覚悟の目だ。この人と一緒なら──どんな王族の前にも立てる。
エーファが工房に来た。アンナに手を引かれて。小さな足で工房の床を歩き、作業台の上の歯車に目を輝かせている。
「おかあさま、これなあに?」
「歯車よ。時間を刻むものよ」
「じかんを──きざむ?」
「ええ。新しい時間を」
エーファがにっこり笑った。この笑顔のために──わたしは戦う。
「行くぞ。──今度は二人で」
工房を出る前に、エーファの絵を見た。工具入れの蓋の裏に貼った、あの絵。歯車を持って笑うわたし。
この笑顔を守るために──もう一度、王の間に立つ。




