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夫の愛人の隠し子を九年育てましたが、そろそろ自分のために生きます  作者: 渚月(なづき)
第4章

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第35話 王太子の影

王太子が委員会室の上座に座った。本来、委員長であるアルヴィン侯爵の席だ。侯爵は何も言わず、横の席に移った。それだけで力関係が見える。殿下が力で圧力をかけたのに対し、王太子は「善意」で場を支配する。どちらが手強いかは、この一幕で明らかだった。


「皆さん、お集まりいただき感謝します。ヴェンツェルの件で宮廷に混乱が生じました。その収拾を図るため、いくつかの提案をさせていただきたい」


委員が五名、わたしとダリオが傍聴席。コンラートは廊下で待機している。


穏やかな声。理路整然とした言葉遣い。殿下のような威圧はない。だからこそ──反論しにくい。刃を見せない剣は、避けようがない。力で押されれば反発できるが、道理で包まれると抗いにくい。


「王立工房の管理を王太子府の直轄にする案を提出します。現在の技術委員会は独立性が高い反面、監督機能が不十分であることが、今回の件で明らかになりました」


委員たちが顔を見合わせた。数名がうなずきかけている。王太子の論理は──正しく聞こえる。正しく聞こえることが、最も危険なのだ。反論したいが、殿下の不正を見抜けなかったのは事実だ。その弱みを、王太子は突いている。見事だ。正論で包んで、本質を隠す。わたしでなければ気づかなかったかもしれない。でも──あの封書の日、あの穏やかな笑みの裏を見た。同じ手は通用しない。


わたしは手を挙げた。


わたしは深呼吸をした。技術委員会で殿下の前に立ったときと同じ。足元には事実がある。声は震えない。


「発言をお許しください」


王太子がわたしに目を向けた。穏やかな笑み。でも目の奥に──警戒がある。


「技術委員会の監督機能が不十分だったのは事実です。しかし、それは委員会の独立性の問題ではなく、外部からの不当な圧力──ヴェンツェル殿下の介入が原因でした。委員会を直轄にすれば、同じ構図が繰り返されるだけです」


「それは──わたしがヴェンツェルと同じことをすると?」


「申し上げているのは構造の問題です。誰が管理するかではなく、権力が集中する仕組みそのものが危険だということです」


王太子の笑みがわずかに硬くなった。前回の面会と同じ反応だ。予想通りの答えが返ってこないとき、この人は一瞬だけ表情が固まる。歯車が空回りする瞬間と同じだ。噛み合わないことへの苛立ちが、微かに顔に出る。


委員たちの間に、迷いの空気が流れた。王太子の提案には一理ある。でも──わたしの反論にも一理ある。どちらが正しいか、ではない。どちらの構造が安全か、だ。


「なるほど。では──どのような仕組みが望ましいと?」


「技術委員会の独立性を維持した上で、王室への定期報告を義務化する。監査は技術委員会の内部で行い、結果を王室に提出する形が最善かと考えます」


アルヴィン侯爵が口を開いた。


「わたしも──カペル技師の意見に賛同する。わたしは長年、外部からの圧力に屈してきた。その結果、殿下の不正を見逃した。同じ過ちを繰り返すわけにはいかん。委員会の独立性は守るべきだ。今回の件で、わたしが一番痛感している」


侯爵の声には重みがあった。殿下の圧力に屈し、真実を選ぶまでに苦しんだ人間の言葉だ。その経験が、委員たちの心を動かしている。


王太子が指で顎を撫でた。考えている。この人は──正面からの論戦を好まない。引くときは引く。だが──別の手を打ってくる。


「わかりました。今日のところは、提案を保留とします。各委員の意見を聞いた上で、改めて」


保留。前回と同じ結末だ。却下ではない。時間を稼いで、個別に委員を懐柔するつもりだろう。殿下のように力で押すのではなく、一人ずつ、穏やかに、理を説いて取り込んでいく。蜘蛛の巣のように。でも──蜘蛛の巣にも弱点はある。糸の一本を切れば、全体が崩れる。その一本を見つけなければ。


会議が終わった後、廊下でダリオが小声で言った。


「時間は稼いだ。だが──王太子は引かないぞ」


「ええ。次は別の角度から来るはずです」


「何か策があるのか」


「あります。──王太子が殿下とつながっていた証拠を見つけます」


ダリオが足を止めた。わたしを見つめる。


ダリオの目が鋭くなった。


「根拠は」


「エルザがイルマのそばにいたとき、王太子と殿下が密会していたことを示唆する話を聞いたことがあると言っていました。当時は確証がなく、保留にしていた情報です。でも今の王太子の動きを見れば──あの穏やかな笑顔の裏に、殿下と同じ利権への執着がある」


「推測だな」


「だから証拠を探します。観察、仮説、検証、証拠提示。いつもと同じです」


ダリオが小さく笑った。


ダリオの目が温かくなった。技術の話をするときのあの目──鋭くて、でも信頼に満ちた目。


「お前は──本当に技師だな」


「技師ですから」


工房に戻ると、エーファがアンナの膝の上で眠っていた。小さな寝息が聞こえる。うさぎのぬいぐるみを抱いたまま。


この子を守る。コンラートの未来を守る。エルザの新しい人生を守る。ダリオの工房を守る。そのために、王太子の仮面を剥がさなければならない。


翌日から、わたしは証拠集めを始めた。エーファはアンナと一緒に、工房の近くに借りた部屋にいる。毎晩帰ると、エーファが玄関で待っていてくれる。「おかえり、おかあさま」──その声が、わたしの力になる。


ダリオも遅くまで工房に残っている。二人で設計図を広げるように、証拠の断片を並べていく。人の設計図。リュシエンヌ様がそう呼んでいたもの。あの方が生きていれば、きっとこう言うだろう。──記録を辿りなさい。嘘は必ず、どこかに痕跡を残す。


わたしはペンを取り、ノートに書き始めた。王太子とフランツの接点。殿下の不正の時系列。王太子が知り得た情報。一つずつ、点を打っていく。点が線になるまで。


ダリオが杯を二つ持ってきた。いつかの夜と同じように。向かい合って座り、温かい飲み物を飲みながら、設計図を広げる。人の設計図と、技術の設計図。二つの設計図が一つになるとき──真実が姿を現す。


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