第33話 最後の歯車が止まる時
ハイリゲン家の屋敷は、九ヶ月ぶりに見ても変わっていなかった。
石造りの門。蔦の絡まった壁。北向きの窓。馬車から降りたとき、足が一瞬すくんだ。庭の木は新しい葉をつけている。春だ。わたしが屋敷を出たのは冬だった。季節がひとつ巡って、わたしは戻ってきた。でも同じ人間ではない。体が覚えている。この門をくぐると、あの日々が始まる──そんな恐怖が、反射的に胸をよぎった。
ダリオの手が背中に触れた。軽く、でも確かに。
「大丈夫か」
「──大丈夫です」
深呼吸をした。ここはもう、わたしの牢獄ではない。わたしは宮廷の正式技師として、エーファを迎えに来たのだ。
門番に事情を話し、屋敷の中に入った。廊下の匂いが変わっていない。蝋燭と古い木の匂い。九年間、毎日嗅いでいた匂い。懐かしいとは思わない。ただ記憶が鮮明に蘇る。この角を曲がるとエーファの部屋。この階段を上ると──。
アンナが厨房から飛び出してきた。丸い顔に涙が浮かんでいる。わたしを見た瞬間、声を上げた。
「ノエルさん──!」
抱きしめた。アンナの体は温かかった。九年間、毎日温かい飲み物を淹れてくれた人。この人がいなければ、わたしはあの屋敷で壊れていたかもしれない。
「アンナ。エーファは」
「二階の子ども部屋に。元気にしてますよ。グスタフ様のことは──まだ話していません」
アンナに案内されて二階に上がった。廊下を歩くたびに記憶が蘇る。この角を曲がるとエーファの部屋。この扉を開けると──。
扉を開けた。
エーファが窓辺に座っていた。うさぎのぬいぐるみを膝に載せて、外を見ている。九歳。三ヶ月前にアンナの手引きで会ったときより、少し背が伸びている。
扉を開けた瞬間、時間が止まった。
エーファが窓辺に座っていた。うさぎのぬいぐるみを膝に載せて、外を見ている。午後の光が、小さな横顔を照らしていた。
わたしの足音に振り返った。
大きな琥珀の瞳が──見開かれた。
「おかあさま──!」
エーファが走ってきた。わたしの腰にしがみつく。小さな腕が、力いっぱいわたしを抱きしめる。
わたしは膝をついて、エーファを抱きしめた。
小さい。でも温かい。この腕の中に、わたしの九年間がある。この温もりを、九ヶ月間ずっと夢見ていた。便箋の上の「はやくあいたいです」が、今、現実になっている。
「エーファ。──会いたかった」
声が震えた。涙がこぼれる。止められない。止める必要もない。
エーファが顔を上げた。わたしの涙を見て、小さな手で頬を拭ってくれた。
「おかあさま、ないてるの?」
「嬉しくて泣いてるの。嬉しい涙よ」
「うれしいなみだって、あるの?」
「あるのよ。今、知ったわ」
エーファがにっこり笑った。その笑顔を見て、また涙が出た。この笑顔のために、わたしはここまで来たのだ。屋敷を出て、工房で歯車を削り、技術委員会で声を上げ、国王の前に立った。すべてはこの瞬間のために。
うさぎのぬいぐるみを見せてくれた。耳が──確かに曲がっていたが、しっかり縫い留められていた。エーファが自分で直したのだ。わたしが教えた縫い方で。
「じょうずじゃないけど、とれないよ」
「上手よ。とても上手」
ダリオが扉の前に立っていた。中には入らず、廊下で待っている。この人は──入るべきでない場所をわかっている。ここは母と子の時間だ。その横顔に、微かな笑みがあった。
◇
グスタフの部屋を訪ねた。エーファはアンナに預けた。
寝室のカーテンは閉められ、薄暗い中にグスタフが横たわっていた。痩せていた。九ヶ月前に離縁を告げた男とは別人のように、頬がこけ、目が落ちくぼんでいる。
わたしの姿を見て、グスタフの目が動いた。
「……来たのか」
声もかすれている。
「手紙を受け取りました。養育権の書類は、すでに王妃様に提出しました」
グスタフの唇が動いた。笑おうとしたのかもしれない。でも笑いにはならなかった。
「そうか。──よかった」
沈黙があった。言うべき言葉を探している。でも九年分の言葉は、どこから始めればいいのかわからない。窓の外から鳥の声が聞こえる。あの屋敷にいた頃には気づかなかった音だ。でも九年分の言葉は、どこから始めればいいのかわからない。
「ノエル。ひとつだけ──」
「何ですか」
「エーファに──父は悪い人間だったと、教えないでくれ」
わたしは少し考えた。それから答えた。
「あなたが最後に書いた手紙のことは、伝えます。エーファを想っていたことは、伝えます」
グスタフの目から涙が一筋流れた。この男が泣くのを、初めて見た。九年間、わたしの前では一度も感情を見せなかった男が。
「……すまなかった」
九年間待った言葉だった。でも──受け取ったとき、思ったより軽かった。もうこの言葉を必要としていない自分がいた。許すとか許さないではなく──もう終わったのだ。あの日々は。わたしはもう、前を向いている。
翌日の未明、グスタフは息を引き取った。眠るように、と医師は言った。苦しみはなかったらしい。それだけが──わずかな救いだった。最後に口にした名前は「エーファ」だったと、枕元にいたアンナが教えてくれた。
エーファに伝えた。できるだけ優しく、できるだけ正直に。
「おとうさまは、遠いところに行ったの。エーファのことを、最後まで大切に思っていたわ」
エーファは泣いた。うさぎのぬいぐるみを抱きしめて、しばらく泣いた。わたしはその背中をさすり続けた。泣き止むまで、ずっと。どれくらいの時間が経っただろう。エーファが泣き止み、ぐったりとわたしの腕の中で眠りについた。小さな体が、呼吸のたびにかすかに上下している。
グスタフ・ハイリゲン。わたしの元夫。わたしの九年間を奪い、最後に一通の手紙でエーファを返した男。その人生の最後の歯車が、静かに止まった。
屋敷を出るとき、イルマの姿はなかった。グスタフが倒れた日に、屋敷を出たとアンナが言った。行き先は不明だと。
嫌な予感がした。グスタフが亡くなった今、ハイリゲン家の正式な夫人はイルマだ。家の管理権を主張する可能性がある。王妃様が懸念していた通りだ。あの女は──追い詰められたとき、最も危険になる。グスタフという盾を失った今、イルマに残された手段は限られている。だが限られた手段ほど、使う者は必死になる。
馬車の中で、ダリオがわたしの手を握った。何も言わなかった。ただ温かい手が、わたしの冷えた指を包んでいた。この温もりがある限り、わたしは大丈夫だ。エーファも、もう大丈夫だ。あの子はわたしの腕の中にいる。もう誰にも奪わせない。




