第32話 グスタフの手紙
グスタフからの手紙を、わたしは工房で一人開けた。
ダリオは席を外してくれた。「一人で読め」と言って、コンラートを連れて工房を出た。この人は、わたしが一人になりたいときをわかっている。
封を切る。指先が微かに震えた。封蝋はハイリゲン家の紋章。九年間連れ添った男の筆跡。震えは恐怖ではなく、過去が蘇る痛みだ。
『ノエルへ。
こうして手紙を書くのは、離縁の通知以来だ。筆を取る資格があるのかもわからない。
エーファのことを書く。あの子は最近、毎晩うさぎのぬいぐるみを抱いて眠っている。お前が縫ったものだ。耳を自分で直したらしい。曲がっているが、取れないと誇らしげに見せてきた。
お前の子だと思った。血は繋がっていなくても、あの子の中にはお前がいる。縫い方も、笑い方も、人の目をまっすぐ見る癖も。イルマの子であるより先に、お前の子だ。
わたしは──間違えた。何もかも間違えた。それを認めるのに九年以上かかった。
エーファの養育権について、お前に渡すことに同意する書類を同封する。宮廷への提出用と、わたしの署名入りのもの。これがわたしにできる最後のことだ。
それから──体の具合がよくない。持病が悪化している。医師には長くないと言われた。
お前に謝る言葉を、九年間探していた。見つからなかったのではない。見つける勇気がなかった。
エーファを頼む。
グスタフ・ハイリゲン』
手紙を読み終えて、しばらく動けなかった。便箋を持つ手が震えている。今度は過去の痛みではなく──予想もしなかった言葉に揺さぶられたせいだ。
グスタフが謝罪している。あの男が。九年間、わたしの存在を無視し続けた男が。「お前の子として育てろ」と命じ、屋敷に閉じ込め、離縁を一方的に通告した男が──エーファの養育権をわたしに渡すと言っている。
同封されていた書類を確認した。グスタフの署名と、ハイリゲン家の印。養育権の移譲に必要な書式が整っている。本物だ。グスタフが自らの意志で署名した本物だ。
涙がこぼれた。グスタフのためではない。エーファのためだ。この子がようやく──正式にわたしの元に来られるかもしれない。その道が、開いた。
許す気にはなれなかった。でも恨む気力も残っていなかった。九年間の怒りは、この数ヶ月で別のものに変わっていた。怒りを技術に変え、悔しさを行動に変えた。グスタフに向けるものは、もう残っていない。空っぽになった場所に──新しいものが入っている。
ただ一つ──エーファを想う気持ちだけは、グスタフと重なった。「エーファを頼む」。遅すぎた。でも──書いた。それだけは認めよう。
ダリオが戻ってきた。涙を拭いたが、目が赤いのは隠せない。ダリオはわたしの顔を見て、何があったかを察したのだろう。何も聞かず、自分の作業台に座った。
「ダリオさん。グスタフが──エーファの養育権をわたしに渡すと」
ダリオの手が止まった。工具を握ったまま、こちらを見た。
「それから──体が悪いと。長くないと、医師に」
沈黙。工房の壁の時計が、静かに時を刻んでいる。時間は止まらない。人が変わっても、過ちを犯しても、時間だけは正確に進み続ける。
「養育権の書類は、王妃様に提出する必要がある。急いだほうがいい」
ダリオの声は冷静だった。でも目が──わたしを案じている。グスタフの病状がどうなろうと、エーファの養育権を確定させることが最優先だ。グスタフが亡くなってからでは、手続きが複雑になる。イルマが介入する隙を与えてはならない。
「はい。今日中に王妃様に面会を申し込みます」
◇
王妃様は書類を受け取り、一枚ずつ確認した。
「グスタフ・ハイリゲンの署名ね。──正式な書式で、不備はないわ」
「王妃様。この書類を宮廷の記録に登録していただけますか」
王妃様の手が書類の上で一瞬止まった。グスタフの署名を見つめている。この方もまた、宮廷の人間関係の複雑さを知り尽くしている。
「もちろん。ただし──」
王妃様が顔を上げた。目に複雑な色がある。
「グスタフが体を悪くしていることは聞いているわ。もし彼が亡くなった場合、ハイリゲン家の当主が不在になる。そうなると──イルマが家の管理権を主張する可能性がある」
「イルマが──」
「あの女は、正式な伯爵夫人としての地位をまだ持っている。宮廷への出入りは禁じたけれど、ハイリゲン家の内部は別の問題よ。グスタフが亡くなれば、イルマが家の実権を握り、エーファの養育権にも異議を唱えるかもしれない」
胸が冷えた。一瞬の安堵が消えた。グスタフの手紙に安堵していた自分が甘かった。一つの扉が開いても、別の扉が閉じる。イルマはまだ──戦えるカードを持っている。
「王妃様。養育権の登録を急いでいただけますか。グスタフの署名があるうちに」
「今日中に処理するわ。──ノエルさん」
「はい」
「エーファを守りなさい。あなたなら、できるわ」
王妃様の声に力がこもっていた。母として──わたしの中の母を認めてくれている。
工房に戻ると、エルザが通信用の小板を手に、険しい顔をしていた。
「ノエルさん。ハイリゲン家から情報が入りました」
「何があったの」
「グスタフ様が──倒れたそうです。今朝、食堂で。意識はあるものの、立てない状態だと。医師が駆けつけましたが──」
エルザの声が震えた。かつてハイリゲン家の侍女だった彼女にとっても、複雑な知らせだろう。
「エーファは?」
「エーファちゃんは無事です。アンナさんがそばについています」
アンナがそばにいるなら、大丈夫だ。あの温かい人が守ってくれる。
王太子の面会。グスタフの手紙。養育権の書類。グスタフの容体。すべてが同時に動いている。時間がない。
「ダリオさん。ハイリゲン家に行きたい」
ダリオが工具を置いた。迷いのない動作で。いつもそうだ。わたしが決めた瞬間に、この人はもう動いている。
「行くぞ。馬の手配をする」
この人はいつも、わたしが動くと決めた瞬間に、もう動いてくれている。
コンラートが走ってきた。
「ノエルさん、ぼくも──」
「コンラート。あなたは工房を守っていて。エルザと一緒に」
コンラートの目が赤くなった。でもうなずいた。工房を守ること。それも大切な仕事だ。
馬車に乗り込む前、ダリオがわたしの手を取った。一瞬だけ。強く、短く。掌が温かかった。
「行くぞ」
「はい」
馬車が王都の石畳を走り出した。あの屋敷に向かっている。九年間を過ごした場所に。今度は──奪われるためではなく、守るために。あの頃のわたしとは、もう違う。隣にダリオがいる。もう一人ではない。




