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夫の愛人の隠し子を九年育てましたが、そろそろ自分のために生きます  作者: 渚月(なづき)
第4章

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第31話 封蝋の向こう側

見覚えのない紋章だった。


鷲と剣を組み合わせた意匠。封蝋は深い紫色で、押し方が丁寧だ。急いで封をした人間の蝋ではない。時間をかけて、正確に押している。一画一画、丁寧に押した人間の手による封書。


ダリオが隣で封書を見つめている。


「心当たりは?」


「ない。この紋章は──見たことがないわ」


工房の灯りの下で封書を裏返す。宛名は「ノエル・カペル殿」。正式技師としての名前が使われている。差出人の名はない。


「開けるか」


「ええ」


封蝋を慎重に割った。中には一枚の便箋。筆跡は流麗で、教養のある人物のものだとすぐにわかった。


『ノエル・カペル殿。貴殿の技術と勇気に深い敬意を表します。ヴェンツェル殿下の件について、お話ししたいことがございます。明後日の午後、北棟の東回廊にてお待ちしております。──クリストフ』


クリストフ。その名に心当たりはなかった。だがダリオの顔色が変わった。


「ダリオさん、知っている名前ですか」


「……クリストフは、王太子殿下の名だ」


王太子。殿下の兄にして、王位継承権の筆頭。蟄居が命じられた今、宮廷の権限は王太子に集中しつつある。


「王太子殿下が──なぜわたしに」


「ヴェンツェルの処分に関わることだろう。兄として何か伝えたいことがあるのか、あるいは──」


ダリオが言葉を切った。革の前掛けの紐を締め直す。考え事の癖だ。


「あるいは?」


「政治的な意図があるか、だ。技師であるお前に接触する理由は限られている」


「会うべきでしょうか」


「会わない理由はない。ただし──一人では行くな」


ダリオの目が鋭い。わたしを守ろうとしている。


「一緒に来てくださいますか」


「当然だ」


短い答え。でもその二文字に、昨夜と同じ温もりがあった。隣にいる。それがこの人の答え方だ。




翌日、エルザに相談した。


エルザは工房の事務机で書類を整理していた。


「王太子殿下が──ノエルさんに?」


「ええ。クリストフという名で封書が届いた」


エルザの手が止まった。目が鋭くなる。イルマのそばで培った観察力が、こういうときに光る。


「王太子殿下は──ヴェンツェル殿下とは違うタイプの方です。殿下が権力を使って人を動かすなら、王太子殿下は──人の心を使って人を動かします」


「つまり?」


「表面上は穏やかで、理解者のように振る舞います。でも──イルマ様が以前、『あの方だけは読めない』と言っていました」


背筋に冷たいものが走った。あの計算高いイルマが警戒する人物。


「気をつけます」


「ダリオさんと一緒なら大丈夫だと思いますが──念のため、わたしも近くにいます。何かあれば通信用の小板で」


エルザが胸元から銀の小板を見せた。何かあれば連絡できる。


コンラートが紅茶を持ってきた。三人分。自分の分は含まれていない。


「自分の分も淹れてきなさい。命令よ」


コンラートがぱっと笑って、走っていった。


翌日の午後。北棟の東回廊は静かだった。ダリオが隣を歩いている。


回廊の奥に、一人の男性が立っていた。


穏やかな目元。温かみのある顔立ち。微笑みが自然で、作り物には見えない。でも──エルザの言葉が頭にある。


「ノエル・カペルさんですね。お目にかかれて光栄です」


声も穏やかだった。威圧的なところがない。ヴェンツェル殿下が氷なら、王太子は──陽だまりだ。でも陽だまりにも影はある。太陽の光が強いほど、影は濃くなる。


「クリストフ殿下。このたびはお呼びいただき、ありがとうございます」


「堅苦しいのは苦手でしてね。ダリオも一緒か。久しぶりだな」


ダリオが軽く頭を下げた。二人は面識があるらしい。主任技師として、王太子と顔を合わせる場面もあったのだろう。


「殿下。ご無沙汰しております」


王太子がわたしに視線を戻した。穏やかな笑みの奥で、確実にわたしを測っている。ダリオと同じ精密な視線。でもダリオの観察には温もりがある。王太子の観察には──意図がある。


「ヴェンツェルの件、お疲れ様でした。弟の不始末を、一介の技師が正したわけだ。──いや、失礼。一介などとは言えないな。あなたは宮廷の歯車を動かした人だ」


「恐れ入ります」


「わたしからお伝えしたいことがある。ヴェンツェルの処分について──父上は近く最終決定を下される。蟄居の延長か、王籍剥奪か。わたしとしては、弟にもう一度やり直す機会を与えたいと思っている」


やり直す機会。温情のある言葉だ。兄として弟を案じている──ように聞こえる。王妃様がわたしに「潰さないでほしい」と言ったのと似た願い。


でも──何かが引っかかった。殿下の処分は国王陛下が決める。技師のわたしに言っても、判断は変わらない。


「殿下のお気持ちは理解いたします。わたしは──事実を報告しただけです。処分はわたしが決めるものではありません」


王太子が微笑んだ。満足げに。


「聡明な方だ。──もう一つ、お願いがある」


「何でしょう」


「今後の宮廷における魔道具技術の発展について、わたしに直接報告をいただけないだろうか。技術委員会を通すと時間がかかる。あなたのような優秀な技師と、直接やり取りができれば──宮廷のためになる」


直接報告。技術委員会を迂回する提案。わたしを自分の影響下に置く誘いだ。手法が違うだけで、殿下と構図は同じだ。


「ありがたいお申し出ですが──わたしは技術委員会の手続きに従います。公正な過程を経ることが、技術への信頼を守ることだと考えておりますので」


王太子の笑みがわずかに硬くなった。一瞬だけ。すぐに穏やかな表情に戻る。


「もちろん。無理は申しません。──今後ともよろしくお願いします」


面会は終わった。回廊を戻る途中、ダリオが小声で言った。


「よく断った」


「でも──あの人は、簡単には引き下がらないでしょう」


「ああ。殿下より厄介かもしれない。殿下は力で押す。王太子は──懐に入り込む」


工房に戻ると、エルザが待っていた。通信の小板を握りしめたまま、こちらを見つめている。


「どうでした」


「王太子殿下は──味方のふりをする人でした」


エルザの目が曇った。


「やっぱり。イルマ様が恐れていた人ですもの」


四つの杯が作業台に並んだ。ダリオ、わたし、エルザ、コンラート。この四人が──わたしの味方だ。


でも──机の上に、もう一通の封書が届いていた。今度の差出人は──グスタフだった。あの男の筆跡を、わたしは忘れていない。九年間の婚姻生活で、たった一度だけもらった手紙の筆跡。離縁の通知だった。その同じ筆跡が──今、わたしの作業台の上にある。何を書いてきたのか。嫌な予感が、指先を冷たくした。



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