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夫の愛人の隠し子を九年育てましたが、そろそろ自分のために生きます  作者: 渚月(なづき)
第3章

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第30話 受け継ぐ者たちの夜明け

ヴェンツェル殿下の蟄居が宣告されてから、五日が過ぎた。


宮廷は静かだった。嵐の後の凪のように。空気が軽い。廊下の空気さえ、殿下の蟄居前とは違う。重石が外れたように、人々の足取りが軽くなった。廊下を歩く人々の足音が、以前より穏やかに聞こえる。すれ違う人々がわたしに会釈をする。


正式技師としてではなく──名前を呼んで。



第二工房は閉鎖された。ベルント商会の営業停止に伴い、雇われていた人々は解雇された。エルザの弟もその一人だ。


「弟は田舎に帰りました。もう巻き込まれることはないわ」


エルザの声には安堵があった。通信用の小板ではなく、工房で直接顔を合わせて話している。もう隠れて連絡を取る必要がない。堂々と、声を出して。肩の力が抜けている。この数ヶ月間、イルマのそばでどれほどの重圧を背負っていたのか。


常に演技を続け、わたしへの情報提供を隠し通す日々。一歩間違えば自分の立場が危うくなる。それでもエルザは──止まらなかった。あの庭園で初めて会ったとき、泣いていた女性が今──背筋を伸ばしてわたしの前に立っている。人は変われる。


環境が変われば、人も変わる。あの屋敷で萎縮していたわたしが変わったように、エルザもまた、自分の足で立っている。


「エルザ。あなたはこれからどうするの」


「イルマ様の侍女は──もう務まりません。というより、務める必要がなくなりました」


イルマはグスタフの元に戻された。宮廷への出入りは禁じられ、ハイリゲン伯爵家の屋敷に軟禁状態だという。グスタフも──イルマに操られていたことが明るみに出て、伯爵の爵位を剥奪されはしなかったものの、宮廷からの信用は地に落ちた。


あの屋敷で九年間わたしを閉じ込めていた男が、今度は自分が閉じ込められている。皮肉ではあるが、そこに快感はない。ただ──終わったのだという感慨だけがある。


「エルザ。ひとつ聞いていい?」


「何?」


「これからやりたいことはある?」


エルザが少し考えた。それから、小さく笑った。初めて見る、屈託のない笑顔だった。庭園でも、廊下でも、一度も見せなかった笑顔。


「誰かの役に立つ仕事がしたい。もう──誰かの影に隠れて生きるのは嫌」


「王立工房で、人手が足りていないの。事務仕事だけれど──来る?」


エルザが目を見開いた。


「わたしが──工房に?」


「あなたの観察力と判断力は、わたしが保証するわ。イルマのそばであれだけの情報を集め、適切なタイミングで伝えてくれた。それは立派な能力よ」


エルザの目に涙が浮かんだ。今度は悲しみではなく、温かいものだった。ようやく──流していい涙だ。


「ありがとう。──行くわ」


エルザが工房に加わった日、コンラートが花を一輪持ってきた。作業台の隅に置かれた小さな花瓶に、黄色い野花が一本。


「歓迎会です」


「花一本で歓迎会?」


「気持ちの問題です!」


工房に笑い声が響いた。この音が好きだ。歯車の回転音より、やすりの削る音より、何よりも好きな音。こんな風に笑える場所が、わたしの居場所だ。ダリオが工具を手に取りながら、口元を隠していたが──笑っていた。間違いなく。



エーファの養女手続きは、王妃様の判断で正式に却下された。ヴェンツェル殿下の蟄居に伴い、殿下が関与するすべての手続きが凍結されたためだ。


エーファは──まだハイリゲン家の屋敷にいる。グスタフとイルマのもとに。でも状況は変わった。


王妃様がわたしを呼んだ。


「ノエルさん。エーファのことだけれど──あの子の養育権について、検討する用意があるわ」


「養育権──わたしに?」


言葉が出なかった。唇が震えた。九ヶ月前に屋敷を出た日から──ずっと、この日を夢見ていた。エーファのそばに戻ること。あの子を抱きしめること。うさぎのぬいぐるみの耳を直してあげること。おやすみなさいを言うこと。でも夢見ることしかできなかった。


それが──現実になろうとしている。


「あなたが九年間育てた子よ。血の繋がりはなくても、あの子にとっての母はあなたでしょう。グスタフの伯爵家は今、宮廷の監視下にある。子どもを適切に養育する環境とは言えないわ」


胸が震えた。言葉にならないものが込み上げてくる。


「すぐにとはいかないわ。手続きが必要だし、グスタフの同意も要る。でも──道は開けた」


「ありがとうございます。王妃様」


声が震えた。目頭が熱い。視界が滲む。でも──泣かなかった。嬉しいときに泣くのは、もう少し先でいい。本当にエーファを抱きしめられたときに、取っておく。その日は──もう遠くない。手続きが済めば、エーファをこの王都に迎えられる。


工房の近くに部屋を借りて、二人で暮らす。毎日おはようを言って、おやすみを言う。当たり前の日常が、わたしにとっては何よりの宝物になる。


工房に戻ると、机の上にアンナからの手紙が届いていた。いつもの木曜日の手紙。


封を開けると、今度はエーファの便箋が二枚入っていた。


一枚目。


『おかあさまへ。うさぎさんのみみ、じぶんでぬいました。まがってるけど、とれません。おかあさまみたいにじょうずじゃないけど、がんばりました。エーファ』


読み終えて、手紙を胸に押し当てた。この子は──強い子だ。わたしが教えた縫い方を思い出して、一人で直した。曲がっていても、取れなければいい。完璧でなくてもいい。自分の力でやり遂げたことに、意味がある。


二枚目には、絵が描いてあった。うさぎのぬいぐるみと、女の人が並んでいる絵。女の人の手は──歯車を持っている。


わたしだ。


エーファが描いたわたしは、歯車を持って笑っている。線はたどたどしいが、色は丁寧に塗られている。わたしの髪は茶色で、エプロンは青い。ちゃんと見ている。この子は、ちゃんとわたしを見ている。この子は知っている。わたしが何をしているのか。


離れていても、わたしを見ている。


涙が落ちた。今度は止めなかった。便箋に丸い染みが増えていく。でも──温かい涙だった。


ダリオが工房に入ってきて、わたしが泣いているのを見た。一瞬だけ足を止め、それから何も言わずに自分の作業台に座った。向かい合って、わたしが泣き止むのを待っている。


しばらくの間、工房は静かだった。わたしの鼻をすする音と、ダリオの工具が静かに動く音だけが響いていた。


泣き止んで、鼻をすすって、深呼吸をした。


「……見ないでください」


「見てない」


「嘘つき」


「……少しだけ見た」


「嘘は言わない主義だ」


笑ってしまった。泣きながら笑うのは奇妙な感覚だった。でも──悪くなかった。この人の前では、泣いても笑っても、どちらでもいい。ありのままでいられる。それがどれほど貴重なことか、九年間閉じ込められていたわたしには、よくわかる。


エーファの絵をそっと工具入れの蓋の裏に貼った。工房で作業するたびに、この絵が見える場所に。


コンラートが走ってきた。


「ノエルさん! 技術委員会から通達です!」


「何?」


「第二世代暖房魔道具の公共施設への導入が──正式に承認されました! 独占ではなく、王立工房の管理のもとで! しかも、今後の改良開発もノエルさんの主導で進めてほしいと!」


ダリオが小さく口元を上げた。コンラートが両手を上げて踊った。エルザが拍手した。


わたしは──拳を胸の前で握りしめた。勝った。技術が、嘘に勝った。公正が、利権に勝った。空気中の魔力を集めて温もりに変える──その小さな発想が、魔石の独占という巨大な構造を崩した。技術は正しく使えば、世界を良い方向に変えられる。


それを証明できた。


でもこれは終わりではない。まだ道の途中だ。ヴェンツェル殿下の処分が確定していない。イルマもグスタフもまだ決着がついていない。エーファの養育権も、手続きはこれからだ。


それでも──足元は固まった。あの屋敷を出た日、何もなかった。技術も、仲間も、居場所もなかった。今は全部ある。自分の手で掴み取ったものばかりだ。仲間がいる。技術がある。そして、守りたいものがはっきりとある。



窓の外に春の風が吹いていた。屋敷を出た日、ヴァイスブルクの城門をくぐった日、王宮の石畳を踏んだ日──すべてが、今ここに繋がっている。


工房の棚に並んだ魔道具が、魔道具灯の光を受けて静かに輝いている。その中に一つだけ、他よりも明るく光るものがあった。


あの日、屋敷の寝室で直した小さな置き時計。すべての始まりだった歯車が、今も正確に時を刻んでいる。


ダリオが隣に来た。二人で並んで、窓の外を見た。春の陽光が工房に差し込んでいる。


「……いい風だな」


「ええ」


言葉は少なかった。でも──隣にいる温もりが、何よりも多くを語っていた。


その隣に──差出人のない封書が一通、置かれていた。封蝋の紋章は、見覚えのないものだった。新たな嵐の予兆か、それとも──。


わたしは封書を手に取り、ダリオと顔を見合わせた。何が来ても、もう一人ではない。隣にダリオがいる。工房にコンラートとエルザがいる。遠くにエーファがいる。そして──リュシエンヌ様の遺志が、わたしの中に生きている。


封書の封蝋に指を触れた。冷たい。でも──怖くはなかった。


第3章完結となります!

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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