第29話 砕かれた嘘の城
国王陛下の調査命令は、宮廷に静かな激震を走らせた。
表向きは「王室直轄鉱山の産出管理に関する点検」という穏やかな名目だったが、宮廷に生きる者なら行間を読む。その矛先がヴェンツェル殿下に向いていることは、宮廷の人間なら誰でもわかった。廊下での会話が小声になり、目が泳ぐ者が増えた。
これまで殿下に擦り寄っていた者たちが、急に距離を取り始めている。風向きが変わったことを、全員が肌で感じていた。
調査の実施にあたり、国王陛下はアルヴィン侯爵を調査責任者に指名した。
それを聞いたとき、わたしの息が止まった。侯爵は殿下側の人間だ。調査を骨抜きにされるのではないか。
わたしは工房でダリオに報告した。ダリオは革の前掛けの紐を締め直しながら、違う見方を示した。
「陛下は試しているんだ。侯爵が──殿下ではなく真実を選ぶかどうかを」
「もし殿下を選んだら?」
ダリオの目は鋭かったが、どこか安堵も混じっていた。陛下が本気で動いたことへの安堵だ。
「そのときは、侯爵もろとも処分される。陛下にとっては、どちらに転んでも結果は同じだ」
侯爵に残された選択肢は、二つしかない。殿下を守り自分も沈むか、真実を報告して殿下との鎖を断ち切るか。リュシエンヌ様の言葉が蘇った。──『いつか鎖を断ち切る機会が来る。そのとき手を差し伸べてあげなさい』。今がその「いつか」だ。
調査は三日間にわたって行われた。
調査の間、わたしは工房で待つしかなかった。直接関与すれば、告発者の客観性が疑われる。第二世代の暖房魔道具の微調整をしながら、エルザからの通信を待った。手は動いているが、頭の半分は別のところにある。コンラートが何度も紅茶を淹れてくれた。
誰も口に出さないが、全員が同じことを考えている。侯爵は──どちらを選ぶのか。
初日、侯爵は鉱山の産出記録を精査した。わたしが公開資料から読み取った乖離を、侯爵は内部資料で裏づけた。消えた魔石の量は──わたしの推計よりもさらに大きかった。公開資料だけでは見えなかった闇が、内部資料によって白日の下にさらされたのだ。
二日目、侯爵はベルント商会の事務所に立ち入り調査を行った。フランツは丁寧な笑みを浮かべて応対したが、倉庫の奥から産地の刻印が削られた大量の魔石が見つかった。エルザの弟が荷降ろしを手伝ったと証言した、あの魔石だ。
エルザの勇気が、ここで実を結んでいる。
三日目、侯爵は第二工房を直接視察した。
そこで侯爵が見たものは──記録室から抜かれた三つの書類だった。フランツの執務机の引き出しに保管されていた。わたしが予測した通りだ。廃棄すれば証拠隠滅の罪になるから、手元に残す。
安全な隠し方のつもりだったのだろうが──調査が入れば、真っ先に見つかる場所だ。
「すべて揃っている。発注記録、品質検査報告、議事録。間違いなく記録室から持ち出されたものだ」
侯爵の報告を受けて、国王陛下は宮廷に緊急の評定を招集した。
わたしに報告が届いたのは、三日目の夕方だった。ダリオが走って──ダリオが走るのを初めて見た──工房に飛び込んできた。
「評定が招集された。大広間だ」
◇
評定の場は大広間だった。石造りの壁に松明が灯され、長い影が揺れている。
国王陛下が上座に着き、王妃様がそばに控えている。わたしは傍聴席の端に座った。ダリオが隣にいる。コンラートは工房で待っている。「ぼくも行きたい」と言ったが、年齢制限で入れなかった。
ヴェンツェル殿下は右手の席に座っていた。顔には余裕の表情を貼りつけているが、目が泳いでいた。瞬きが多い。
イルマもフランツも傍聴席にいた。イルマの完璧な微笑は──すでに崩れかけていた。唇の端が引きつり、手が膝の上で組み直されている。
アルヴィン侯爵が前に立った。
調査報告。産出量の乖離。魔石の密輸。記録の持ち出し。第二工房への流用。すべてが淡々と、事実として読み上げられた。わたしが集め、エルザが伝え、王妃様が繋いだ点と点が、侯爵の声によって一本の線になっていく。侯爵の声は震えていなかった。
覚悟を決めた人間の声だ。あの廊下で「考えておく」と言った人が、今ここで答えを出している。
報告が終わったとき、殿下が立ち上がった。
「侯爵。お前は──わたしを裏切るのか」
広間が凍りついた。
侯爵は殿下を見上げた。白い髭を蓄えた顔に、深い皺。その目に涙はなかったが、痛みがあった。長い鎖を断ち切る痛み。でも──その目に後悔はなかった。
「裏切ってはおりません、殿下。わたしは──真実を選んだだけです」
殿下の顔から表情が消えた。
「これがお前の選択か」
「はい。わたしの最後の選択です。技術委員会の委員長として──公正であることを選びました」
国王陛下が口を開いた。
「ヴェンツェル。弁明があるなら述べよ」
殿下は数秒の沈黙の後、口を開いた。
「父上。すべてはベルント商会の──」
「殿下」
フランツが立ち上がった。柔らかい笑みはもうない。蒼白な顔に、冷たい目。追い詰められた商人の顔だ。
「わたしは殿下のご指示に従ったまでです。すべての取引は殿下の署名入りの書簡に基づいて行われました。その書簡は──ここに」
フランツが懐から束ねた書簡を取り出した。共犯者が互いを差し出す──崩壊の瞬間だった。砂上の楼閣は、一枚の柱を抜いただけで全体が崩れる。フランツが抜いた柱は、殿下への忠誠だった。沈む船からは降りる。フランツは最初から商人だ。
利益のない側には留まらない。あの柔らかい笑顔の下には、常に計算があった。最初にわたしに接触してきたときから──あの男は出口を探していたのかもしれない。
殿下の顔が歪んだ。怒りと恐怖が入り混じっている。
「フランツ──貴様──」
イルマが傍聴席から立ち上がりかけて、足がもつれた。深紅のドレスの裾を踏み、よろめいた。完璧だった微笑が完全に剥がれ落ち、下から出てきたのは──恐怖の顔だった。あの屋敷でわたしに見せていた余裕の仮面が、今度こそ割れた。
国王陛下が静かに宣告した。
「ヴェンツェル。王族としての特権を一時停止し、調査が完了するまで蟄居を命じる。ベルント商会は営業停止。関係者の処分は追って通達する」
殿下が広間から退出する足音。イルマが侍女に支えられて去っていく姿。フランツが衛兵に連行される音。嘘で固めた城が、音を立てて崩れていく。リュシエンヌ様が三十年かけて集めた記録が、今日この瞬間のためにあったのだと思った。
あの方が守り続けた事実が、嘘を砕いた。
わたしは広間の隅に立っていた。拳を握りしめていたことに、今になって気づいた。爪が掌に食い込んでいる。でも──達成感とは少し違う感情が胸にあった。
イルマの恐怖の顔を見たとき、スカッとしたかと問われれば──しなかった。ただ、長い嘘がようやく終わる安堵があった。それだけだ。イルマを憎む気持ちは、いつの間にか薄れていた。憎しみよりも──この先に待つものへの期待のほうが大きい。
ダリオが隣に来た。何も言わなかった。ただ肩が触れた。温かかった。この温もりを、わたしは知っている。工房で、廊下で、昨夜の食卓で。少しずつ積み重ねてきた温もり。それで十分だった。
評定の後、アルヴィン侯爵がわたしのもとに来た。
「カペル。お前の言った通りだった。王妃様が──わたしの領地と家族を守ると約束してくださった」
「リュシエンヌ様が、そう導いてくださったのだと思います」
侯爵が深くうなずいた。
「あの方の設計図は──正確だったな」
リュシエンヌ様。あなたの人の設計図は──間違っていませんでした。
◇
広間を出たとき、エルザが廊下に立っていた。傍聴席には入れなかったが、扉の外でずっと待っていたのだ。唇を噛み、拳を握りしめ、結果を待ち続けていた。泣いていた。声を殺さず、初めて声を上げて。
「終わったの──?」
「ええ。終わったわ」
エルザの手を握った。冷たい指が、少しだけ温まった。この手が、何ヶ月もの間、わたしに情報を届けてくれた。この手が、弟を守りながら、わたしたちの戦いを支えてくれた。
でも──まだ終わっていないことがある。エーファの養女手続き。殿下が蟄居を命じられた今、手続きは止まるはずだ──が、確証はない。
王妃様が廊下の向こうからこちらを見ていた。小さくうなずいている。その目が語っていた。──エーファのことは、任せなさい。
わたしは深く頭を下げた。言葉が出なかった。感謝と安堵と、まだ終わっていないという緊張と。すべてが混じり合って、胸がいっぱいだった。
ダリオがそっとわたしの背に手を添えた。支えるように。導くように。工房に帰ろう──その手が語っていた。わたしたちの場所へ。戦いの跡を癒し、次の一歩を踏み出すための、温かい場所へ。
嵐が過ぎた。でも──空はまだ晴れていない。




