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夫の愛人の隠し子を九年育てましたが、そろそろ自分のために生きます  作者: 渚月(なづき)
第3章

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第27話 嵐の前の設計図

第二世代の暖房魔道具の完成が近づいていた。


工房の作業台には、三ヶ月分の試作品の残骸が並んでいる。失敗した歯車、割れた筐体、焼け焦げた配線。一つ一つが学びの跡だ。失敗のない成功はない。ダリオが言っていた。「成功は失敗の数で決まる。多く失敗した者が、最後に正解にたどり着く」と。


自己復元構造の歯車に加え、魔力の収集効率をさらに上げる改良を施した。歯車の表面に微細な溝を刻み、空気中の魔力がより多く歯車に引き寄せられるようにした。溝の深さは髪の毛一本分。刻むのにはルーペと極細のやすりが必要だった。


一本の溝を刻むのに二十分かかる。歯車一枚に百二十本の溝。五層で六百本。三日がかりの作業だった。指先が痺れ、目がかすむ。でも──一本一本に意味がある。手を抜けば性能に出る。


肉眼ではほとんど見えないが、この溝があるとないとでは出力が段違いだった。目に見えないほどの工夫が、目に見える結果を生む。技術とはそういうものだ。地味で、地道で、でも確実に世界を変える。


計測器の針が安定を示した。何度測っても同じ値。出力は第一世代の三・二倍。目標の三倍を超えた。あの夜、ダリオの前で「三倍にする」と宣言してから、どれほどの時間が経ったか。数えきれない失敗の先に、この数字がある。


「これなら一般的な居室を十分に暖められます。しかも魔石を一切使わない」


コンラートがデータを読み上げた。声が弾んでいる。引き抜きの件が片づいてから、この少年はますます真剣に仕事に打ち込んでいる。やすりの腕が格段に上がった。わたしの設計図を見て、自分で部品を削り出せるようになった。


最初は歯車の一枚も満足に削れなかった子が、今では精密部品を任せられる。教えることの喜びを、わたしは初めて知った。自分が学んだことを、次の誰かに渡す。リュシエンヌ様がわたしに記録の大切さを教えてくれたように。


シャルロッテ先生がダリオに技術を授けたように。


ダリオが完成品を手に取り、じっくりと観察した。この瞬間がいつも緊張する。ダリオの検品は妥協がない。わずかな歪みも、微細な傷も、見逃さない。裏蓋を開け、歯車の一つ一つを指で確かめる。回転させ、止め、また回す。


表面の溝に爪を当て、深さを確認する。この人の検品は、わたしの設計より厳しい。


長い沈黙。歯車を回し、止め、傾け、光に透かす。一分が永遠に感じられた。


「問題ない。いや──問題がなさすぎる。設計も施工も隙がない」


わたしの心臓が跳ねた。ダリオが「隙がない」と言うことは滅多にない。いつも何かしら改善点を指摘する人だ。それが──何も指摘しなかった。


「褒めていますか」


「事実を言っている」


「それは褒めていますね」


ダリオが小さく笑った。それから真顔に戻った。


「これを公表する。技術委員会と王室への正式な報告として」


ダリオが完成品をテーブルに戻した。丁寧に、大切そうに。認めた技術には敬意を払う人だ。


「ただし──タイミングが重要だ」


「ヴェンツェル殿下が第二工房の設立認可を再度申請してくるはずです。前回は保留でしたが、殿下が引き下がるとは思えない。再申請のときに、この技術を公表する」


「そうだ。第二工房の存在意義を技術的に無効化する。魔石に依存しない暖房が実現すれば、魔石の供給を握ることに意味がなくなる。ベルント商会の独占戦略そのものが崩れる」


「でもそれだけでは、殿下の不正そのものは暴けません」


「だから二段構えだ。技術で土台を崩し、証拠で壁を崩す。同時に」


ダリオの言葉に、わたしの考えが重なった。二人の設計図が一つになる感覚。歯車が噛み合うように。わたしたちは──いつの間にか、同じものを見ている。同じ方向を向いている。技術の話をしているのに、そこに信頼と──もう少し別のものが混じっている。


「アルヴィン侯爵が鍵を握ります。侯爵が殿下から離れれば、技術委員会の議決を正当に動かせる」


「侯爵は動くと思うか」


「……わかりません。でも、機会を作ることはできます」



侯爵のことも話した。ダリオは黙って聞いていた。それから一言だけ言った。


「侯爵が動くなら、証拠を先に固めておくべきだ。王妃様と話をつけろ」


「はい。明日、面会を申し込みます。王妃様には、殿下の養女計画のことも伝えなければ」


ダリオの表情が引き締まった。エーファの名前が出ると、この人は少しだけ顔つきが変わる。わたしがエーファをどれほど大切に思っているか、知っているのだ。


コンラートが帰った後、エルザに通信で状況を伝えた。第二世代が完成したこと。これから公式に動くこと。エルザは短く「気をつけて」とだけ返してきた。三文字に込められた心配が、銀の小板を通して伝わってきた。エルザもまた、自分の弟のために戦っている。


わたしたちはそれぞれの大切な人を守るために、ここにいる。


その夜、わたしは遅くまで工房に残った。設計図の最終確認をしながら、頭の中でもう一つの設計図を描いていた。人の設計図──リュシエンヌ様が遺した言葉を手がかりに。侯爵の鎖はどこにあるのか。どうすれば外せるのか。


作業台の上の設計図を丸め、棚に戻した。ふと窓の外を見ると、月が出ていた。あの丸い月だ。工房に来た最初の夜にも見た月。あのときはまだ、明日がどうなるかもわからなかった。今は──明日のために戦える自分がいる。


扉がノックされた。


「まだいたのか」


ダリオが入ってきた。手に二つの杯を持っている。温かい飲み物。湯気が魔道具灯の光を受けて、ゆるやかに立ち上っている。


「差し入れです?」


「差し入れではない。一緒に飲むんだ」


その言い方が──不器用で、でもまっすぐで、胸が少し痛くなった。この人は、一人で飲み物を飲む夜をどれだけ過ごしてきたのだろう。シャルロッテ先生が去ってから、工房に残るのはいつもダリオ一人だった。


杯を受け取った。指先が触れて、温もりが伝わった。飲み物の熱と、もう一つの温もりと。どちらがどちらかわからなくなる。指先がまだ触れ合った場所を覚えている。


向かい合って座る。設計図の広がったテーブル越しに。ダリオは杯を両手で包んでいた。大きな手だ。節くれだった指。爪の間にやすりの粉が残っている。この手が魔道具を直し、歯車を削り、コンラートに工具の使い方を教え、舞踏会の夜にわたしの手を取った。


「ノエル」


名前を呼ばれた。「さん」がない。初めてだ。心臓が一拍飛んだ。呼び方が変わるだけで、距離が変わる。空気が変わる。


「終わったら──全部が片づいたら、お前はどうしたい」


どうしたい。考えたことがなかった。ずっと目の前のことに必死で、その先を考える余裕がなかった。屋敷にいた頃は「明日」すら見えなかった。今は──少しだけ遠くが見える。


「……エーファのそばにいたい。それと──技師として、作り続けたい。誰かの生活を少しだけ楽にするものを」


「それだけか」


「それだけです。大きな望みじゃないけれど」


「十分だ」


静かに言った。それから──視線を上げた。わたしの目を見た。普段は目を合わせないこの人が。


ダリオが杯を傾けた。視線はテーブルの上の設計図に落ちているが、見ているのは設計図ではないと──なんとなく、わかった。


「わたしも同じだ。作り続けたい。隣に──お前がいればいい」


呼吸が止まった。一拍。


言葉は短かった。飾りもなく、熱もなく、ただ事実を述べるように。でもその事実が、胸の奥を静かに震わせた。告白と呼ぶには淡く、沈黙と呼ぶには温かい。劇的な言葉ではない。膝をついて指輪を差し出すような場面ではない。


でも──だからこそ、本物だと思った。この人らしい──不器用で、確かな言葉だ。


返事をしなかった。できなかった。言葉にすると壊れてしまいそうな、繊細な何かがこの空間にあった。でも杯を持つ手を、テーブルの上で少しだけダリオの手に近づけた。指先が触れるか触れないかの距離。それが──今のわたしにできる精一杯の返事だった。


ダリオの指が、わずかに動いた。近づいた。触れた。ほんの一瞬。それだけで、十分だった。でも──杯を持つ手が震えなかったのは、嬉しかったからだと思う。


工房の片隅で、第二世代の暖房魔道具が静かに温もりを放っている。二つの杯から立ち上る湯気が、魔道具灯の光に照らされてゆっくりと消えていった。


工房は静かだった。外からは虫の声が聞こえる。王都の夜は、屋敷の夜より賑やかだ。でも──この工房の中だけは、別の時間が流れている。ダリオとわたし、二人だけの時間。歯車のように静かに、確実に。名前のつけられない距離が、少しだけ縮まった夜だった。


忘れない夜になるだろう、と思った。


翌日、エルザから緊急の通信が入った。


『エーファの養女手続きが、三日後に行われます。グスタフ様が同意しました』


温もりが一瞬で消えた。銀の小板を握りしめる指が白くなった。三日。たった三日しかない。温かな夜が、冷たい現実に引き戻される。でも──隣に、ダリオがいる。一人ではない。ダリオの言葉が、まだ耳に残っている。


「隣にお前がいればいい」──その言葉を胸に抱いて、わたしは立ち上がった。エーファを守る。ダリオと一緒に。


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