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夫の愛人の隠し子を九年育てましたが、そろそろ自分のために生きます  作者: 渚月(なづき)
第3章

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第26話 侯爵の選択

エーファを殿下の養女にする──その意味を、一晩かけて考えた。


眠れなかった。天井の染みを数えるのは、屋敷での癖だ。あの頃は百を超えるまで数えていた。今は三つ数えたところで止めた。天井を見つめ、壁を見つめ、指先を見つめた。銀色の光はいつでも灯せるのに、暗闇の中では何の役にも立たないように思えた。


工房の狭い寝台で、毛布を引き寄せて体を丸めた。


枕元にはエーファの手紙がある。「はやくあいたいです」の文字が暗闇の中でも見える気がした。


冷静になれ。感情で動けば足元をすくわれる。技術委員会で学んだことだ。事実を武器にしろ。


イルマの狙いは二つある。一つは、エーファを通じてヴェンツェル殿下との結びつきを強化すること。殿下の養女となれば、エーファは王族に準じる立場になり、イルマの発言力が跳ね上がる。


もう一つは──わたしへの牽制だ。ノエル・カペルを黙らせるための人質だ。エーファが殿下の養女になれば、わたしがエーファに接触すること自体が問題視される。会いに行くどころか、手紙すら届かなくなる。


子どもを盾にする。それがイルマの常套手段だ。九年前もそうだった。エーファの存在そのものを利用して、わたしを屋敷に縛りつけた。子どもを守りたいなら黙っていろ、従え、と。あの女は──子どもを守る気持ちなど最初からない。


宮廷での足場を固めるための駒としか見ていない。九年間わたしが育てた子を、政治の道具にしようとしている。


だがこの計画にはグスタフの同意が必要なはずだ。エーファはグスタフの実子だ。養女に出すにはグスタフの承諾がいる。あの男は──自分の利益にならないことには動かない。だがイルマの言いなりでもある。エルザが教えてくれた。


グスタフはイルマに操られていることすら気づいていないと。自分の意志で判断しているつもりで、すべてイルマの筋書き通りに動いている。哀れな男だ──と思う一方で、その哀れな男の決定がエーファの運命を左右する。


打つ手を考えなければ。時間がない。イルマは行動が早い。思いついたら即座に動く女だ。


工房で一人で考えていても堂々巡りになる。ダリオに相談すると、ダリオは腕を組んで黙考した。革の前掛けをつけたまま、窓辺に立っている。逆光でその表情は見えなかったが、黙っている時間が長いということは、それだけ深刻に受け止めているということだ。


「養女の手続きには王室の認可が必要だ。王妃様が知れば、簡単には通さないだろう。だが殿下が強引に進めた場合、王妃様だけでは止められないかもしれない。国王陛下の判断が必要になる」


窓の外に鳥が飛んでいる。つがいだ。二羽が並んで、朝の空を横切っていく。自由に飛べる翼が、少しだけ羨ましかった。


「国王陛下は──どのような方ですか」


「公正な方だ。先代の時代から、技術の振興に力を入れてこられた。シャルロッテ先生を王立工房に招いたのも陛下だ。だが体を悪くされていて、政務の大半を殿下と王太子に委任している。直接お目にかかるのは容易ではない」


国王陛下に直訴するのは現実的ではない。今のわたしの地位では、陛下への面会は許可されないだろう。別の手を考えなければ。でも──国王に届く声を持っている人間は限られている。王妃様、王太子、そして──技術委員会の委員長。


「アルヴィン侯爵」


わたしの口から出た名前に、ダリオが怪訝な顔をした。


「敵だろう」


「リュシエンヌ様が言っていました。『あの人は根っからの悪人ではない。しがらみに縛られているだけ。いつか鎖を断ち切る機会が来る。そのとき手を差し伸べてあげなさい』と」


ダリオの目が鋭くなった。


「リュシエンヌ様がそう言ったのか」


ダリオの声にかすかな動揺があった。リュシエンヌ様の名前を聞くと、この人は少しだけ表情が変わる。尊敬していたのだろう。あの方のことは、宮廷の誰もが信頼していた。


「はい。侯爵は──殿下に逆らえない事情がある。家族と領地を守るためだと。でも、技術に対しては誠実な人です。展覧会のとき、わたしの作品を認めてくれた。嘆願書の審査でも、公正な判断を下した。


第二世代の試作品を見たときの侯爵の目──あれは政治家の目ではなく、技術を理解する目でした。技術を見る目がある人は、嘘を見抜く目も持っている。あの人の中に──まだ正しいものを選ぶ力が残っていると信じています」


「侯爵を味方にする、と?」


「味方にするのではなく──鎖を外す手伝いをするんです」


ダリオが長い息を吐いた。


ダリオが窓辺から離れ、作業台に手をついた。指先でテーブルを二度叩く。考えがまとまったときの癖だ。


「賭けだな」


「でも、今打てる手の中では最善です」



アルヴィン侯爵への接触は、慎重に行った。


直接侯爵邸を訪ねれば、殿下の耳に入る。手紙も危険だ。だから宮廷の中で、自然な形で接触する必要がある。技術委員会の廊下で、偶然を装って声をかけた。時刻はちょうど会議が終わる頃。侯爵は大柄な体を揺らしながら歩いていた。白い髭、深い皺。


あの鷹のような目が、わたしを見下ろす。この人の目は技術委員会でも一番鋭い。数字のごまかしも、書類の不備も、すべて見抜く目だ。警戒と──かすかな疲労。殿下と委員会の間で板挟みになり続けている人間の顔だ。


「侯爵。先日の委員会で、わたしの発言が不躾でしたらお詫びいたします」


侯爵は立ち止まった。


「詫びる必要はない。お前の指摘は──正当だった」


予想外の言葉だった。侯爵は視線を落とした。


「正当だが、正当なことが通る場所ではない。それがわかっていて言ったのか」


「はい」


「……お前は怖くないのか」


「怖いです。でも黙っている方がもっと怖い。黙り続けた九年間を、わたしは知っていますから」


侯爵の目が揺れた。何かに──共鳴したのだ。この人もまた、黙り続けている。殿下の不正を知りながら、家族を守るために口をつぐんでいる。わたしがグスタフの前で黙っていたのと同じだ。声を上げれば罰がくる。だから黙る。


でも──黙り続ける代償は、少しずつ自分を殺していくことだ。侯爵の疲れた目に、その代償が見えた。


「ノエル・カペル。お前に一つ聞く」


「はい」


「わたしが──仮にだが──殿下と距離を置いた場合、何が起きると思う」


「侯爵の領地と家族に圧力がかかるでしょう。でも──王妃様がそれを許さない。王妃様は侯爵が公正であることを望んでおられます。侯爵が殿下から離れれば、王妃様は侯爵を守ります」


「王妃様が──」


「はい。わたしが保証します」


大きなことを言っている自覚はあった。一介の技師が、王妃の保証を口にしている。でも──根拠のない約束ではない。王妃様は約束を守る方だ。リュシエンヌ様の遺志を継ぐと言った方だ。


侯爵は長い沈黙の後、顎を引いた。


侯爵の目に、何かが灯った。小さな光だ。希望とも決意ともつかない、微かな火。消えるかもしれない。でも、確かに灯った。


「……考えておく」


それだけ言って、去っていった。大きな背中が廊下の角を曲がるまで、わたしは見送った。あの背中が振り返ることはなかった。でも──歩みが少しだけ軽くなったように見えたのは、気のせいだろうか。完全な約束ではない。でも──拒絶でもない。


「考えておく」はこの人なりの誠実さだ。即座にイエスと言えない立場にいる。家族を守らなければならない。領地の民を守らなければならない。その重責を背負ったまま、公正であろうとしている。わたしには、その苦しさがわかる。


リュシエンヌ様が見た亀裂が、少しだけ広がった。


工房に戻ると、コンラートが作業台の前に立っていた。顔が晴れている。目が赤いが、泣き腫らしたのではなく──泣き終わった後の、すっきりした目だ。


「ノエルさん。ぼく、決めました」


「……どう決めたの」


「ここに残ります。この工房で──ダリオ先生とノエルさんと一緒に、勉強させてください」


「いいの? 家族のことは──」


コンラートの目が真っ赤だ。泣いて、考えて、また泣いて──それでもここに戻ってきた。十五歳の決断だ。


「ダリオ先生が、ぼくの実家に手紙を書いてくれたんです。もし困ったことがあれば、先生が個人的に援助すると」


ダリオを見た。作業台で歯車に向かっているが、耳が赤い。


「ダリオさん」


「何だ」


「……ありがとうございます」


「礼はいい。コンラートが自分で決めたことだ」


背を向けたまま歯車を回すダリオの横顔に、笑みはなかった。でも肩の力が抜けているのがわかった。安堵だ。弟子が戻ってきた──その安堵が、広い背中ににじんでいた。この人は、感情を背中で見せる人だ。


言葉では「礼はいい」と突き放すが、安堵は背中に出る。顔を隠しても、背中は嘘をつけない。わたしも──いつか、この人に背中で何かを伝えられるだろうか。


工房の窓から夕焼けが見えた。赤い光が四つの作業台を照らしている。わたしと、ダリオと、コンラートと、これからここに座るかもしれない誰かの。顔は隠しても、背中は隠せない。わたしはもう、この人の背中が読めるようになっている。


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