第23話 壁の向こう側の声
第二世代の暖房魔道具の改良は、予想以上に難航した。
効率を三倍にすると宣言したものの、理想と現実の間には深い溝がある。歯車の精度を上げるほど、集魔機構の繊細さが裏目に出る。わずかな振動で歯車の位置がずれ、魔力の収集効率が急落する。
実験室のテーブルの上では安定して動くのだが、実際の建物に設置すると人の歩く振動でさえ影響を受けた。
設計図を引き直し、素材を変え、歯車の厚みを変え、三日連続で試作品を組み直した。指先は傷だらけで、やすりの粉が爪の間に入り込んでいる。ダリオからもらった工具は手に馴染んできたが、結果はまだ馴染んでくれない。
「また出力が落ちました。振動の問題が解決できません」
コンラートが計測結果を持ってきた。そばかすの頬が心配で曇っている。紅茶も添えてくれていた。この少年は、わたしが行き詰まると必ず温かい飲み物を持ってくる。
わたしは試作品を分解し、歯車を作業台に並べた。一つずつ、慎重に。組み上げるときは集中力が要るが、分解するときにも同じだけの注意が要る。どこで狂ったのかを知るためには、組んだときの逆順で解かなければならない。五層構造の集魔歯車。
理論上は完璧だが、現実の環境では脆い。精密すぎるのだ。完璧に噛み合わせた歯車は、一つが狂えば全部が狂う。理論の美しさに囚われて、現実の荒々しさを忘れていた。
紅茶を一口飲んだ。温かさが指先に伝わる。冷えた指が少しずつほどけていく。この温もりこそ、わたしが作ろうとしているものだ。魔石がなくても、誰もが温かく過ごせる世界。
「精密さが仇になっている。環境の揺らぎを許容する仕組みが必要なのに、わたしはそれを排除しようとしていた」
コンラートが首を傾げた。
「揺らぎを排除するんじゃなくて、受け入れる?」
「そう。揺れても戻る仕組み。振り子と同じ原理──自己復元する歯車配列。歯車それぞれに微小な遊びを設けて、振動を受けたときに一時的にずれても、魔力の流れが自然に歯車を元の位置に引き戻す構造」
完全な固定ではなく、柔軟な安定。揺らぎを敵とするのではなく、味方にする。人間と同じだ。ガチガチに力を入れたら折れる。少しだけ緩みがあるから、しなって耐えられる。
九年間、わたしがあの屋敷で生き延びたのも、折れなかったからではなく──しなったからだ。
「──これだ」
ペンを取り、設計図を描き始めた。コンラートが隣で目を輝かせている。
ペンが止まらなかった。頭の中に歯車の配列が次々と浮かぶ。五層の歯車それぞれに、微小な軸のずれを許容する構造を組み込む。魔力の流れが歯車を正しい位置に引き戻す力──それは重力ではなく、魔力そのものの性質を利用する。
三日間、試作と検証を繰り返した。ダリオは口を出さず、ただ隣の作業台で自分の仕事をしながら、時折わたしの作業台を横目で確認していた。見守っている。師匠が弟子を見守るように──いや、もう少し違う距離感で。
四日目に、試作品が安定した。テーブルを叩いても、床を踏み鳴らしても、出力が落ちない。歯車が一瞬ずれて、すぐに戻る。呼吸するように。
計測器の針が安定している。何度叩いても、何度揺らしても、針は戻る。コンラートと顔を見合わせた。
「出力は第一世代の二・七倍。目標の三倍には届いていませんが、実用水準は超えています」
ダリオが試作品を手に取り、裏蓋を開けた。中の歯車を見つめ、指先で軽く筐体を弾く。歯車が揺れ、戻る。ダリオの目が細くなった。技術を見るときのあの目──鋭くて、でも温かい。この人に認められることが、わたしにとってどれほど大きな意味を持つか。
技術委員会の承認よりも、王妃様の賛辞よりも──ダリオの「考えたな」の一言が、わたしの胸を震わせる。
「自己復元構造か。考えたな」
「精密さだけが答えじゃないと気づくのに、四日かかりました」
ダリオが試作品をテーブルに置いた。置き方が丁寧だった。粗雑に扱わない。認めた技術には、相応の敬意を払う人だ。
「四日で気づいたなら十分だ。わたしは同じ壁に半年ぶつかっていた。──ああ、言うな、年のせいだとか」
「言いませんよ」
笑みが漏れた。二人とも。ダリオの笑顔は珍しい。工房に来た頃は、この人が笑うのを見たことがなかった。舞踏会の夜から、少しずつ変わっている。わたしだけでなく、この人も。工房で二人きりで笑うのは、まだ少し照れくさい。
舞踏会の夜に手を取ってもらってから、ダリオとの距離が少しだけ変わった。何かが始まっているのに、二人ともそれに名前をつけていない。
その夜、エルザから通信が入った。銀の小板に文字が浮かぶ。指でそっと触れると、文字が鮮明になる。
『第二工房に大量の魔石が運び込まれている。弟が荷降ろしを手伝った。産地の刻印が削り取られた魔石が多数あるとのこと』
産地の刻印を削る。それは産地を偽装するためだ。刻印は魔石の出自を証明する唯一の印。それを消すということは、出所を隠すということであり、正規の流通ルートで手に入れたものではないということだ。
正規の流通経路を通っていない魔石──つまり密輸か、盗品か。ベルント商会が宮廷への納品で使っていた手口と同じだ。
「ダリオさん」
通信の内容を見せた。ダリオの顔が険しくなる。眉間に深い縦皺が刻まれた。普段は感情を表に出さないこの人が、ここまで表情を変えるのは珍しい。
「産地を隠すということは、出所を知られたくない魔石だ。可能性は二つ。他国からの密輸か、王室直轄の鉱山から横流しされたものか」
わたしは小板を裏返し、もう一度文面を確認した。エルザの弟が直接見たもの。弟は技師ではないから、刻印が削られていることの意味はわかっていないだろう。でもエルザにはわかる。そしてわたしにも。
「王室直轄の鉱山からの横流しだとすれば──」
「王族の関与なしには不可能だ。ヴェンツェル殿下の権限で、鉱山の産出量を操作できる」
◇
翌日、わたしは早起きして王宮の書庫を訪ねた。正式技師の腕章があれば、書庫の技術関連資料は閲覧できる。リュシエンヌ様が守っていた記録室とは別の、公開された資料の保管場所だ。ここには鉱山の産出報告や宮廷への納品記録がある。
重い革表紙の綴じ込みを開いた。過去五年分の産出記録と、宮廷への納品記録を突き合わせる。地味な作業だが、こういう地道な照合こそが真実を浮かび上がらせる。産出量に対して、宮廷に届いた量が少ない年がある。差分は──消えている。
流れた先が記録にない。
「産出量と納品量の差が、三年前から毎年拡大している。消えた分の行き先が不明です」
ノートに記録を書き写した。ペンを走らせる手が震えていた。怒りではない。確信だ。ここに嘘がある──その確信が手を動かしていた。自分の目で見て、自分の手で確認したものだけを証拠にする。推測ではなく、事実の積み重ね。
リュシエンヌ様が三十年間そうしてきたように。
書庫を出たとき、廊下の向こうにイルマの姿が見えた。
目が合った。深紅のドレスに金の髪飾り。いつ見ても完璧に整った装い。その完璧さが、逆に作り物めいている。イルマは微笑んだ。以前のような余裕の微笑ではない。計算された表情だ。唇の端だけが持ち上がり、目は笑っていない。
「お忙しそうね、ノエルさん。正式技師になって、ますますお仕事が増えたのかしら」
「ええ。おかげさまで」
「あまり根を詰めすぎないようにね。リュシエンヌ様も──過労で倒れたのだから」
脅しだ。リュシエンヌ様の名を出すことで、同じ目に遭わせるぞと暗に告げている。あの方がどのようにして亡くなったか──本当に過労だったのか、それとも別の何かがあったのか。考えたくない想像が頭をよぎった。
リュシエンヌ様の死は、本当に自然なものだったのか。三十年間健康に働き続けた人が、突然倒れるものだろうか。あの方が守っていた記録の重要性を思えば──消されたのではないかという疑念が、どうしても消えない。
「ご心配ありがとうございます。わたしは丈夫ですので」
平坦に答えて、背を向けた。歩き出した足は震えていない。以前は──イルマの笑顔を見るだけで指先が冷たくなった。今は違う。恐れるべきは笑顔ではなく、笑顔の裏にある策略だ。イルマの言葉には必ず意図がある。今日の接触は偶然ではない。
わたしが書庫で何を調べていたか──知っているのだ。監視されている。
工房に戻ると、机の上にコンラートが置いた伝言があった。
『アルヴィン侯爵が、明日の午後、技術委員会の臨時会議を招集しました。議題は、第二工房の設立認可についてです』
伝言を読み終え、ダリオに見せた。ダリオは一読して、静かに工具を置いた。
「来たか」
「準備はできています。データは揃えました」
「データだけでは足りない。──明日は、覚悟も持っていけ」
ダリオの声が低い。技術の話ではなく、政治の話をしている。あの人が政治の話をするとき、声が一段下がる。嫌いなのだ。でも──逃げない。それがこの人だ。
わたしも逃げない。明日、技術委員会の場で何が起きても。




