第22話 隠された鍵穴
王妃様との面会は、翌日の午後に叶った。
東棟から王妃の私室がある北棟まで、長い回廊を歩く。石造りの壁に掛けられた肖像画が、歴代の王族の顔でわたしを見下ろしている。どの顔にも威厳と重圧がある。この宮廷で生きるということは、常に誰かの視線の中にいるということだ。
屋敷では誰にも見られていなかった。ここでは──見られすぎている。
王妃の私室に通された。あの銀の小箱が窓辺に置かれている。蓋の花の紋様が、午後の光を受けてかすかに輝いていた。王妃様はいつもあの小箱のそばにいる。亡くなったお母様の形見だから。大切なものは手の届く場所に置く──わたしもそうだ。
ダリオからもらった工具入れはいつも作業台の右手に。
「リュシエンヌの管理簿の写しが必要なのね」
「はい。記録室の書類に人の手が入った形跡がありました。何が抜かれ、何が差し替えられたかを確認するために、管理簿との照合が必要です」
王妃様が金庫から束ねられた書類を取り出した。管理簿は三冊。リュシエンヌ様の整然とした筆跡が並んでいる。あの方の字を見るだけで、胸が締めつけられた。もういない人の筆跡は、声と同じくらい鮮明にその人を思い出させる。
一画一画に、三十年分の誠実さが宿っている。
「持ち出しは許可できないわ。ここで確認しなさい」
「承知しました」
王妃の私室で、わたしは管理簿を一頁ずつめくった。書類の題名、作成日、保管場所、閲覧記録。すべてが日付順に記されている。三十年分の記録を、この方は一人で守っていた。ときおり赤い下線が引かれている箇所がある。
リュシエンヌ様が重要と判断した書類だ。その下線の引き方にも、あの方の性格が表れていた。太すぎず、細すぎず、まっすぐに。
記録室で見た配列の乱れと照合していく。頭の中に棚の並びを思い浮かべ、管理簿の記載と突き合わせる。観察して、仮説を立てて、検証する。やることは魔道具の修理と同じだ。
一冊目を終えた時点で、二つの書類が欠けていることがわかった。二冊目でもう一つ。三冊目は整合が取れた。つまり──三つの書類が欠けていた。
一つ目は、ベルント商会への宮廷発注記録の過去五年分。二つ目は、魔石の品質検査報告書。三つ目は──アルヴィン侯爵の技術委員会議事録の一部。
三つとも、ヴェンツェル殿下とベルント商会の関係を裏づける書類だ。リュシエンヌ様が金庫に入れた取引記録の写しと、これらの原本が揃えば、不正の全容が明らかになる。逆に言えば、原本を消せば──写しだけでは証拠として弱くなる。
「三つの書類が記録室から抜かれています」
わたしは管理簿の該当箇所を指し示しながら、一つずつ説明した。王妃様の表情が険しくなった。
「ヴェンツェル──自分の息子ながら、ここまでするとは」
王妃様が目を伏せた。その横顔に一瞬浮かんだのは、怒りではなく悲しみだった。王妃であると同時に、母でもある。息子の不正を暴くことは、母として息子を断罪することでもある。わたしはエーファのことを思った。
血が繋がっていなくても、育てた子を守りたい気持ちは変わらない。王妃様もまた、守りたいのだ──国と、息子の両方を。
「王妃様。原本がなくても、別の方法で証拠を補強できます」
「別の方法?」
「ベルント商会の工房──新たに設立される第二工房の実態を調べます。そこに不正の証拠が集まっているはずです。隠すために抜いた書類も、廃棄せずに手元に置いている可能性が高い。
廃棄すれば証拠隠滅そのものが罪になりますから、保管しつつ、記録室からだけ消す。それが一番安全な隠し方です」
王妃様が少し目を見開いた。
「あなたは──技師というより、捜査官のようね」
「観察して、仮説を立てて、検証する。やっていることは魔道具の修理と同じです」
王妃様が微笑んだ。それから、少し迷うように指先で小箱を撫でた。指先が花の紋様をたどる。何かを決断するとき、この方はいつもこうする。形見に触れて、亡きお母様に問いかけるように。
「ノエルさん。わたしから一つ、お願いがあるの」
「何でしょう」
「ヴェンツェルを──潰さないでほしい。不正は正す。でも、あの子の命まで奪うようなことは」
母の顔だった。権力者ではなく、ただの母の顔。わたしはうなずいた。
「王妃様。わたしは誰かを潰すためにここにいるのではありません。ただ──嘘で固められたものを、事実に戻したいだけです」
王妃様が深くうなずいた。その目に、安堵と悲しみが入り混じっていた。わたしは一礼して退室した。廊下に出ると、窓から射し込む午後の光がまぶしかった。管理簿に記された三十年分の記録が、まだ頭の中に残っている。
リュシエンヌ様の声が聞こえるようだった。──記録は嘘をつかない。人は嘘をつく。だから記録を守るのだと。
◇
工房に戻ると、ダリオが珍しく立ち上がって迎えた。設計図を丸めて脇に挟み、腕を組んでいる。
「どうだった」
「三つの書類が抜かれていました。ベルント商会の発注記録、魔石の品質検査報告、技術委員会議事録の一部」
「全部、殿下に都合の悪い書類だな」
ダリオが顎に手を当てた。窓から差し込む西日が、工房の中を橙色に染めている。作業台の上に並んだ工具が影を長く伸ばしている。髭が少し伸びている。ここ数日、遅くまで工房に残っていたのだろう。わたしのことだけでなく、工房全体のことを考えている。
主任技師としての責任と、殿下との暗闘と。この人の背負うものは重い。
報告を終えた後、わたしは昨夜のエルザの紙片のことを話した。連絡手段が危うくなっていること。第二工房の情報を得るには、もっと安全で確実な方法が要ること。
「ダリオさん。エルザとの連絡を紙片や庭園で続けるのは限界です。侍女の動きがイルマに監視されている。もっと離れた場所から、安全にやり取りできる手段が必要です」
ダリオが黙って棚に歩み寄り、奥の引き出しから小さな箱を取り出した。わたしの作業台の上に置く。
「通信用の魔道具だ。対になった二枚の銀の小板に魔力を通すと、片方に書いた文字がもう片方に浮かぶ。距離に制限はない」
箱を開けると、手のひらに乗る銀色の小板が二枚。表面に微細な歯車模様が刻まれている。繊細な造りだが、どこか古い。使い込まれた痕跡はなく、埃が薄くかぶっていた。
「これ、ダリオさんが作ったものですか」
「昔な。使う機会がなかった」
師匠のシャルロッテが宮廷を辞任した後、孤立したダリオが誰かと連絡を取るために作ったのかもしれない。結局使われなかったということは──連絡する相手がいなかったのだ。その事実が、少し胸を痛ませた。
何年もの間、この小さな銀板は引き出しの奥で眠っていた。主の孤独を映すように。今、この小板がようやく役割を得る。ダリオが作ったものが、わたしの手を経て、エルザの胸元に届く。人と人をつなぐ道具──魔道具の本来の姿だ。
一枚をエルザに渡し、もう一枚を自分で持つ。離れていても、声なき声でつながることができる。
その夜、東棟の庭園で最後になるかもしれない対面をした。夜の庭園は昼間とはまるで違う。噴水の音が大きく響き、植え込みの影が濃い。人目を避けるには都合がいいが、いつ誰かに見られるかわからない緊張もある。足音を殺して歩く。
屋敷の廊下を歩くときの癖が、こういうときに役に立つ。グスタフに気づかれないように部屋を出る練習を、九年間していたのだから。
エルザに小板を手渡すと、エルザは銀色の表面をじっと見つめた。月明かりの中で、その目は揺れていたが──弱さではなく、覚悟の揺れだった。以前のエルザなら、こんな夜に庭園に出てくることすらできなかっただろう。あの人も変わりつつある。
「これで、連絡が取れるの?」
「ええ。もう庭園で会う必要はない。危険を感じたらすぐに使って。わたしに知らせて」
エルザが小板を胸元にしまった。そして──顔を伏せた。
「ノエルさん。第二工房に、わたしの弟が雇われたの」
「弟が?」
「田舎から呼び寄せられて。ベルント商会が人を集めている。技師ではなく、雑用や運搬の仕事だと聞いているけれど──弟は何も知らない。利用されているだけ」
エルザの目に決意があった。かつてイルマのそばで泣いていた女性とは違う目だ。弟を守りたい。家族を人質にされている彼女にとって、弟が商会の内部にいることは脅威であると同時に、情報源でもある。
「無理はしないで。でも──第二工房の中で何が行われているか、弟から聞けることがあれば」
「わかっている。弟には、わたしから聞くわ」
庭園の噴水が月光に光っている。水しぶきが銀色の粒になって夜空に散る。二人の間に、細いが確かな糸がつながった。
エルザが去った後、わたしはしばらく噴水のそばに立っていた。夜風が頬を撫でる。冷たいが、不快ではない。屋敷にいた頃は、夜の庭園に出ることすら許されなかった。今はここに立っている。自分の足で、自分の意志で。
この宮廷の空の下に、わたしの場所がある。守るべきものがある限り、わたしは立ち続ける。
小板を握りしめた。ダリオが作り、わたしが受け取り、エルザに託した。この糸を断ち切られないように──わたしたちは、それぞれの場所で戦う。




