第21話 正式技師の重さ
正式技師の腕章は、見習いのそれより少しだけ重い。
布の厚みが違うのか、刺繍の糸が多いのか。手に取ったとき、ほんの数グラムの差がずしりと腕にかかった。青い布地に銀糸の歯車紋。わたしの名前が、宮廷の技師名簿に刻まれた証だ。
「ノエル・カペル。王立魔道具工房、正式技師」
声に出してみる。まだ自分のものとは思えない。三ヶ月前まで、わたしは辺境の屋敷で針仕事をしていた伯爵夫人だった。いや、名ばかりの伯爵夫人だった。壁の染みを数え、グスタフの帰りを待ち、誰の子とも知れぬ赤子を抱いて夜を過ごしていた。
窓の向こうにどんな景色が広がっているかも忘れるほど、同じ部屋で同じ日々を繰り返していた。
今は違う。自分の手で掴み取った肩書きがある。この腕章は、誰かに与えられたものではない。壊れた歯車を直し、データを積み上げ、イルマの嘘を退け、技術委員会の前で証明した結果だ。
コンラートが工房の入り口で待っていた。腕章を見て、ぱっと顔を輝かせる。そばかすの頬が赤くなり、手に持ったやすりを落としそうになっている。
「つけましたね! 似合ってます!」
「大げさよ」
「大げさじゃないです。ダリオ先生だって嬉しそうでしたよ。先生が嬉しそうにするの、珍しいんですから」
ダリオは工房の奥で設計図に向かっていた。わたしが入っていくと、ちらりと腕章に目をやり、それだけで視線を戻した。「おめでとう」も「よかったな」も言わない。でも口の端がほんの少し上がっているのを、わたしは見逃さなかった。
舞踏会のときに見た、あの控えめな笑みと同じだ。
「ダリオさん。正式技師として、最初にやるべきことは何ですか」
「自分で決めろ。もう見習いじゃない」
突き放すようで、信頼を示す言い方。この人はいつもそうだ。工房に来たばかりの頃は戸惑ったが、今はわかる。自分で考えろ、という意味だ。考えた結果が間違っていたら、そのときに直してくれる。
わたしは考えた。第二世代の暖房魔道具を実用水準まで引き上げること。それが最優先だ。技術委員会で披露した試作品の原理は証明できたが、出力がまだ足りない。あの小さな箱一つでテーブルの上が温まる程度では、実用にはほど遠い。
一部屋を暖めるには、現行の魔石式の三倍の効率が必要になる。
「第二世代の改良を進めます。効率を三倍にする方法を見つけます」
「三倍か。大きく出たな」
「大きく出ないと、小さくまとまりますから」
ダリオが今度ははっきりと口元を緩めた。工房の窓から差し込む光が、作業台の上に散らばった歯車の欠片を照らしている。真鍮と銀と鉄。さまざまな金属が、それぞれの色で光を返す。この工房に来て初めて、世界にこれほど多くの色があることを知った。
屋敷の窓からは、いつも同じ灰がかった空しか見えなかった。
「いい心がけだ。ただし──今日中にリュシエンヌ様の記録室を確認しろ。正式技師には記録室への立ち入り権限がある。後任の管理者が入る前に、中の状態を把握しておくべきだ」
リュシエンヌ様の記録室。あの方が亡くなってから、後任はまだ決まっていない。宮廷の記録管理は一時的に書記官が代行しているが、リュシエンヌ様ほどの緻密さはない。三十年間、一日も休まず記録を守り続けた人の代わりは、そう簡単には見つからない。
東棟三階の記録室へ向かった。廊下を歩くたびに、すれ違う人々の視線が変わったことに気づく。見習いの白い腕章のときは透明人間だった。会釈もされず、名前も呼ばれず、廊下の隅を歩いていた。正式技師の青い腕章は目に留まる。会釈をされることが増えた。
名前を呼ばれることも。
ただし、その視線には好意だけではなく、値踏みも混じっている。あの女は誰だ。元伯爵夫人だろう。離縁されて宮廷に来たらしい。どういう経緯で正式技師になったのか──そんな興味と警戒が入り混じった目を感じる。気にしないようにした。
大切なのは肩書きではなく、この腕章を裏づける実力を証明し続けることだ。
廊下の途中で、窓から見える中庭が目に入った。噴水が陽光を受けて虹を作っている。この宮廷には美しいものがたくさんある。同時に、見えないところで暗い力が動いている。リュシエンヌ様はその両方を知っていた。
美しさの中に潜む嘘を──三十年間、記録の中に見続けていた。
記録室の扉の前に立つ。リュシエンヌ様から預かった鍵は王妃様にお渡ししたが、正式技師の権限で通常の出入りはできる。腕章を衛兵に見せ、扉を開けた。
瞬間、微かな違和感があった。
空気が動いている。窓は閉まっている。暖房も入っていない。なのに空気の流れがある。誰かが最近ここに出入りした痕跡だ。壊れた魔道具を調べるときと同じ──まず五感で違和感を拾い、それから原因を探る。
棚を順に見ていく。リュシエンヌ様の管理していた頃と比べて、書類の並びが微妙に違う。背表紙の向きが不揃いになっている箇所がある。あの丁寧なリュシエンヌ様なら絶対にこうはしない。一冊ずつ向きを揃え、題名が一直線に並ぶように整えていた。
それが乱れている。
部屋の奥に進んだ。リュシエンヌ様が使っていた机がそのまま残っている。引き出しは閉まっていたが、一番上の引き出しだけが微妙に出っ張っていた。几帳面なリュシエンヌ様が、引き出しを中途半端に閉めるはずがない。
誰かが中を確認した後、急いで閉めたのだ。机の上にはペン立てと、空になったインク壺。あの方がもういないことを、この部屋が静かに告げている。
埃の付き方にも違和感がある。棚の上は薄く埃が積もっているが、ところどころ指の跡がある。最近誰かが棚から書類を引き出した痕跡だ。しかも一箇所ではない。三箇所、いや四箇所。手当たり次第に探していたのか、それとも目当てのものがわかっていたのか。
金庫は──中身はすでに王妃様のもとにある。扉は閉まったまま。鍵穴に傷はない。鍵師はまだ呼ばれていないらしい。つまり金庫は開けられていない。中身が移された事実を、侵入者は知らないのだ。
だが、棚の書類には確実に手が入っている。何が抜かれたのか、何が差し替えられたのか。リュシエンヌ様の管理簿がなければ確認のしようがない──いや、待て。管理簿の写しは、王妃様に預けた書類の中にあったはずだ。
扉の鍵を確かめ直した。正式技師の権限で入れるということは、殿下の息のかかった人間にも入れるということだ。鍵を強化する必要がある──いや、それよりも先に現状を記録すべきだ。わたしはノートを取り出し、棚の配列と埃の状態を一つ一つ書き留めた。
観察、記録、分析。魔道具の不具合を追うときと同じ手順。
工房に戻り、ダリオに報告した。
「記録室に何者かが入った形跡がある。書類の配列が乱れている。埃の付き方から見て、ここ数日以内のことです」
ダリオの目が鋭くなった。革の前掛けの紐を締め直すのは、考え事をしているときの癖だ。
「ヴェンツェル殿下が動き始めたか。リュシエンヌ様の重しが外れた以上、当然と言えば当然だが──早い」
「管理簿の写しと照合すれば、何が改ざんされたか特定できます。記録室の埃の状態から見て、侵入は数日以内です。
おそらくリュシエンヌ様が亡くなった直後ではなく、正式技師の任命が決まった頃──つまり、わたしが記録室に入れるようになると知って、先手を打ったのでしょう」
「王妃様に確認を取る。明日、面会を申し込もう」
ダリオはそれだけ言って、作業台に視線を戻した。でも手が止まっている。工具を持ったまま、じっと考え込んでいる。この人が手を止めるのは、よほど深刻なときだけだ。シャルロッテ先生が去った後、一人でこの工房を守ってきた人だ。
宮廷の暗い力がどれほどのものか、わたし以上に知っている。
その夜、工房で一人作業をしていると、扉の下に紙片が差し込まれた。これまでエルザとの連絡に使ってきた方法だ。東棟の庭園で会う前に、まず紙片で合図を送る。わたしは拾い上げ、文面を読んだ。
『ベルント商会が、王都に新しい魔道具工房を開設する準備を進めています。ヴェンツェル殿下の後ろ盾つきです』
第二工房。王立工房に対抗する、殿下の私的な工房。つまり──技術を奪い、人材を引き抜き、王立工房を空洞化させる狙いだ。
紙片を灯りにかざし、裏に返した。追記がある。
『紙片でのやり取りが危険になっています。イルマ様の周囲が警戒を強めています。別の連絡手段がほしい』
紙片をノートに挟み込んだ。エルザの文字は細くて急いでいる。イルマの目を盗んで書いたのだろう。あの屋敷で、わたしも同じように隠れて書き物をしていた。針仕事の合間に、壊れた置き時計の歯車のスケッチを。誰にも見つからないように、裏紙に小さく。
あの頃のわたしと、今のエルザが重なる。彼女もまた、自分の意志で動き始めている。
窓の外に月が出ていた。銀色の、丸い月だ。月明かりが作業台の工具を照らし、やすりの表面が淡く光っている。屋敷の窓から見た月と、工房の窓から見る月は同じもののはずなのに、まるで違って見える。今のわたしには、月明かりの中でもやるべきことがある。
正式技師になったばかりの足元に、新たな亀裂が走り始めていた。腕章の重さが、また少し増した気がした。でも──その重さを、わたしは下ろすつもりはない。




