第19話 仮面舞踏会の夜に
宮廷で仮面舞踏会が開催されると聞いたのは、三日前のことだった。
春の訪れを祝う恒例行事。仮面をつけて身分の差を一時忘れる──というのが建前で、実際には誰もが相手の仮面の下を見極めようとする。
「行きたくないのですが」
設計図に向かいながら言うと、ダリオに一蹴された。
「行け。宮廷の行事に顔を出さないのは、存在を消すのと同じだ」
仮面を用意する余裕はなかった。コンラートが倉庫から見つけてきてくれた古い仮面は装飾が剥がれかけている。わたしは壊れた魔道具から取り外した精密な歯車を三つ、右頬に並べて固定した。銀色に光る小さな歯車。
「かっこいいですね!」
ドレスは王都に来たときから着回している一着きり。洗い晒して色褪せているが、アンナが最後にくれた裁縫道具で袖口に歯車と星の小さな刺繍を入れた。
大広間は魔道具の灯りで溢れていた。天井の照明が七色に輝き、シャンデリアの光の粒が床を踊るように照らしている。美しいが、圧倒された。
壁際に立った。大勢の中にいると自分がとても小さく感じる。九年間の閉塞が染みついている。
ダリオが隣に来た。黒い仮面の下でも、あの鋭い目はすぐにわかった。
「緊張しているか」
「少し」
「壁にいてもいい。だが──せっかくだから、踊れ」
「踊れません。伯爵夫人だった頃も、舞踏会には出たことがなくて」
「出なかった?」
「グスタフが連れていかなかったので」
ダリオが一瞬、眉を寄せた。わたしのためではない──九年間のすべてに対する静かな怒りだ。
「なら、今日が最初だ」
大きな手が差し出された。仮面の下の目は本気だった。
わたしはその手を取った。なぜ取れたのかわからない。ただ──この人の手なら、と思った。
ダリオのリードは穏やかだった。わたしのぎこちない足取りに合わせてゆっくりと動き、踏み外しそうになるとそっと手で支える。引っ張るのではなく、支える。魔道具を扱うときと同じ繊細な手つきだ。
「足を踏みましたか」
「踏んでない」
「本当に?」
「嘘は言わない」
仮面の下で、お互いに笑っていた。誰かと踊る日が来るなんて、九年間想像すらしなかった。
一曲が終わり、壁際に戻った。手のひらにダリオの手の温もりが残っている。
「ノエルさん」
仮面の女性に声をかけられた。エルザだ。白い仮面に地味なドレス。
「少しだけ、お話が」
ダリオに目配せして、大広間の端へ移動した。人の声と音楽にまぎれて会話は周囲に届かない。
「今夜、ヴェンツェル殿下がイルマ様と密会します。殿下の私室で。舞踏会の最中なら人目を避けやすいので」
「何を話すのかわかる?」
「ダリオ先生を工房から追い出す計画を、最終決定すると聞きました。先生がかつて──宮廷を追放された技師の弟子だったことを暴くと」
宮廷を追放された技師。生前、リュシエンヌが「かつて工房を追われた技師がいた」と話してくれたことがある。
「ありがとう、エルザ。危険なことをさせてごめんなさい」
「いいんです。わたしも──もう、黙っているのは嫌なんです」
エルザの声には覚悟があった。
◇
舞踏会の喧騒に紛れて、ダリオに伝えた。
ダリオは仮面をそっと外した。痛みを堪えているような目だった。
「師匠のことは──いずれ話すつもりだった」
「聞かなくて大丈夫です。今は対策を」
「いや、聞いてくれ。お前には知っておいてもらわないと困る」
壁にもたれ、天井を見上げた。
「わたしの師匠──名をシャルロッテという。三十年前、王立工房の初代主任技師だった女性だ。リュシエンヌ様が生前語っていた、かつて工房を追われた技師──それが彼女のことだ」
「リュシエンヌ様の恩人」
「ああ。シャルロッテは天才だった。魔道具の基礎理論を確立し、工房を一から作り上げた。だが当時の権力者に目をつけられ、技術を私物化しようとする勢力に抵抗した結果、追放された」
「……今と同じ構図」
「そうだ。歴史は繰り返す。だが──シャルロッテは一人で戦って、一人で負けた。わたしは同じ轍を踏むつもりはない」
仮面のないダリオの顔。初めて見る剥き出しの表情に、脆さと強い意志が同居していた。
「お前がいるから」
短い言葉だった。でも胸の奥が大きく震えた。
「ダリオさん。わたしも、あなたがいるから──ここに立っていられます」
ダリオは何も言わなかった。ただほんの一瞬、わたしの手に指先が触れて、離れた。舞踏会の音楽が遠くに聞こえる。
大広間の向こうで、殿下と思しき仮面の男がイルマを伴って退出するのが見えた。密会が始まる。翌日にはダリオの過去を使った攻撃が来るだろう。
でも敵が知らないことがある。第二世代の暖房魔道具。これが完成すれば、すべてのゲームが変わる。




