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夫の愛人の隠し子を九年育てましたが、そろそろ自分のために生きます  作者: 渚月(なづき)
第2章

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第17話 味方の顔をした壁

ベルント商会の使者は、柔らかい笑みを浮かべた中年の男だった。


仕立てのいい上着、手入れされた髭。物腰は丁寧で声も穏やか。敵意は微塵も感じなかったが、それがかえって警戒を強くさせた。本当に危険な相手は刃を隠したまま近づいてくる。


「ノエル・カペル様とお見受けいたします。ベルント商会のフランツと申します。このたびの暖房魔道具の改良、まことに見事でございました。宮廷中が話題にしております」


「ありがとうございます」


「単刀直入に申し上げます。当商会は、この技術の製造と販売を担いたいと考えております。ただし──独占ではありません」


「独占ではない?」


「優先権です。製造と販売の優先権をいただきたい。他の商会にも開放しますが、当商会が第一優先で扱える形で。品質を保つためには、信頼できる一社が主導する必要がございます」


巧みだった。「独占」を「優先権」に置き換え、「品質管理」という大義名分を添えている。だが実質的には同じだ。優先権を持つ商会が価格を決め、供給を管理する。名前を変えただけの独占。


「技術の利用条件は、技術委員会が決定するものです。わたし個人が応じられる話ではありません」


「もちろんです。ですが──開発者のご賛同があれば、委員会への働きかけがしやすくなります。ノエル様が賛同していただければ、話は格段にまとまりやすい」


「わたしの賛同は差し上げられません」


フランツの笑みが一瞬だけ固まった。すぐに戻ったが、目の奥の温度が下がったのがわかる。


「残念です。改めてご検討いただければ幸いです。当商会は──いつでもお待ちしております」


丁寧な一礼の中に圧力があった。「断ればどうなるか」を匂わせる、言葉にしない脅し。


ダリオが奥から出てきた。聞いていたのだ。


「よく断った。だが──あの男は諦めない。次は別の手で来る。お前の周囲を固めて、味方を切り崩す。孤立させてからもう一度持ちかける」


予想は正確だった。翌日から変化が始まる。


まず工房への修理依頼がぴたりと止まった。毎日のように届いていたものが、依頼簿を開いても白紙だ。


「おかしいですね。先週まで三件も四件も入っていたのに」


コンラートが首を傾げた。


誰かが依頼者に圧力をかけている。「あの工房に関わるな」と。次に、発注していた部品が納期を過ぎても届かなくなった。


「業者に問い合わせたところ、発注が取り消されていると言われました。誰の指示かは教えてくれませんでした」


糸を引いているのはヴェンツェル殿下だ。直接手を下さず、周囲から締め上げていく。空気を少しずつ奪い、気づいたときには息ができなくなっている。


三日目、アルヴィン侯爵が従者もつけず一人で工房を訪ねてきた。


「ノエル・カペル。少し話がある」


以前より穏やかな態度だったが、眉間に皺が寄り目が泳いでいる。穏やかさの中に苦渋が見えた。


「ベルント商会との取引に応じなさい。それがお前のためだ」


「侯爵。それは脅迫ですか」


「忠告だ。わたしは──お前の技術を潰したくはない。だが、殿下には逆らえない。わたしにも守るべきものがある。家族がいる。領地がある。殿下に逆らえば──すべてを失う」


目を伏せた侯爵の声は低かった。技術委員長として技術を守りたい。でもそれができない。


「侯爵。あなたは技術委員会の委員長です。技術を守るのが、あなたの役割ではないですか」


「役割と立場は違う。わたしは──」


言葉を切り、喉が動いた。


「……すまない」


去り際に落としたその一言。リュシエンヌ様の言葉を思い出す。「あの人は、根っからの悪人ではない」。



夜、工房でダリオと向かい合った。


「依頼が止まり、材料が止まり、侯爵が圧力をかけてきた。次は何が来ると思う」


「わたし自身への攻撃。過去を掘り返す。離縁の経緯、あるいは──エーファのこと」


ダリオがうなずいた。エーファを巻き込むわけにはいかない。


「ダリオさん。わたし、やり方を変えます」


「どう変える」


「守るだけでは勝てない。攻める手を考えます」


ダリオが少しだけ目を見開き、それからうなずいた。


「いいだろう。だが一人で抱え込むな。隣にいる人間を使え」


隣にいる人間。ダリオ、コンラート、そしてもしかしたらあの侍女も。


設計図を広げた。暖房魔道具の第二世代──魔石を使わない新しい設計思想。これが完成すれば、古い技術の独占は技術の進歩によって無意味になる。


ペンを走らせた。線を引くたびに頭の中が晴れていく。正面から壁を壊せないなら、壁の上を越えればいい。


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