第16話 残された設計図
手紙を握ったまま、わたしは考えた。
罠かもしれない。わたしを記録室におびき出し、不正侵入の疑いをかける──イルマならそれくらいの策を練るだろう。だが放置もできない。リュシエンヌ様が命を削って積み上げたものが一夜で消える、それだけは許せなかった。
ダリオに手紙を見せた。しばらく黙って紙の端をなぞっている。考えるときの癖だ。
「行くな、と言いたいところだが──お前は行くんだろう」
「はい」
「なら、わたしも行く」
「ダリオさんが動けば目立ちます。主任技師が夜の記録室にいれば、それだけで話題になります」
「目立っていい。正規の権限で記録室に入る。わたしは主任技師だ。技術記録の確認という名目なら、誰も文句は言えない。堂々と入る。隠れる必要はない」
隠れるのではなく、正面から。シンプルだが強い。
翌日の夜、わたしたちは東棟三階の記録室に向かった。廊下は暗く、燭台の灯りがちらちら揺れる。ダリオは普段通りの歩幅で歩いた。堂々と。
預かった鍵で金庫を開けた。鍵穴に差し込むとき指先がうまく合わなかったが、ダリオが黙って肩に手を置いてくれて、呼吸が落ち着いた。
中には束ねられた書類が入っていた。ヴェンツェル殿下とベルント商会の取引記録の写し。魔石の不正取引──宮廷への納品価格と商会の仕入れ価格との大きな開き、差額が殿下の私的な資金に流れている痕跡。すべて日付と署名つきだ。
「これを写す。元の場所に戻しておけば、消えたことに気づかれない」
二人で手分けして重要な箇所を書き写す。リュシエンヌの几帳面な筆跡を見ながらペンを走らせた。一字一字が丁寧に書かれている。三十年間、毎日こうして記録を取っていたのだ。
三十分ほど経った頃、廊下に足音が聞こえた。二つ。重い靴音と軽い靴音。
「隠れろ」
金庫を閉めて鍵をかけ、書架の陰に身を潜めた。背中を棚に押しつけ、息を殺す。
扉が開いた。入ってきたのは──アルヴィン侯爵とイルマだった。
「早く済ませましょう。リュシエンヌが死んだ今がこれに手を入れる最後の好機です」
イルマの低い早口に焦りがにじんでいる。
「金庫の鍵は?」
「リュシエンヌの遺品から探させています。まだ見つかっていませんが、鍵師を呼べば開けられます」
鍵はわたしが持っている。遺品から見つかるはずがない。
侯爵が金庫の前に立ち、鍵穴を覗き込んだ。
「……鍵がないなら今日は無理だ。鍵師の手配を急げ。二日以内に」
「明後日には手配します。ヴェンツェル殿下にもお伝えしなければ」
足音が遠ざかり、扉が閉まった。暗闇の中でダリオと顔を見合わせる。
「アルヴィン侯爵が直接動いているとは──思った以上に深く嵌まっているな」
「ダリオさん。あの手紙は本物でした。誰かがわたしたちに知らせてくれた」
「心当たりは」
「……ひとつだけ」
泣いていたあの侍女。イルマの側にいながら情報を流してくれた彼女もまた、声を殺して泣いている人間だ。
工房に戻り、写した書類をダリオの専用金庫にしまった。二重の控え。万が一どちらかが失われてももう片方が残る。
「明後日までに金庫の中身を安全な場所に移す。王妃様にお預けする。王妃様の私室なら、殿下でも手が出せない」
翌日、金庫の中身を全て取り出し、ダリオとともに王妃の私室を訪ねた。
王妃は書類に目を通した。一枚、また一枚。表情が徐々に険しくなっていく。
「リュシエンヌ……あなたはここまで調べていたのね。三十年間、たった一人で」
悲しみを含んだ声だった。
「お預かりいただけますか」
「ええ。わたしの金庫に入れましょう。この記録は──いずれ必要になるときが来るわ。リュシエンヌの遺志を、わたしが継ぎます」
王妃の目には静かな決意が宿っていた。
帰り道、ダリオが呟いた。
「リュシエンヌ様の設計図だ」
「設計図?」
「記録を残し、信頼できる人間に託し、権力に抗う──それがあの人の設計図だった。魔道具ではなく、人の設計図。お前は今、その一部になっている」
黙ってうなずいた。重い。でも──軽くあるべきものではない。
工房に戻ると、コンラートが走ってきた。
「ノエルさん! ベルント商会から、工房に使者が来ています。独占販売権の件で、直接交渉したいと」
深呼吸をして、背筋を伸ばし、工房の扉を開けた。




